安岐郷

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平安時代後期になると各勢力間での寄進などによって荘園の統合が進み、安岐郷を含む恵奈郡のほとんどは摂関家領である[[遠山荘]]に属することとなった。鎌倉時代に入り、[[遠山氏]]が地頭請として実質支配する頃には残った荘園もすべて遠山荘に統合されたであろう。
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== 地名の由来 ==
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現在の<strong>阿木</strong>はこの安岐郷の遺存地名である。安岐という名の由来についてははっきりとしていない。
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* 奈良・平安時代にアキが「食物が豊かな」という意味を持っていた事から「実り豊かな郷」という意味。アキは秋、飽きる、商いなどに転じ、また{{ruby|秋津島|あきつしま}}、{{ruby|安芸国|あきのくに}}もこの意味が語源と言われる。
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* [[天照大神の胞衣伝説]]より、日の神を生み終えて安気になり、この地を安気野と名付けよと言われた事から。
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現存する[[小字 (阿木)|阿木の地名]]から中世の荘園制に由来すると思われるものを以下に挙げる。
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* '''梨坪'''、'''鞍坪'''、'''六斗蒔'''、'''八升蒔''' (いずれも飯沼) ─ 「坪」とは古代から中世にかけての[[w:条里制|条里制]]の区画表示法で約1ヘクタールを1坪としている。「蒔」も同時代の高表示法で、田畑に蒔く籾の量で高を示している。
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* '''宮田'''、'''両伝寺''' ─ 「宮」とは天皇家を意味する言葉であり、[[巖邑府誌]]では両伝寺の名も元は領天神から来たものであろうと推測している。また双方の地区には創建不明の古い[[天神神社]]が祀られている。天神とは元々天皇家の皇祖である[[w:天津神|天津神]]を祀るものであることからも (菅原道真は後付)、古くは天皇家領属の荘園があったと思われる。
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* '''本庄''' ─ [[w:荘園領主|荘園領主]]である[[w:領家|領家]]の中でも実効支配権を持つ者の居住地は{{ruby|[[w:本所|本所]]|ほんじょ}}と呼ばれていた。つまり本庄は遠山氏より前に居た荘園領主の居住地であったと考えられる。なお遠山氏以降の時代はそれまでの荘園領主は排斥され鎌倉幕府に任命された地頭の支配となった。
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* '''寺領''' ─ 巖邑府誌では元は[[長楽寺]]領だったかもしれないと推測している。中世には皇族や公家と共に東大寺や延暦寺も勢力を伸ばし多くの荘園を確保しており、またこの時代に[[長楽寺]] (天台宗) が創建されていることから、延暦寺の勢力拡大で阿木に進出したものかと考えられる。ただし江戸時代以降でも寺に与えた土地を寺領と呼んでいたため定かではない。
  
 
== 文献 ==
 
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=== 大日本地名辞書 ===
 
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[[大日本地名辞書]]では岩村、阿木、本郷 (富田・飯羽間) と推測している。
  
 
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和名抄、恵那郡安岐郷。○今岩村町、[[阿木村]]、本郷村なるべし、竹折郷の南とす。当国帳、恵那郡従四位上阿気明神、今阿木村に在す、岩村の東北にして、水晶山の麓也。○新撰誌云、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ伝え、血洗池という古跡ものこり、また恵那山の名もそれより興りしよし、里老いへり、永享以来御番帳に、遠山安木孫太郎見え、また長享元年江州御動座到着に濃州遠山安城孫次郎としるし、家家紋帳にも遠山安木氏の家紋をのせたり、皆こゝの人なるべし。
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和名抄、恵那郡安岐郷。○今岩村町、阿木村、本郷村なるべし、竹折郷の南とす。当国帳、恵那郡従四位上阿気明神、今阿木村に在す、岩村の東北にして、[[水晶山]]の麓也。○新撰誌云、[[血洗神社|血洗社]]は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ伝え、血洗池という古跡ものこり、また[[恵那山]]の名もそれより興りしよし、里老いへり、永享以来御番帳に、遠山安木孫太郎見え、また長享元年江州御動座到着に濃州遠山安城孫次郎としるし、家家紋帳にも遠山安木氏の家紋をのせたり、皆こゝの人なるべし。
 
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=== 恵那郡誌 ===
 
=== 恵那郡誌 ===
恵那郡誌<ref><strong>恵那郡誌</strong>, <i>恵那郡教育会</i>, 大正15年発行, 昭和48年復刻</ref>では富田、飯羽間、岩村を含めた地域と推測している。
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[[恵那郡誌]]では富田、飯羽間、岩村を含めた地域と推測している。
 
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* [[安岐太鼓]]や[[安岐郷誌]]のように、歴史伝統的な意味合いを持たせたい場合に阿木の異字体として使用する事がある。
== エピソード ==
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* この郷名に因んで[[安岐太鼓]]や[[安岐郷誌]]のように阿木の異字体として使用する事がある。
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== 関連項目 ==
 
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* [[阿木の遺跡]]
 
* [[恵奈郡]]
 
* [[恵奈郡]]
 
* [[猿投灰釉水瓶]]
 
* [[猿投灰釉水瓶]]

