巖邑府誌/郡隅

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久須美と藤村を併せる。

郡隅併入久須美藤村

目次

郡隅

郡隅(くすみ)は中野の北西に位置する (東山道の道中にある四屋(よつや) (四ッ谷[MAP]) という地名は久須美の部落、深谷は藤村の部落である)。民戸は160戸余り。木曽川を北の境界とし、その北側は加茂郡である。西は可児郡の大久手宿に接している。南は土岐郡の釜戸村に接している 釜戸村は幕僚馬場のある村である。ここはまさに恵那郡の西北の隅を成す村々であることから郡隅という名が付いている。現在は国字に従い久須美と言う。

藤村と久須美村は共に土岐郡に属していると郡村記に書かれている。新撰美濃志によれば藤村は久須美の西にあって土岐郡に属していると郡村記に書かれている。 (昭和の注釈?)

一葦木曽川を航せば苗木城や飛騨の国にたどり着く。川の北の高嶺が水上に臨んでいる。小笠置山というのがこれである (ちょうど山城国(やまきのくに) (京都南部) の笠置山に似ている)。

村の中には山が多く民家が散在している。山中、茂達、千田の部落がある (それぞれ里社を持つ)。どれも久須美に属している。

安永年中、山中村に市郎右衛門という者が居た。春時に雉を獲ろうと思い、明け方に銃を持って虎枝沢に入った。雉笛を吹いた時に草木が揺れ動き大蛇が現れた。徐々に迫り来て市郎右衛門も逃れられず銃を二発撃って走り去った。家に帰ってその事を語り一年後に病死した。年が明けて牧童がその地に入ってみると蛇の骨を見付け、官に訴えた。その骨は今官府にある。私は山中村に行ってその銃を見てみたが普通の小器である。江州国友弥五右衛門重当という銘が入っている。

○郡隅在中野西北東山道路中有地名四屋久須美落也地名深 ※1
谷藤村落也 其北限岐蘇河為界河北乃加茂郡
也西隣大久手驛乃可児郡也南接釜戸村 ※2
乃土岐郡也実惠那郡西北隅之邑村也故
名郡隅今作久須美從國字也一葦航岐蘇 ※3
河可以適苗城及飛彈州也河北高山巍然
臨于水上名小笠置山者是也蓋擬城州笠置山 
中多山民家散在各處有山中茂達千田部 ※4
各有里社皆属于久須美也

※1 民戸一百六十餘 / ※2 釜戸邑者幕僚馬場居之邑也有官舎邑入二千石 / ※3 藤村久須美村共ニモト土岐郡ニ属?由郡村記伝ヘリ 新撰美濃志曰藤村ハ久須美ノ西ニアリトモ土岐郡ニ属シタリシ由郡村記ニ伝ヘリ云々 [墨消し跡] (昭和の脚注か) / ※4 安永中山中邑有市郎右ヱ門者春時欲獲雉提銃侵暁入于虎技沢吹雌笛時見草木動揺大蛇冉々来市郎右ヱ門知不可免銃中実二丸打放而奔去帰家語其事期年病死明年牧童至其地得蛇骨以訴官其骨今在官府余徃山中邑見其銃尋常小器也有銘江州國友弥五右衛門重當

城砦墟

城砦墟が村の山にある (千田(がえし)(千旦林城) はこれを指すのではないかとも言われている)。

○城砦墟在邑山或曰千田返砦指此也

武並廟

武並廟は久須美山の林の中にある。持宝院の神僧が祀っている。

○武並廟在久須美山林中巫僧持宝院 奉其

巨福山長徳寺

巨福山長徳寺は久須美にある。曹洞宗でその開基は分かっていない。慶安4年 (1651年/江戸初期) に和尚の外隆が居始める。

○巨福山長徳寺在久須美曹洞宗其開基
未審慶安四年和尚外隆始居焉

藤村

藤村は久須美の西にある[1]その高嶺に富士の小祠が祭られている事が村の名の由来という。富士は今藤村となっている (藤はまた富士とも読む)。その富嶽のような姿はまさに本邦の泰山華岳 (どちらも中国五山の一つ) である。今ここにこの名を侵す者は穏やかではなない。故に暫く俗称に従って藤村とするものである (深谷は岳の下にあり、その茶店は薯蕷(じょうよ) (饅頭) を多く売っている)[2]

