神坂峠は中津川市と長野県下伊那郡阿智村の県境に位置する標高 1,569m の峠。神の御坂、科野坂、信濃坂などと書かれる事もある。古代東山道最大の難所である。
現在は湯舟沢から神坂峠の頂上まで舗装路が整備されており普通車での走行が可能である[1]。頂上の追分には恵那山への登山口と祭祀遺跡がある。また中央自動車道恵那山トンネルが神坂峠の真下を通っている。
歴史
神坂峠は祭祀遺跡から出土した土器から畿内と東国とをつなぐ道として少なくとも古墳時代には使用されていた事が分かっている。
古事記 (712年/奈良) において日本武尊の東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男が「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。
神坂峠は古代東山道最大の難所である。坂本駅-阿智駅の間にあり、峠越えの大変さは斉衡2年 (855年) 正月28日の太政官符 (類聚三代格) に記されている。
恵奈郡坂本駅与信濃国阿智駅相去七十四里雲山畳重路遠坂高載星早発犯夜遅刻一駅之程猶倍数駅駅子負荷常困運送寒節之中道死者衆
74里 (約40km) の道はつづら折りの険しい坂で、朝早く出ても到着は夜遅く、数駅分の労を要し、駅子の負担は過重、冬には道中に死者が出ていた。この事は大井駅、坂本駅、阿智駅に配備された駅馬の頭数や、駅子の課役の特別免除、また駅子の逃亡などからも見て取れる。
今昔物語集 (平安時代) 二十八巻 信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八には 1003年 (長保5年/平安) に信濃守の任務を終え京都に帰る途中の藤原陳忠が神坂峠で馬ごと谷底へ落ちた、谷底で見付けた大量の平茸と共に引き上げられたという逸話が載せられている。
写真集
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2009/06 旧東山道の山道。
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2009/06 養蚕用の風穴跡。
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2009/06 養蚕用の風穴跡。
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2009/06 強清水の看板。
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2009/06 強清水。
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2009/06 強清水。
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2009/06 山頂近く。
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2009/06 山頂近く。
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2009/06 峠の頂上。
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2009/06 峠頂上の案内板。
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2009/06 富士見台ロープウェイ/阿智村へ降りる道(通行止め?)と恵那山登山口。
関連項目
外部リンク