安岐史略/近世
提供:安岐郷誌
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{{年表/年内|1634年|寛永11年|飯沼|臨済宗の寺跡に長益が曹洞宗'''[[禅林寺]]'''を再建。丹羽氏信が妙仙寺属とする。|巖邑府誌}} | {{年表/年内|1634年|寛永11年|飯沼|臨済宗の寺跡に長益が曹洞宗'''[[禅林寺]]'''を再建。丹羽氏信が妙仙寺属とする。|巖邑府誌}} | ||
{{年表/年内|1640年|寛永17年|阿木|岩村城主丹羽氏信、龍泉寺跡に馬頭観音堂を建て焼失を免れた馬頭観音を祀る。清宝院の尼が仮で寺務を行う。また'''[[塞之神神社|幸神]]'''に祠を建てて清宝院の尼が祀る。|巖邑府誌}} | {{年表/年内|1640年|寛永17年|阿木|岩村城主丹羽氏信、龍泉寺跡に馬頭観音堂を建て焼失を免れた馬頭観音を祀る。清宝院の尼が仮で寺務を行う。また'''[[塞之神神社|幸神]]'''に祠を建てて清宝院の尼が祀る。|巖邑府誌}} | ||
− | {{年表/年内||||「諸国に流行病がひろがり苦難を払うために[[三森神社]]を信奉し霊験があった」との記|由緒書き}} | + | {{年表/年内|||岩村|「諸国に流行病がひろがり苦難を払うために[[三森神社]]を信奉し霊験があった」との記|由緒書き}} |
{{年表/年内|1643年|寛永20年|岩村|本郷内検地高1,686石余|角川日本地名大辞典}} | {{年表/年内|1643年|寛永20年|岩村|本郷内検地高1,686石余|角川日本地名大辞典}} | ||
{{年表/年内|1644年|寛永21年|岩村|福泉坊が垂松瀑に不動堂(三森神社)を祠つ|由緒書き}} | {{年表/年内|1644年|寛永21年|岩村|福泉坊が垂松瀑に不動堂(三森神社)を祠つ|由緒書き}} |
2009年6月12日 (金) 13:39時点における版
地質時代 ≫ 縄文/弥生/古墳/飛鳥/奈良 ≫ 平安/鎌倉/室町/戦国/安土桃山 ≫ 江戸 ≫ 明治/大正/昭和/平成
江戸時代初期 (1603-1710年) | ||||
1604年 | 慶長9年 | 大野を再び開拓して大野新田とする | 開拓者慰霊碑 | |
1615年 | 慶長20年 | 家康が恵那山から木曽一帯を尾張藩主徳川義直の領地とする | Wikipedia | |
1618年 | 元和4年 | 風神神社再建 | 現地碑文 | |
1620年 | 元和6年 | 恵那神社前宮造営。恵那山頂本宮を奥宮、前宮を本宮に変更。 | Wikipedia | |
1634年 | 寛永11年 | 臨済宗の寺跡に長益が曹洞宗禅林寺を再建。丹羽氏信が妙仙寺属とする。 | 巖邑府誌 | |
1640年 | 寛永17年 | 岩村城主丹羽氏信、龍泉寺跡に馬頭観音堂を建て焼失を免れた馬頭観音を祀る。清宝院の尼が仮で寺務を行う。また幸神に祠を建てて清宝院の尼が祀る。 | 巖邑府誌 | |
「諸国に流行病がひろがり苦難を払うために三森神社を信奉し霊験があった」との記 | 由緒書き | |||
1643年 | 寛永20年 | 本郷内検地高1,686石余 | 角川日本地名大辞典 | |
1644年 | 寛永21年 | 福泉坊が垂松瀑に不動堂(三森神社)を祠つ | 由緒書き | |
1650年 | 慶安3年 | 萬嶽寺建立 | 由緒書き | |
1656年 | 明暦2年 | 神明神社再興。白山・熊野権現を合祀。同社の祭礼には花火を奉納 | 角川日本地名大辞典 | |
1668年 | 寛文8年 | 青野新田35石余、両伝寺新田16石余 | 角川日本地名大辞典 | |
1679年 | 延宝7年 | 広岡新田109石余、福岡新田98石余 | 角川日本地名大辞典 | |
1689年頃 | 元禄2年頃 | 萬嶽寺が焼失 | 由緒書き | |
1692年頃 | 元禄5年頃 | 萬嶽寺が再建 | 由緒書き | |
1699年 | 元禄12年 | 本年以前は飯妻村と書くが、以後は深沼が多く飯沼村と書く、と記すが不詳(飯沼旧記) | 角川日本地名大辞典 | |
1703年 | 元禄16年 | 明細帳によれば石高459石余、新田高61石余、大野92石余 | 角川日本地名大辞典 | |
