飯沼
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+ | {{ruby|<strong>鳥屋</strong>|とや}}とは[[w:かすみ網|かすみ網]]猟を行うために山の中に建てられた小屋。転じてかすみ網猟そのものの事を指す事もある (昔はあそこで鳥屋をやっとった、など)。千羽鳥屋とは良い猟場であった遺名であろう。かすみ網猟そのものが衰退したため鳥屋がどの地域まで通じるかは不明。 | ||
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2009年6月3日 (水) 22:01時点における版
目次 |
沿革
岩村城遠山氏の代々夫人に与えられた供米の取れる地であったため飯妻と呼ばれるようになったと云われている。巖邑府誌によればそれ以前は大野村と呼ばれていたのではないかと推測しているが確かではない。
新杜の開拓由来記によれば 1703年 (元禄16年/江戸初期) に大野村と広岡新田を分離し、大野村を飯沼村の枝村と定めている。現在の大野が飯沼の飛び地となっているのはこのためであろう。
巖邑府誌によれば遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は岩村から遠山氏が居なくなった後も継がれ現在でも子安講として続いている。
角川地名辞典によれば 1699年 (元禄12年/江戸初期) 頃からは沼地が多かったため飯沼村と呼ぶようになったという。戦国期に遠山氏が滅亡し湯沐邑でなくなって妻の意味が薄れたものと思われる。
飯沼村は明治の大合併 (1897年/明治30年) で阿木村と合併してその名は字として残る事となった。現在飯沼の名前は中津川市の大字。
飯沼の小字
新田 ![[MAP]](/map.png)
飯沼川が山から出る付近。
中尾 ![[MAP]](/map.png)
飯沼の東北。血洗池やゴルフ場に出る山道がある。
上樋角 ![[MAP]](/map.png)
下樋角 ![[MAP]](/map.png)
山ノ田 ![[MAP]](/map.png)
後田川の山際付近。
矢筈 ![[MAP]](/map.png)
梨坪 ![[MAP]](/map.png)
禅林寺から飯沼川に降りた付近。
鞍坪 ![[MAP]](/map.png)
梨坪から飯沼川を下った付近。
大日向 ![[MAP]](/map.png)
大野農免道で大野側から見て辻の手前の北側。その名が示す通り日当たりが良く広く田畑が開けている。大日向遺跡がある。また小高い丘の上に新田の祠が祀られている。
小日向 ![[MAP]](/map.png)
飯沼川の南、飯野のため池の下付近が小日向と呼ばれているという。
千羽鳥屋 ![[MAP]](/map.png)
字千羽鳥屋 1511-1 にフォーティーンヒルズカントリークラブあり。
脇田 ![[MAP]](/map.png)
大野農免道から方外戸の倶楽部への道が分かれる付近。字脇田 366-1 に藤工あり。
宮ノ根 ![[MAP]](/map.png)
宮ノ根参照。
五反田 ![[MAP]](/map.png)
宮ノ根から野内方面へ登る周辺。
山之神 ![[MAP]](/map.png)
市之坪 ![[MAP]](/map.png)
飯沼駅付近。
木ノ下 ![[MAP]](/map.png)
木ノ下古墳あり。
飯野 ![[MAP]](/map.png)
飯野遺跡あり。
藪下
は鞍坪に向かう三叉路付近。同名の福祉巡回バスの停留所あり。
ランドマーク
大日向遺跡
は縄文時代の遺物包含地。辻の東で大野農免農道の北側の平らで日当たりの良い畑や水田地帯である。縄文時代早期から中期にかけての矢尻や土器の破片、住居跡などが発掘されている。1967年 (昭和42年) に大型の瓶棺が見つかり名古屋大学による発掘調査が行われてる。現在この瓶棺は禅林寺が保管している。
- 中津川デジタルアーカイブ 大日向遺跡出土縄文土器
宮ノ根遺跡
宮ノ根古墳
は5世紀末から6世紀前半と推定される棺や石室を持たない直葬式の円墳。大野農免道沿いのゲートボール場
を造成するために遺跡を削ったところ刀が出土したという。
飯野遺跡
木ノ下古墳
西山遺跡
狐塚1号古墳
は古墳時代の円墳。昭和42年発掘調査。現在山林。
猿小塚古墳
木ノ下遺跡
新田の祠
大野農免農道沿い大日向付近の丘に鳥居と祠、石碑が建てられている。ここは新田の持ち宮で山の神が祀られているという。
石碑の一つにたくさんの
五輪堂
は辻の西で禅林寺の北側に位置するお堂。通称
辻
は大野農免農道から禅林寺に入る十字路。同名の福祉巡回バスの停留所がある。
神明橋
は神明神社の正面にあり旧県道407号線が飯沼川を越える橋。この道は旧岩村街道でもある。飯妻で乱橋と記されているのはこの神明橋だろうか。
下沢橋
境橋
は県道407号が中尾川を越える橋。飯沼と東野の境にあるためこの名が付いたのであろう。
アサノコンクリート
阿木から県道407号で飯沼に入った場所に建てられていたコンクリート施設 (バッチャープラント)。通称アサノ生コン。平成に入った頃に撤退して暫く無人であったが、現在はほたるの里が使用している。
NPO法人ほたるの里
アサノ生コン跡地に建てられた不登校児童の民間施設。ここから阿木小学校へ多くの児童が通っている。
開設当時はオウム真理教を始めとする宗教団体が地方での活動拠点を広めている事が社会問題となっていた時期でもあった。地元住民へのコンセンサスが十分に取れていない状況とそういった社会的背景が重なり、どこかの団体の児童収容施設ではないかという噂が先行していた。