萬記録飯沼村/萬記録

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(天保元年 取帳組頭支配)
(天保七年 {{ruby|霖雨|りんう}}にて凶作)
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七年三月より霖雨 {{note|(長雨)}} にて諸作実らず。山野の笹に実を生し是を自然子と云ふ。五月より近辺の山々にて我も我もと取り之を食す。阿木山[[槙平]]辺りへ井竹に{{ruby|夥|おびただ}}しく自然子は付き之れを取る。七月中旬迄なり。下旬には残らず落ちし取れず。春より八月末、九月上旬迄雨降り続き五穀実らず。翌八年二月より飢に及ぶ者あり。之れ依り飢扶持を願ひ当村窮民男女二十六人、子供十二人。二月二十五日より石御救いの粥を喰ふ。石粥は寺にて煮て時々飢人に渡す。松の皮の餅を{{ruby|搗|つ}}き其の外思ひ思ひ様々の者を食ふ。りょうぶの木の葉も同じ。
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六月 米一駄金三両二百五十文と云う。
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2010年8月9日 (月) 16:43時点における版

天保元年 取帳組頭支配

天保元年 (1830年/江戸後期)、全ての田畑を地押(じおし) (江戸時代の検地) して検地帳を改める。前年より当村の御収納帳面は庄屋が支配している。同年2月冬から南北に組を分けて組頭が支配する事となる。

天保元年八月 田畑有畝歩 (ことごと)く地押して新検地帳を改め、当村御収納帳面 先年より庄屋支配の所。

同年二月 冬より南北両郷に分けて組頭支配に成る。

飯沼二組頭に分ける。

天保七年 霖雨(りんう)にて凶作

天保7年 (1836年/江戸後期)、3月からの長雨で作物が実らず。5月頃、野山の笹に自然子(じねんご)という実が生り[1]我も我もと近辺の山々で採って食べる。自然子は7月中旬まで採れていたが下旬には残らず落ちてしまった。

雨は春から8月末、9月上旬まで降り続き五穀が実らなかった。翌8年 (1837年/江戸後期) より飢餓となる者が出たため飢扶持(うえぶち) (飢饉時の扶助) を請い、当村の窮民男女26人、子供12人が 2 月 25日より御救いの石粥を食べる。石粥はその時々に寺で煮て窮民に渡していた。松の皮で餅をついたりリョウブの葉を食べたり、皆それぞれ手当たり次第に食べた。

6月、米一駄[2]の価格は金三両二百五十文であった。

七年三月より霖雨 (長雨) にて諸作実らず。山野の笹に実を生し是を自然子と云ふ。五月より近辺の山々にて我も我もと取り之を食す。阿木山槙平辺りへ井竹に(おびただ)しく自然子は付き之れを取る。七月中旬迄なり。下旬には残らず落ちし取れず。春より八月末、九月上旬迄雨降り続き五穀実らず。翌八年二月より飢に及ぶ者あり。之れ依り飢扶持を願ひ当村窮民男女二十六人、子供十二人。二月二十五日より石御救いの粥を喰ふ。石粥は寺にて煮て時々飢人に渡す。松の皮の餅を()き其の外思ひ思ひ様々の者を食ふ。りょうぶの木の葉も同じ。

六月 米一駄金三両二百五十文と云う。

  1. ^ 昔から笹の実が生ると凶作になると言われている。
  2. ^ 馬1頭に追わせる荷物を1駄とする。米なら2俵。

天保八年 丹羽瀬騒動

文政の頃より追々一統難渋重く八年四月より御領分一統騒動に及び、七月十日 岩村藩家老丹羽瀬左衛門蟄居(ちっきょ) (家に引きこもること) して相治る。

前代未聞の大変也。

天保九年 出火

十二月二十五日夜 講堂残らず消失 (禅林寺)。二十一世 大長和尚代。翌十年 庫裏再建板葺。弘化三年冬客殿再建萱葺。八ヶ年経て嘉永六年三月五日入仏、翌六日 二十二世 禅手和尚晋山。

天保九年閏四月十三日 御巡見

御巡見之れ有り。子安森御小休所御駕台三ツ(こしら)へ置く。
土屋左衛門様 設楽甚十郎様 水野藤治郎様

天保十一年 弘法大師勧請

五輪堂 弘法大師 天保十一年勧請。堂舎も同年夏迄に再建。

天保十二年 子安内殿修復

天保十二年正月 入仏、庵主禅信代。同庵再建、嘉永四年冬始め。翌年二月成就して開帳あり 庵主喚応明道。

弘化二年 松ヶ洞御買上 御林と成る

弘化二年十二月依り先年より吉村氏代々持林也。願の上 金五十両にて御買上げ也。

嘉永六年 アメリカ船来航

アメリカ船、品川沖並に浦賀辺りへ来る。諸国騒動品川より上総、房州、浦賀辺り御大名方厳しく御固め之れ有り。品川沖に御台場出来にて此処御固め也。中にも細川越中守様御高名也。翌七年 春御出張引に成 治る。

