阿木城跡

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現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。
  
 
== 沿革 ==
 
== 沿革 ==
岩村城の子城として戦国期に築かれた要塞である。
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阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。少なくとも周辺地域が武田と織田の最前線となった戦国から安土桃山時代にかけて、安岐遠山氏の城としてあったのだろう。
  
武田勝頼の軍勢によって他の子城と共に落とされた。
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* 永享年間 {{note|(1429-1440年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫太郎の支配。
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* 文安年間 {{note|(1444-1448年/室町後期)}} 頃から遠山安木孫次郎の支配 (長享元年 {{note|(1487年)}} 江州御動座到着に孫太郎の名あり)。
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* {{年号|1574}} 武田勝頼の軍勢のより陥落。
  
 
== 構造 ==
 
== 構造 ==
[[見沢八幡神社]]の裏手にあたる{{ruby|城ヶ峰|じょうがね}}と呼ばれる里山に砦あるいは城館があったと言われており、現在でも非常に良い保存状態の遺構が残っている。
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阿木城はまだ本格的な調査が行われていないが、脆い[[サバ]] {{note|(堆積岩)}} の山肌ながら杉の根が土壌を保持しており遺構の保存状態は非常に良い。
  
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城ヶ峰山頂の本曲輪 (本丸) は千畳敷と呼ばれており、この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。ただし石垣や石畳のような長期的・恒常的な本曲輪への往来を示す遺構は存在しない。また土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは、武田勝頼の軍勢に落とされて程なく植林地となったためであろう。
  
地理的に八屋砥、久須田、橋場を見渡すのに都合が良く、また野内方面を臨めば[[岩村街道]] (現在の県道407号) からの敵の侵入を警戒できる位置にある。峰の西に祀られている見沢[[八幡神社]]は阿木城の鎮守として岩村城の八幡神社から勧請されたものである。
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小規模ながら本格的な構造となっているのは、元亀3年から天正2年 {{note|(1572-1574年)}} にかけて武田軍に落とされた岩村城に対する織田方の最前線拠点となったためである<ref>織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものかもしれない。</ref>。ただし岩村城から勧請された[[八幡神社 (見沢)|八幡神社]]を見ても、岩村遠山氏時代からここが使用されていたのは明らかである。
  
現在の城ヶ峰は藪や急勾配もなく登りやすい山道である。杉に囲まれた森の中に人工的に削られた造成がいくつも見られる。杉が植林されており視界は良くないが、この根のおかげで遺構が何百年も崩れず良い状態を保っているのであろう。峰の頂上は広く平らな{{ruby|曲輪|くるわ}}になっており千畳敷と呼ばれている。山頂までにいくつかの曲輪や縦掘りなどの人工的造形が見られる。
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阿木は岩村と大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったのだろう。
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== 写真集 ==
 
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* JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約15分。
 
* JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約15分。
 
* 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能。
 
* 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能。
 
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== 四方山話 ==
 
== 四方山話 ==
 
* 野田にも砦の跡があると聞くが詳細不明{{要調査}}。
 
* 野田にも砦の跡があると聞くが詳細不明{{要調査}}。
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* 現在の[[阿木高校]]から[[忠霊塔]]付近に城館 (本城) があったのかもしれない (本城が転じて本庄の字になった)。
  
 
== 参照 ==
 
== 参照 ==
 
* [[阿木城/文献散策]]
 
* [[阿木城/文献散策]]
* [[岩村城]]
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* [[岩村城]], [[飯羽間城]], [[大井城]]
 
* [[見沢八幡神社]]
 
* [[見沢八幡神社]]
 
* [[堀田屋敷跡]]
 
* [[堀田屋敷跡]]
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* [[岩村城の戦い]]
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==

2009年6月30日 (火) 18:13時点における版

名所旧跡
阿木城跡
阿木城跡
所在地岐阜県中津川市阿木字大門前
位置N35:24:08.28, E137:27:45.36[MAP] (標高532m)
遺構本曲輪、二ノ曲輪、腰曲輪、堀切
文化財市指定史跡
交通明知鉄道阿木駅徒歩20分

阿木城(あぎじょう)は戦国時代に使用されていた中世の城。遠山十八子城 (岩村城の枝城) の一つとして信長軍記、甲陽軍鑑などにその名が記録されている。

見沢八幡神社裏手の城ヶ峰(じょうがね)に山城の遺構が残っており、そこに城か砦のようなものがあったと古くから伝えられている。ただし平時に役人や兵士が居る屋敷や詰め所は別にあって、城ヶ峰は見張りや戦時に立て篭もるための山城だったという見立てが一般的である。

現在ではこの城ヶ峰の山城跡を阿木城跡と呼んでいる。

目次

沿革

阿木城 (山城) がいつ頃に築かれたものなのかははっきりしていない。少なくとも周辺地域が武田と織田の最前線となった戦国から安土桃山時代にかけて、安岐遠山氏の城としてあったのだろう。

  • 永享年間 (1429-1440年/室町後期) 頃から遠山安木孫太郎の支配。
  • 文安年間 (1444-1448年/室町後期) 頃から遠山安木孫次郎の支配 (長享元年 (1487年) 江州御動座到着に孫太郎の名あり)。
  • 1574年 (天正2年/安土桃山) 武田勝頼の軍勢のより陥落。

構造

阿木城はまだ本格的な調査が行われていないが、脆いサバ (堆積岩) の山肌ながら杉の根が土壌を保持しており遺構の保存状態は非常に良い。

城ヶ峰山頂の本曲輪 (本丸) は千畳敷と呼ばれており、この周囲に二ノ曲輪、腰曲輪、堀切などの造成跡が残っている。ただし石垣や石畳のような長期的・恒常的な本曲輪への往来を示す遺構は存在しない。また土塁造りながら良い状態で現在まで残っているのは、武田勝頼の軍勢に落とされて程なく植林地となったためであろう。

小規模ながら本格的な構造となっているのは、元亀3年から天正2年 (1572-1574年) にかけて武田軍に落とされた岩村城に対する織田方の最前線拠点となったためである[1]。ただし岩村城から勧請された八幡神社を見ても、岩村遠山氏時代からここが使用されていたのは明らかである。

城ヶ峰山頂から南

城ヶ峰の山頂からは杉の木に遮られなければ岩村城を見る事が出来る[2]。しかし岩村城への狼煙場というには近すぎるし、そもそも岩村城からは保古山や花無山の山頂が見えるため、それらの見張り台から直接上げた方が早い。

阿木は岩村と大井・中津を繋げる道の合流地点であるため、防衛拠点と併せて兵の詰め所や伝令の中継地点という役割が大きかったのだろう。

また城ヶ峰の山頂は阿木の中心地域のほとんどと岩村街道 (県道407号) を見渡すのにも都合が良い。

  1. ^ 織田方の兵法築城に通じた軍学者によるものかもしれない。
  2. ^ Google Earth で確認。本庄は打杭峠に阻まれて見えない。金山神社の丘の上で見えるか見えないかというところ。

写真集

交通

  • JR中央線恵那駅より明知鉄道に乗り換え阿木駅下車。本曲輪まで徒歩約15分。
  • 中央自動車道恵那ICより国道19号-国道257号、阿木川ダム花無山トンネル通過後左折直進。恵那ヂーゼル横のコイン精米器前もしくは阿木駅に駐車が可能。


四方山話

  • 野田にも砦の跡があると聞くが詳細不明[要調査]
  • 現在の阿木高校から忠霊塔付近に城館 (本城) があったのかもしれない (本城が転じて本庄の字になった)。

参照

外部リンク

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