  1. ^ 藤村の民戸は70戸余り。(こうぞ)舍は部落で木曽川の上にある。現在小僧と呼ばれているのは間違いで、楮の読みに曽の字を加え小僧の読みが近いため誤ったものである。
  2. ^ 富士・郡隅の両村は両方とも木曽川に接している。水辺の石間に草花が生えている。鳥目岩 (?) は千鳥のようである。尚道公は盆翫として毎年四月の花盛りを待って大城に献上している。今の公も継いで献上していたが薨したため止んだ。現在深谷を深萱とするのは誤りである。

○藤村久須美西其高嶽祭富士小神因名 ※1
其邑曰富士今俗作藤村藤又訓富士 若夫富嶽
則本邦之泰山華岳也今茲侵其名者似未 ※2
妥故姑従俗称作藤村也深谷在嶽下其茶店多賣薯蕷

※1 藤村民戸有七十餘楮舍部落也在岐蘇河上今曰小僧非也楮國音加字曾与小僧音近故誤 / ※2 富士郡隅両邑皆接岐蘇河水邊石間有草花如于鳥目岩千鳥 尚道公為盆翫毎歳四月待花盛献大城今公亦継献至恭廟薨而止 深谷今作深萓誤也

三城墟

三城墟は村の山にある。高楼が三所にかかることからこの名が付いている。城墟の傍らに五郎塞という地名があるがどのような者が塞いでいたのかは分かっていない。また首塚という古い塚がある。烏帽子岩と呼ばれている大岩はその名の由来を知るものが居ない。

遠山の子城であろう。腐ってはいるが門柱もまだ残っている。また時々矢先や敗器 (壊れた器) などが出る。戸田甚左衛門なる者がここを守り織田氏に従ったとも言われている。その首領自らが我が領村は二千石に余ると誇って言ったが、実際にはその数に満たない。故に久須美、藤村の田賦は今に至ってもその数に届いていない。

関ヶ原の役には田丸氏の兵がここを守った (大久手駅にその招募書を持つ者がいる)。藤村の林の中にもまた武並廟がある。

○三城墟有邑山言高樓懸三處故有此名
也城墟旁有地名五郎塞未審何人之塞也
又有古塚名首塚者磐石名烏帽子磐者其来
由皆無識者也盖遠山子城也門柱腐者今
猶存又間出矢鋒敗器之類也或曰戸田甚
左衛門者守焉以隷于織田氏渠自誇曰我
領邑饒于二千石而實不満其數故久須美
藤村田賦至今欠其数也関原之役田丸氏
兵守焉大久手驛有持其召募書者 武並廟亦在藤村林

貴船山洞禅院

貴船山洞禅院は藤村にある。寺山の背に貴船神を移して祭っている (その神には天候を祈る)。伝えによれば大永の頃に禅師養拙なる者がここにいた。その後に燈脈が途絶えて黒衣僧 (臨済僧) が寺務を掌ったが寛文中 (1661-1672年/江戸初期) に再び曹洞宗の和尚を置く。元禄13年 (1700年/江戸初期) に旧閣が焼失し、享保17年 (1732年/江戸中期) に再建した (この寺は特に大永年間 (1521-1527年/戦国) を開基としているが、特に伝基も伝来の説もない)。

○貴舩山洞禅院在藤村寺山背移祭貴舩
其神可祈雨祈霽 傳言大永頃禅師養拙者居
焉其後燈脉絶而黒衣僧掌寺務耳寛文中
再置曹洞宗和尚元禄十三年𦾔閣災享保
十七年更造之此寺特以大永年間為開基殊無傳基殊無傳未之説也


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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