巖邑府誌/摠轄

提供:安岐郷誌
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美濃

国史を調べてみると景行天皇 4 年 (西暦75年) 春 2 月に天皇が美濃へ行幸し泳宮(くくりのみや)に滞在している (日本書紀景行天皇記)。現在玖々利と呼ばれている場所 (岐阜県可児市久々利[MAP]) がそこであろう。国史に出る初めての美濃の国がこれである (神武天皇以前は広々としていて確証を取るに足りない)。

成務天皇は国と県を分けて村を定め、美濃には 18 郡があった (それぞれの郡名は省略する)。そして五畿七道を分けて美濃は東山道に属した。この国は西隣に近江、東に信濃と接し、南北は尾張、三河、加賀 (越前の間違いか)、飛騨との境界を持つ。不破郡には美濃国府があった。

京城から三百里余り[1] (約164km)、縦は 200 里 (109km) に及ぶが、横は 70 里 (38km) に満たない (縦横とは成務天皇の定めた東西を日縦、南北を日横とする)。四方は山岳に囲まれよく肥えた平原が中央に連なる。多くの美しい草花が生い茂り香気が濃いという意味からこの国の名を取ったのだろうか。また箕野と記すこともある。この説によれば国の形が長々と曲がっていて南に尾張をいだき、ちょうど箕のようだという事である。あるいは三つの大原野 (青野・各務野・加茂野または青野・大野・各務野) があることから三野とする事もある。これももっともである。

美濃は古くに定められた上管の州である。土壌は肥えている地域と痩せている地域があるための一部の地域だけで語ることはできない。国には海が無く民は魚と塩に乏しい。河川は全て岐蘇川に流れ込んでいる。下流を尾越河(おこしがわ)と言い、中世はここで東西に分かれていた。その西濃には広い原野があり、また東濃は山や谷が深く、風俗の価値観が遙かに異なっている。

○按國史景行天皇四年春二月幸美濃居
于泳宮今有地名玖々利者蓋是也 美濃之名始見於國
如神武天皇以上浩蕩之事則不足取證也 成務天皇分國縣
定邑里而美濃有十八郡今茲不贅郡名又逮分五
幾七道而美濃属于東山道其為國也近江
隣於西信濃接於東尾参加飛交南北之疆
埸古府在不破郡距京城三百餘里本邦里程以六
十歩為町以三十六町為里京畿曁諸道里程也唯奥羽之間以五町為里此謂東道里
其制暗合周制三百歩為里者也茲記里数者皆権用東道里

縱亘於二百里横不満於七十里以東西為日縱南北
為日横成務天皇之制也
山岳蕃于四鏡沃野連于中原
蓋取衆草繁美濃郁之義名其州也或有記
箕野者其説曰國形委蛇南擁尾張宛然如
箕状或作三野以其有三大原野也又通古 ※1
定為上管州而田園有壤埴膏礟之異不可
一例而論也國中無海民乏魚鹽諸水悉入
岐蘇河下流曰尾越河中世限之分東西其
西濃者原野曠而東濃者山谿深風氣俗尚
亦逈異矣

※1 三大原野曰青野曰各務野曰加茂野或曰青野大野各務野三所

  1. ^ この国は京都畿内や諸道での 60 歩で町、36 町で 1 里を里程としている。しかし奥羽の間の東道里では 5 町で 1 里としている。東道里は 300 歩で 1 里とする中国の周の制度と合っている。本書で里数を記す場合はひとまず東道里を使用する (つまり1里=545m)。

恵那

恵那は美濃の東に位置する偏狭の郡である。その東南の境界は信濃と三河に接している。天空には嶺を白雲に覆われた恵那山が高々とそびえ、雪や霜、秋の到来が早い。

恵那山の頂には神を祭っており七廟が並んでいる。山神を封じるのは中国の封禅の儀式からであろう。神名籍 (延喜式; 平安中期) に記載されている恵那神社とはこれである。また吉田神名籍によれば多為(たけ)神社としている。多為とは嶽の読みを表す字である (多為は多訓の翻訓か)。その麓は百里にまたがり村里には人馬の往来が絶えない。ここの山原は皆恵那郡に属している。

○恵那東褊郡也其東南之疆接于信濃参
河惠嶽巍々聳中天白雲埋巓雪霜秋早嶽
上祭神七廟相竝盖封山神猶漢家封襌之
儀也乃神名籍所載之惠奈神社是也或曰
吉田神名籍作多為神社多為乃國俗呼嶽
之辞多為盖多訓之飜訓其麓跨于百里而邑里絡繹
于山原者皆属于惠那郡也

和名抄に載せられている恵那郡の郷村は絵上(えなのかみ)絵下(えなのしも)淡気(たむけ)安岐(あぎ)坂本(さかもと)竹折(たけおり)の僅か 6 郷しかない。大井は紛れて可児郡に入っている。安岐竹折が現在の岩村府の領地である。