大野村15軒と古田92石を飯沼村の枝郷、大野新田村56軒158石が広岡新田村として阿木村の枝郷へ | 開拓者慰霊碑 | |||
1709年 | 宝永6年 | 恵那山から木曽にかけてが神宮御用材の地となる | Wikipedia | |
江戸時代中期 (1710-1799年) | ||||
1738年 | 元文3年 | 「恵奈郡阿木山麓大野平 血洗社」の記と血洗池、恵奈の名の由来 | 美濃明細記 | |
1751年 | 寛延4年 | 岩村の町医者 首藤元震により巖邑府誌が書かれる | 巖邑府誌 | |
1758年 | 宝暦8年 | 中山道中津川・落合両宿の助郷村。百姓が村役人に対し助郷の賃銭をはじめとする5項目の改善を要求。代官所に提訴され7人が入牢の処分。 | 角川日本地名大辞典 | |
明和年間 () | 萬嶽寺山門建立 | 由緒書き | ||
1778年 | 安永7年 | 3月15日 三嶋神社の石段整備 | 現地石段親柱 | |
1785年 | 天明5年 | 子安寺で大黒天・恵毘須天が開眼 | 角川日本地名大辞典 | |
1787年 | 天明7年 | 七福神が開眼。豊年祭と称し村中を練り歩いた。 | 角川日本地名大辞典 | |
1798年 | 寛政10年 | 恵那山から木曽にかけてが神宮の御杣山と認められる | Wikipedia | |
江戸時代後期 (1800-1867年) | ||||
1813年 | 文化10年 | この年から神明神社に繰り人形を奉納 | 角川日本地名大辞典 | |
1812年 | 文政5年 | この年から神明神社に笹踊りを奉納 | 角川日本地名大辞典 | |
1814年 | 文政7年 | 槙平の開墾が始まる | 文政の阿木騒動 | |
1816年 | 文政9年 | 家老丹羽瀬清左衛門の岩村藩文政の改革 | 文政の阿木騷動 | |
1817年 | 文政10年 | この年から神明神社に再び花火を奉納 | 角川日本地名大辞典 | |
1829年 | 文政12年 | 2月 二十七会講の嘆願で頭取十人を入牢。取り調べ中に年貢の不納・帳簿改竄が発覚し村百姓152人御用。 4月 代官橋本祐三郎斬首。百姓は槙平開墾失敗なども含め未曾有の大量処罰(文政の阿木騒動) |
文政の阿木騒動と代官橋本祐三郎 角川日本地名大辞典 | |
1830年 | 天保元年 | 飯沼を南北の組に分ける | 萬記録飯沼村 | |
1836年 | 天保7年 | 長雨による凶作 | 萬記録飯沼村 | |
1837年 | 天保8年 | 藩内52村連名の嘆願により丹羽瀬清左衛門失脚、蟄居の身となる(天保の丹羽瀬騒動) | 文政の阿木騷動 | |
1838年 | 天保9年 | 12月25日夜禅林寺出火。講堂残らず消失。 | 萬記録飯沼村 | |
1840年 | 天保11年 | 五輪堂再建。弘法大師勧請。 | 萬記録飯沼村 | |
1841年 | 天保12年 | 子安庵入仏。庵主禅信。 | 萬記録飯沼村 | |
1851年 | 嘉永4年 | 子安庵再建。 | 萬記録飯沼村 | |
1852年 | 嘉永5年 | 2月 子安庵成就し開帳。庵主喚応明道。 | 萬記録飯沼村 | |
1854年 | 嘉永7年 | 11月4日 大地震(安政東海地震)。大野広岡で地割れ、飯沼で陥没や隆起が見られた。 | 萬記録飯沼村 | |
1855年 | 安政2年 | 7月27日 水害。田畑水没、山抜け。橋場、塞之神で家屋倒壊。中津川橋と近隣7軒倒壊、大井大橋と近隣7軒倒壊。 | 萬記録飯沼村 | |
1858年 | 安政5年 | 2月25日 大地震(飛越地震)。 | 萬記録飯沼村 | |
1859年 | 安政6年 | 4月 下広岡燈籠場の石燈籠建立 | 現地石燈籠 | |
11月 真原の金右衛門宅で化物が出る。 | 萬記録飯沼村 | |||
1861年 | 文久元年 | 10月29日 和宮親子内親王が大井宿到着。倒幕活動をそぐために家茂との政略結婚で江戸へ下向中。 | 萬記録飯沼村 | |
1864年 | 元治元年 | 11月27日 天狗党が大井宿を通過。岩村藩内より郷夫・猟師を徴集し東野小野川付近に布陣し警戒(天狗党の乱。 | 萬記録飯沼村 | |
1867年 | 慶応3年 | 10月14日 大政奉還 | Wikipedia |
※日付は旧暦も混在しています。