嘉永六年 領分猟師 足軽に御召抱

本年冬 御領分中猟師を郷組足軽に御召抱に相成り、翌七年正月二十八日御出され御書付之れ有り。

  • 調練に呼立し候節は並に御足軽詰、日割り下され之候。但し三里以上之れ有り候。村方の者は二日分。日返りに相成り候。村方の者へは一日分下され候事。
  • 村方に(まか)り在り候内、帯刀並に表札出し置き候義。勝手次第たるべき事。
  • 当分差し支へ候者へは刀御貸し成さるべし事。
  • 夜具銘々(めいめい)持参の事。
  • 詰中砲術稽古致し候は弾薬下し置きるべき事。
  • 春秋農業(さわ)がしき時分、三人組合の者にて助け合い申すべき事。
  • 猟師の内、役人勤め候者は、役用之れ有り時分、兼ねて申し合わせ置き、次の番に当たり候者、出役用済み次第出されべき事。
  • 役人勤め候者、当番に当たり相詰め候節、村用之れ有り候節は、御代官より直に呼び寄せ役用弁為し申すべく其の節は組にて急助拵え置き、間の欠け申さず様取り計ひ申すべき事。
  • 正月元旦 頭宅へ年礼に出候は詰め合の者一人緬代 (遠方にいる者の代わり) 相勤め、其の旨窺。正月中都合次第追々出されべき。若し差し支えを之れ有り候節は流し致すべく事。但し、上下(かみしも)着用の事。
  • 同十一日 御年寄衆へ御目見へ出候節は是又一人差し出し、其の者、名前肩書き、郷組惣代と認め申すべき事。

右之通り四丁場小頭心得 罷り出で差し引きしきべす候
寅正月二十八日

嘉永六年 神事祭礼替

願ひ替り笹踊り興行 八月十六日 定日。当村神事祭礼 往古は松明百八灯、天正中より花火、号的、花火、操り笹踊り又花火。天保十三年 御趣意にて神事祭礼等、質素に致すべき旨仰付なされ之れ依り毎年十月二十七日 湯立を祭礼と定む。嘉永六年より八月十六日 笹踊り祭礼を定む。

嘉永七年 大地震

土蔵、壁等破損多し。勢州四日市並びに伊賀上野辺り大変にて家多く潰れ人死多しと云う (安政の大地震)。さて十一月四日朝五ツ時頃、当所前代未聞之大地震にして家毎に破損大変にして土蔵勿論田畑迄欠損し、我等扣坂(ひかえざか)の下、沼田水口にておよそ三坪余り一尺ばかり沈みその下の田は一尺余り高く相成り。当村山之神の柳右衛門 (三宅) 居宅半潰れ御上様より御救米下し置かされ、大野広岡にて地割れ、水多く吹き出し候処之れ有り。それより地震揺れ続けにて、翌五日昼七ツ時頃大地震にて南の方鳴動する事荒まじく誠に恐ろしく夫々(それぞれ)皆々小屋を掛け、昼夜小屋住居にて心細き事なり。二十八日迄は昼夜に五、六、七、八度ずつ揺り通し、尤も小屋住居は十四日頃より寒気強く相止み大半は引き取りす。駿河御領内、殊の外此の時大地震。横内村七十軒余りの家敷にて七軒残り、外六十軒余り惣潰れ、その辺り東海道大変にて多くの死人有りとて、浜辺は大津波にて日本国中の大変と云う。大阪にても死人数知れざるよし。西国にては四日の地震より五日の地震大揺りにて津波多きよしなり。此の辺りにては五日の地震似ては四日の半分位と云ひ。去りたら五日の地震の後にて南の方ドンドンドンと鳴動する事。やや暫く此の音に皆々驚き恐ろしき事、筆紙に書き尽し難し。紀州熊野辺りの大地震並びに津波、大変の風聞にて言語筆が実に尽し難く。明ければ安政二年正月七日夜五ツ時頃、地震大揺り。八日の夜 大風。同十一日又大雨それより折節地震少々づつ揺りあり。

去る安政元年十二月五日、日光山大夕立にて雷鳴り光り夥しく〓(ままびと)の女子、子供、服さけ死人多く鍋、釜皆割れると伝う。

同二月一日七ツ半頃、打統て三度大揺り。夜に八迄に五度揺り。半月末より止む。

安政二年 大雨洪水

七月二十七日夜四ツ時より雨降り出し夫より北風吹き夜中風雨殊の外烈しく、朝六ツ時頃 中津川橋落ち家敷七軒程流れ田畑多く荒流さる。当村此の時、余程大水にておよそ一呼の水と云う。