2010年8月29日 (日) 00:00時点における最新版

安岐郷(あぎごう)は古代から中世にかけて岐阜県東南部に存在した恵奈郡。現在の阿木と岩村町の周辺、山岡町の一部と比定されている 。

目次

[編集] 歴史

安岐郷は奈良時代の律令制の頃に成立したと考えられる。この頃の荘園制により美濃国には皇室領、摂関家領、地方豪族、東大寺など様々な勢力の初期荘園が発生していた。安岐郷を含む恵奈郡は当時深い山林地域であったことから、阿木川飯沼川、岩村川沿いに各勢力が自墾地として切り開いた小規模な荘園が散在していたと思われる。

平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)美濃国恵奈郡六郷の一つとして安岐郷の名が記されている。またそれと同時期の美濃国神名帳 (938-956年/天慶-天徳) にも恵奈郡従四位上阿気明神という名前が記されている。寺領から出土した猿投灰釉水瓶などからも阿木の寺領・本庄を中心に郷の惣村があったと思われる。

平安時代後期になると各勢力間での寄進などによって荘園の統合が進み、安岐郷を含む恵奈郡のほとんどは摂関家領である遠山荘に属することとなった。鎌倉時代に入り、遠山氏が地頭請として実質支配する頃には残った荘園もすべて遠山荘に統合されたであろう。

[編集] 地名の由来

現在の阿木はこの安岐郷の遺存地名である。安岐という名の由来についてははっきりとしていない。

  • 奈良・平安時代にアキが「食物が豊かな」という意味を持っていた事から「実り豊かな郷」という意味。アキは秋、飽きる、商いなどに転じ、また秋津島(あきつしま)安芸国(あきのくに)もこの意味が語源と言われる。
  • 天照大神の胞衣伝説より、日の神を生み終えて安気になり、この地を安気野と名付けよと言われた事から。

現存する阿木の地名から中世の荘園制に由来すると思われるものを以下に挙げる。

  • 梨坪鞍坪六斗蒔八升蒔 (いずれも飯沼) ─ 「坪」とは古代から中世にかけての条里制の区画表示法で約1ヘクタールを1坪としている。「蒔」も同時代の高表示法で、田畑に蒔く籾の量で高を示している。
  • 宮田両伝寺 ─ 「宮」とは天皇家を意味する言葉であり、巖邑府誌では両伝寺の名も元は領天神から来たものであろうと推測している。また双方の地区には創建不明の古い天神神社が祀られている。天神とは元々天皇家の皇祖である天津神を祀るものであることからも (菅原道真は後付)、古くは天皇家領属の荘園があったと思われる。
  • 本庄荘園領主である領家の中でも実効支配権を持つ者の居住地は本所(ほんじょ)と呼ばれていた。つまり本庄は遠山氏より前に居た荘園領主の居住地であったと考えられる。なお遠山氏以降の時代はそれまでの荘園領主は排斥され鎌倉幕府に任命された地頭の支配となった。
  • 寺領 ─ 巖邑府誌では元は長楽寺領だったかもしれないと推測している。中世には皇族や公家と共に東大寺や延暦寺も勢力を伸ばし多くの荘園を確保しており、またこの時代に長楽寺 (天台宗) が創建されていることから、延暦寺の勢力拡大で阿木に進出したものかと考えられる。ただし江戸時代以降でも寺に与えた土地を寺領と呼んでいたため定かではない。

[編集] 文献

[編集] 大日本地名辞書

大日本地名辞書では岩村、阿木、本郷 (富田・飯羽間) と推測している。

安岐(アギ) 和名抄、恵那郡安岐郷。○今岩村町、阿木村、本郷村なるべし、竹折郷の南とす。当国帳、恵那郡従四位上阿気明神、今阿木村に在す、岩村の東北にして、水晶山の麓也。○新撰誌云、血洗社は阿木山の麓、大野平にあり、神代のむかし、ある御神こゝにて御子を産給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡也といひ伝え、血洗池という古跡ものこり、また恵那山の名もそれより興りしよし、里老いへり、永享以来御番帳に、遠山安木孫太郎見え、また長享元年江州御動座到着に濃州遠山安城孫次郎としるし、家家紋帳にも遠山安木氏の家紋をのせたり、皆こゝの人なるべし。

【安岐郷】 ○和名抄郡郷考、名細記、社考、恵那郡阿木山麓大野平血洗社、又上古神の胞洗の池と云々、恵那の名起于此歟。

遠山(トホヤマ)】 ○史海 (明治廿七年一月) 後世の大名は社寺地より起りたる者多し、美濃の遠山氏は中津川御厨より、肥前の松浦党は松浦御厨より起れり。

[編集] 恵那郡誌

恵那郡誌では富田、飯羽間、岩村を含めた地域と推測している。

安岐(あぎ) 今の阿木村は其の本土にして、本郷村・岩村町等阿木川上流一帯の地に及ぼしたのであらう。美濃國神名帳に從四位下阿氣明神があり、當郷の鎮守である。今舊大野の本區廣岡の八幡社の地が是である。

[編集] 話題

  • 安岐太鼓安岐郷誌のように、歴史伝統的な意味合いを持たせたい場合に阿木の異字体として使用する事がある。

[編集] 関連項目

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