巖邑府誌/東野
東野
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東野
古く大井と称する所の該当地域は広い。東野とは大井駅 (大井宿) の東の原野である。また風習的に野と之は通じており言葉の語を助けている。これを東大井という事もまた可能である。戸数は二百二十。
村は飯妻の西北 5〜6 里 (2.7〜3.3km) に位置する。平原は 2 里 (1.1km) あり、田園は井の字に整備され土も肥えて民は豊かである。貢賦千余石、最も上等である。尾張藩領である大井駅はその西北に接している。領地は安岐川の東である。
○古稱大井者所該廣矣如東野則大井驛
東之原野也又國俗野与之通為助語辞此
謂東大井亦可其邑在飯妻西北五六里平
原方二里田園為井字土腴民饒貢賦千餘 ※1
石最為上等大井驛接于其西北大井驛領于尾張
皆在河水東也河水即安岐水下流※1 民戸二百二十
無花山
無花山 (花無山) は村の西南に位置する。山麓は安岐と飯妻にもまたがり山の中に良い花がない事からこの名が付いている。
佐藤となっている所が西行の草庵の跡である。その横に古井戸があり清らかな水がわき出ている。大井という名はこれに基づくと言われている。
花無山の傍らの人里離れた
また西行が無花山を詠んだ歌をここに載せておく。
箇々呂阿留
此等通美勢波也
於保伊那留
波奈那志也未濃
波留濃計志幾遠
全く、これは浪速あたりの古人の歌を踏襲して無花山の春色のようにしたものであって賞賛に値するものではない。余韻も何もない。偽作であるのは明らかである。ただ無花山は東野にあって大井と繋がっている。すなわちこの歌から東野が昔は大井の一部であったことが分かる。
また、山全体が丸まっており端岨 (けわしく崖になった部分) が無いことから無端山という名になったとも云う。これもまた通じる。
○無花山在邑之西南山麓跨于安岐飯妻 ※2
山中無嘉葩因名其山俗説曰佐藤範清薙
髪更名西行游暦諸州至於此而老山下有
地名向嶋者安岐飯妻二水合於此自為州
清渚中有西行草廬之趾今有康申閻王草堂旁有古井
清泉湧出謂大井命義本於此又曰西行有
無花山之詠傳誦之其歌曰箇々呂阿留此等通美勢波也於保伊
那留波奈那志也未濃波留濃計志幾遠全是蹈襲古人難波邉
之歌而如無花春色亦非可賞之物殊無餘
味為僞作明矣但無花山在東野而繫於大
井則知東野古属于大井之部也或曰其山
圓形無端岨故名無端山又通※2 花無山傍幽葟中有西行居趾號竹林庵余徃見焉疑其出於後人附託也佐藤範清他本作佐藤義清
鷲宮
白坂の山の下に) がある。言い伝えによれば建武の乱から逃げてきた桃井義胤の子孫がここに住んでおり、上野毛宗社の鷲宮神社を移して祀ったということである。この子孫は現在でも千駄林村に住んでいる。
これ以外の小さな祠については詳しく記録する暇がない。
○鷲宮在白坂山下傳言桃井義胤後裔避
建武之乱而居焉因徙祭上毛野宗社也其裔
今在千駄林村其余小祠不遑詳録也
宗久寺
曹洞宗万松山宗久寺は以前は村の中にあったが近年白坂山に移された。白坂山は村の東北に位置する。
言い伝えによれば、長国寺の和尚である
しかし主馬は経営が半ばも行かないうちに病死してしまう。戒名を萬室宗久とし、嫩奕はその戒名を分けて長国寺に属する萬室山宗久寺とした。丹羽氏信侯も若干の田賦を除いて寺地とした。代々僧を置き、その後に寺の僧が萬室を改め萬松としている。
鈴木主馬は氏信侯の家臣であり、大坂の陣で功績のあった者である。この事から考えると宗久寺が開山したのは寛永年間である。寺の僧が慶長年間の開山というのは誤りである。
○萬松山宗久寺曹洞宗舊在村中頃徙于
白坂山白坂山者在村東北傳言長國寺和尚嫩奕辞
寺務而隠于此長國寺在大井驛 結草廬名大金菴
城府老鈴木主馬与嫩奕善時々交通遂建
一寺而居焉経営未央而主馬病卒謚萬室
宗久故嫩奕分用其謚以號寺山遂属于長
國寺也侯丹羽氏除田賦若于為寺地其後
寺僧更萬室為萬松世置和尚所謂鈴木主馬者
侯氏信家臣大坂之役有功者也以此推之
則宗久寺之起當在寛永年間也寺僧以慶
長年間之開基謬矣
観音仏
小野川の観音仏は飯妻との境にある。小野川の渓流は西へ流れて道路を過ぎ飯妻川に入り、この川が境となっている。山の上に草堂がありここがそれである。言い伝えによれば昔に和合山長福寺という寺があった所の古跡であるという。近年盗人がこの像を盗んだため改めて作り直したという。
○小野川観音佛在飯妻疆小野川渓水西流過道路入飯
妻水其水二邑疆也山上有草堂是也傳言吉有和合
山長福寺其故趾也輓近盗竊其像今更作此
武並廟
大井の武並廟は大井と武並の境の平らな林の中にある。この廟は最も荘厳である。棟札によれば遠山景任が永禄7年 (1564年/戦国) に建立したものとある。現在の大井宿、東野、正家、中野、永田、茄子川などの諸村の宗社である。
言い伝えによれば鎌倉旧府公の護身の神であるという。また祠の中には 3 つの廟があり、これらは遠山氏が鎌倉の三公 (武衛公、羽林公、右府公)[1] を祀ったものであろう。武将が一同に並んでいるという意味から武並と名付けられたと云われている。ここ以外に武並と称するものは全てここからの分社である。
現在乗政寺にある銅鐘は、昔はこの廟壇に掛けられていたものである。その銘には「濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村武並大明神之鐘」とあり、また鋳造は天文7年 (1538年/戦国) である。正家村は安岐川の西にあって他の村とは干渉していない。天文の頃、この廟は正家村の山にあって永禄中に現在の廟を建てて移ったのであろう。
御所前
村内の御所前という場所に邸跡があり今なお堀の跡が残っている (現在の大井小学校)。遠山氏の昔の府がここであったとも、また遠山子城の大井城であったとも聞く。天正の頃 (1573-1593年/安土桃山) に佐伯某という者がこれを守っていた。
古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。