淡気とは俗に嶽に対する読みと取れる字であるが何処を指しているのかは分からない。ある書によれば淡気とは現在の手向(たむけ) (恵那市山岡町上手向・下手向) であるという。

坂本もまた分かっていない。国史によれば仁明天皇承和 5 年 (837年)、美濃国恵那郡には官吏が居らず郡司も愚かであったため大井駅舎も人馬も共にくたびれて官倉が倒れたとある (続日本後紀承和七年四月二十三日条)。これで坂本の駅子が全員逃げだし、諸使が塞いで守ったと。駅子とは属駅の丁夫である。この事から坂本の土地は大井からそれほど離れていないという事であろう。

また神名籍にある坂本神社もどの社なのかが分かっていない。子城の属村に坂下というところがあるが、村の中の神祠は言い伝えによれば十二奏社祠 (十二廟あり) でありその御神木は最も古いと云われる。これではないだろうか。

岐蘇の古道は大井から川を渡り、坂下などの村を過ぎ、また川を渡り、妻籠駅に出て湯舟山をめぐり飯田に出でる (湯舟山と飯田の間には園原のいわゆる木賊(とくさ)苅山[1]がある)。現在の甲陽路 (甲州街道) と合流するのがそれであろう。また大井の東に坂本という地名があるがどれがこの坂本なのかは分かっていない。

絵上は現在の木曽駅である馬籠(まごめ)妻籠(つまご)などの地を指すのであろう。国史を調べてみると陽成天皇元慶 3 年 (879年) に美濃恵那郡と信濃の筑摩郡との境界を定めている。これに先立って貞観年間 (859-876年) に藤原正範が境界を定めている。正範検旧記によると吉蘇と小吉蘇の両村は美濃恵那郡絵上郷であるとあり、これに従って県の坂上の嶺を美濃、信濃の境界としている。この事から考えると絵上郷は現在信濃に属している事になる。県の坂上の嶺が何処の事を指しているのかは分かっていない。

また国史を調べてみると文武天皇大宝 2 年 (702年) に美濃国に最初の吉蘇道を開いたとある (続日本紀)。岐蘇は古く美濃に属していたと見るのが適当だろう。

絵下は殊更何処であったのか分かっていない。

○惠那郡郷邑載倭名集者僅六曰繪上曰
繪下曰淡氣曰安岐曰坂本曰竹折而大井
紛入可兒郡也安岐竹折今現領于巖邑府
淡氣乃國俗呼嶽之辞未審的所指也坂本 ※2
亦未審按國史曰仁明天皇承和五年美濃
國惠那郡無人任使郡司暗拙是以大井驛
家人馬共疲官倉顛仆因茲坂本驛子悉逃
諸使擁塞驛子葢指屬驛丁夫也以是観之
則坂本地界距大井似不遠矣又按神名籍
載坂本神社者其社亦未審或曰苗城屬邑
有坂下者邑中神祠傳言十二奏社有十二廟
社樹最古蓋是也岐蘇古道自大井渡河而
過坂下等邑又渡河出於妻籠驛而逵湯舩
山出於飯田湯舩山与飯田之間有所謂園原木賊苅山 而與今
甲陽路合.或然又有大井東地名坂本者
未知孰是也繪上蓋指今木曽驛馬籠妻籠
等之地按國史曰陽成天皇元慶三年定美
濃惠奈郡與信濃筑摩郡之疆場先是貞観
中藤原正範相定其疆場正範撿舊記曰吉
蘇小吉蘇両村者美濃惠那郡繪上郷也於
是以縣坂上岑為美濃信濃之界一從正範
所定也以其観之則所謂繪上郷今已属于
信濃如縣坂上岑亦未審指何處也又按國
史曰文武天皇大寳二年始開美濃國岐蘇
道可見岐蘇古屬于美濃也繪下殊不知為
何處也

※2 一書曰淡氣者今作手向是也

  1. ^ 源仲正の和歌に「木賊苅る その原山の木の間より みがかれいづる 秋の夜の月」とある。木賊刈りは園原地方の風物詩。また阿智村の園原を舞台とした木賊と呼ばれる狂言がある。

式内社

神名籍には恵那郡に恵那神社、前述の坂本神社中川神社の三社を載せている。中川とは今の中津川駅の語源である (ツは俗習的な助字である)。また駅の北に北野という地名がありここには神祠の旧跡があるとのことである。この地は岐蘇川とも近く、中川神社が河伯 (河の神) を祭っていたのだろうと伝えられるのは正しいのであろう。

○神名籍載惠那郡三社曰惠奈神社曰坂
本神社已詳于上曰中川神社中川則今謂
中津川驛者是也國俗以津為助語 或曰驛北有地
名北野神社舊蹟在於此其地近於岐蘇河
所謂中川神社葢祭河伯也所傳信矣


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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