神坂峠
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[[w:古事記|古事記]] {{note|(712年/奈良)}} において{{ruby|日本武尊|やまとたけるのみこと}}の東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。また {{年号|755}}、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男が「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。 | [[w:古事記|古事記]] {{note|(712年/奈良)}} において{{ruby|日本武尊|やまとたけるのみこと}}の東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。また {{年号|755}}、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男が「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。 | ||
− | + | {{年号|815}} には天台宗の開祖である[[w:最澄|伝教大師]] (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という[[dic:布施屋|布施屋]]を建てた。また {{年号|855}} 正月28日の太政官符 (類聚三代格) にも峠越えの大変さが記されている。 | |
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− | + | 恵奈郡坂本駅と信濃国阿智駅をつなぐ74里 {{note|(約40km)}} の道はつづら折りの険しい坂で、朝早く出ても到着は夜遅く、数駅分の労を要し、駅子の負担は過重、冬には道中に死者が出ていたと書かれている。難所の様子は[[大井駅 (東山道)|大井駅]]、坂本駅、阿智駅に配備された駅馬の頭数や、駅子の課役の特別免除、また駅子の逃亡などからも見て取れる。 | |
[[w:今昔物語集|今昔物語集]] {{note|(平安時代)}} 二十八巻 [[信濃守藤原陳忠落入御坂語]] 第三十八には {{年号|1003}} に信濃守の任務を終え京都に帰る途中の[[w:藤原陳忠|藤原陳忠]]が神坂峠で馬ごと谷底へ落ちた、谷底で見付けた大量の平茸と共に引き上げられたという逸話が載せられている。 | [[w:今昔物語集|今昔物語集]] {{note|(平安時代)}} 二十八巻 [[信濃守藤原陳忠落入御坂語]] 第三十八には {{年号|1003}} に信濃守の任務を終え京都に帰る途中の[[w:藤原陳忠|藤原陳忠]]が神坂峠で馬ごと谷底へ落ちた、谷底で見付けた大量の平茸と共に引き上げられたという逸話が載せられている。 |
2009年8月12日 (水) 10:37時点における版
現在は湯舟沢から神坂峠の頂上まで舗装路が整備されており普通車での走行が可能である[1]。頂上の
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歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として少なくとも古墳時代には使用されていた事が分かっている。
古事記 (712年/奈良) において
815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。また 855年 (斉衡2年/平安) 正月28日の太政官符 (類聚三代格) にも峠越えの大変さが記されている。
恵奈郡坂本駅与信濃国阿智駅相去七十四里雲山畳重路遠坂高載星早発犯夜遅刻一駅之程猶倍数駅駅子負荷常困運送寒節之中道死者衆
恵奈郡坂本駅と信濃国阿智駅をつなぐ74里 (約40km) の道はつづら折りの険しい坂で、朝早く出ても到着は夜遅く、数駅分の労を要し、駅子の負担は過重、冬には道中に死者が出ていたと書かれている。難所の様子は大井駅、坂本駅、阿智駅に配備された駅馬の頭数や、駅子の課役の特別免除、また駅子の逃亡などからも見て取れる。
今昔物語集 (平安時代) 二十八巻 信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八には 1003年 (長保5年/平安) に信濃守の任務を終え京都に帰る途中の藤原陳忠が神坂峠で馬ごと谷底へ落ちた、谷底で見付けた大量の平茸と共に引き上げられたという逸話が載せられている。
扶桑略記 1058年 (康平元年/平安) 11月16日条では「信濃国言上神御坂霖雨間頽壊事」(神坂峠の道が大雨で崩れた) と記されている。
このような難所ゆえに補助道として木曽路が開かれたが、戦国時代に本格的な整備が行われると人々の通行は次第にそちらへ移っていった。江戸時代頃には伊那谷へ出るのにも大平峠や清内路峠が使われるようになって神坂峠の役割も終了した。