巖邑府誌/飯妻

提供:安岐郷誌
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現在は飯沼とする。古くに大野と呼ばれているのはここだろう。

飯妻 今作飯沼疑古大野者是也

飯妻

飯妻安岐の北 4〜5 里 (2.2〜2.7km) に位置する。飯妻及び属村の戸数は八十余り。大野平千本松という古松が立っている。またの名を箒松と言い、枝や幹が立ちすくんだような奇松である。

遠山氏夫人の湯沐邑(とうもくゆう) (夫人個人の領地) であったためこの名が付いたと伝えられる。字は妻に与えた飯 (米の穫れる地というの意味) という事から当てている。土壌や貢賦はおおむね安岐と同程度である。

一説によればその昔、遠山氏夫人が難産に苦しめられたが医祷によってつつがなく分娩を終えたという事があり、湯沐邑もその祭資を提供した御利益で今でも村人は難産に苦しめられないという。このお堂は昔は村の東にあったが後の人が今の場所に移すと云う (現在の子安寺か)。また数囲にもなるような古代の石塚が存在するが未だに誰の塚なのかが分からない (祖一の墓かもしれない) (飯沼の古墳のいずれかと思われる)

村内の鬱蒼とした森の中に大神廟がある。言い伝えによれば大昔に日の神が恵那岳に降り立ち、胞衣を納めたことから胞山という名が付いたと云われている (胞衣(えな)を俗に恵那とした)。お産の穢れを清めた事からその名の着いた血洗池が竜泉山にある。またへその緒を切った鎌が三森神社に納められている。大神廟はこれらの遺跡である。

この大神廟は占いをして伊勢の度会(わたらい)郡に遷ったという。この事から伊勢廟の御用材には恵那岳の木材を献上して今に至るとの事である。もちろん根拠が無く信ずるに足らないが、国史では垂仁天皇 25 年 (紀元前5年)倭姫命(やまとひめのみこと)が大神鎮座の地を求めて近江 (滋賀県) の東から美濃を廻って伊勢に至ったと云われている。つまり、かつて倭姫命が占いをして現在の地に決めるまでの行宮 (仮宮) と言われるようなことがあったのかもしれない。そうして里人がたくさんの妄説を付けたのである。

8月16日に花火を上げてこの神を祭る[1]。おそらく戦国から続いている風習だろう。

○飯妻在安岐北四五里傳言遠山氏夫人 ※1
湯沐邑也故名焉命義取供妻之飯資也 土壌貢賦槩 ※2
比于安岐一説曰昔時遠山氏夫人苦産難
醫禱而分娩無恙即附湯沐邑供祭資即今
邑人無苦産難者皆其霊也其堂舊有邑東
山後人徙于今處云又有古石塚大數圍者
未審何人之塚疑祖一墓也 太神廟在邑中社樹
鬱蒼俗説曰上古日神降于惠嶽因藏其胞
衣而名胞山國俗呼胞衣云恵那又名池水洗産穢者
曰血洗池在竜泉山又有断胞糸之鎌藏在三森
神祠遂鎮坐於此所謂太神庿其遺趾也 又卜遷于伊
勢渡會郡故伊勢庿材用惠嶽材木至今猶
然妄誕固不足信也然観國史曰垂仁天皇
二十五年遣倭姫命求太神鎮坐之地於是
倭姫命自近江東廽美濃還到伊勢則倭姫
命嘗卜鎮坐到於此為行宮之事或有之而
俚俗附幾多之妄説也仲秋旣望祭其神挙
燧為観今伝花火蓋戦國之餘習也

※1 飯妻曁属邑民戸八十餘 / ※2 大野平原中有古松名千本松一名箒松枝幹竦立如状竒松也

  1. ^ 角川日本地名大辞典によればこの時代に花火を奉納していたのは宮ノ根の神明神社。血洗神社と混同しているか、あるいは上記は神明神社について書いたものかもしれない。

禅林寺

瑞雲山禅林寺は昔は臨済宗であった。開山は不明である。寛永 11 年 (1634年/江戸初期) に曹洞宗の和尚である長益が改めてこれを造り、それを機に丹羽氏信侯が妙仙寺に属させて今に至っている (改めて考えると大野の吉祥山大禅寺の故趾とはここなのだろうか)。

飯沼川は東の山から出でて道路を過ぎ北の無花山の下を巡って安岐川に合流する。道路に掛けられている橋は乱橋と名付けられている。これは天正 (1573-1593年/安土桃山) の初めに苗木城の兵が岩村を援護しようとここまで来た時に、岩村が陥落したと聞いて潰乱(かいらん)した (軍がばらばらになってしまった) という事から付いた名と云う。

また村内に三度栗という地名があり、ここには一年に三度実を付ける栗があったと云う。(博物学者によれば毛野国 (現在の群馬県と栃木県) 付近に一年に三度小さな実を付ける事から三度栗と呼ばれる山栗の一種があるという。多分この種類であろう。) その木は既になく現在では調べることができない (乱橋、三度栗は阿木川と飯沼川が合流する付近の東野の話か)

○瑞雲山禅林寺舊臨濟宗開基未審寛永
十一年曹洞和尚長益更造之侯氏信以属
于妙仙寺至今猶然再按吉祥山大禅寺故趾盖指此弞飯沼
水出自東山過道路而北遶無花山下与安
岐水合道路所掛之橋名乱橋其説曰天正
初苗城兵援巖邑軍至於此聴巖邑陥而潰
乱又邑中有地名三度栗言其栗一歳三熟
博物家曰一種山栗其実小而一歳三熟俗目三度栗産於上下毛州盖以種也
尋繹之殊無其木


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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