それより二十七、八、九日都合三日、誠に大雨。別て二十九日八ツ時頃より大雨降る事譬えに物なし。天より水を流す如くにて昼七ツ頃、殊の外大水。所々山抜け押し出し。山川の別ち無く一面に水流れ前代未聞之大水也り。(まこと)に近年天災地変度々して恐ろしき事也。我等屋敷、庭迄水入る。下の麦田二十苅余り欠流れ其の外川端辺り山際洞口田畑欠崩れ砂入り夥しくとて当村中にて一町余り田畑川欠に相成る。東野村は勿論、大井大橋落ち橋際にて七軒流れ、其の外橋本屋小路より下は町家皆々庭へ水入る。

阿木村は橋場清治車屋、小屋、灰屋流れ、居宅半分土蔵半分残り、酒屋勘右衛門土蔵、車屋流れ酒蔵傾き候へ共、居宅共に残り、又助車屋、隠居流れ、一蔵跡居宅半分残り半分流れ、右橋場ばかりにて、かくの如きとて此の川筋大荒れ髙加以(たかゝい)にて車屋流れ、妻の神酒屋小四郎居宅流れその川筋殊の外大荒れ。

富田東光院の前の川、吉田川大水にて大荒れ。木の実村は大荒れにて村方五分余り川欠、山抜きにて潰れ、家潰れ並びに死人ありと云ひ。惣て川通り別に大荒れなり。川通り近辺にては三河押山第一番の大荒れと云う。

同年九月二十八日昼七ツ半頃 地震大揺れ

同十月二日夜五ツ半時頃 地震大揺り。此の時の地震、江戸は大変にておおそ江戸半分揺り潰れ三十六ヶ所より出火にて地震は四日の四ツ時迄揺り続き、上下死人数知れず。半死半生同断。

同十二月二十五日夜五ツ時 地震大揺り。此の外少々づつ揺り候事は日々の事故。印に及ばず。別て大揺れの地震ばかりを験置申候。

安政三年 大雨

当七月十二日 大雨洪水にて去年七月二十九日の如く大荒れにて当村田畑井水、去年破損の所大荒。

安政五年 大地震

当二月二十五日夜九ツ時頃 大地震。此の時北国殊の外大地震。越中富山近辺地獄谷と申す所、川筋山抜込、およそ二十日余り川留り一度に抜出し村々潰れ立山温泉潰れ人多く死す。

安政四年 名前改む

吉村仙次郎治(しげ)を治通と改む。 是田辺〓(タナベカ?ガヘ?)

安政六年 阿木村真原化物出る

十一月 阿木村真原金之右衛門跡養子 金右衛門と云う物の宅へ化物出る。或は大筒を打候様なる音致し、また屋根峯より立臼段(たちうすだん)の物様なる音、地響きして凄まじく後には奥庭の辺より光り物七、八寸廻りの光の如く光り出所々あるく。或は星の如くの色になり、梁の上を歩く。又(むしろ)の下もぐらもちの如くむぐむぐとして所々歩く。様々不思議あり。住居難と成り家財を売り払ひ西国巡礼に夫婦十二月出る。外に母一人子二人あり。子供を母へ預け夫婦廻国に出るよし、前代未聞不思議也。

安政七年 江戸大変 井伊大老暗殺

右三月三日 御大老井伊掃部頭様を殺害に及び、水戸老人の申にて佐野竹之助始め十七人並びに薩州御藩中有村次左衛門等、掃部頭様三月三日御登城先櫻田見付に於いて乱妨に切り込み、御供廻りと大いに戦い終に御首を上る。前代未聞の大変なり。右浪人 細川様、脇坂様を訴え出る。別に安政記に有増記有り之候。

万延二年、文久元年

空より灰降り、帚星流る…………

文久元年 和宮様御下向

今十月二十八日 大湫宿(おおくてじゅく)泊り、二十九日 大井宿御着 (和宮御東下)。惣人足二万人余り。西美濃、伊勢、三河より加助人馬来る。

文久二年 大野村難渋金百両拝借

大野村難渋。嘆願して金百両無利二十年済拝借相叶い、願主自分 (吉村治通) 並びに広岡新田 佐々木宋十 両人也。此の時、大野村旧記相改め候処。右村 川成高は元亀二年五月二十八日 大雨、山抜きして高五十石余り。川成にて今無地高なり。

同年六月末より日照りして七月中旬より程なく雨降り候。七月十五日宵より夜五ツ頃迄星の流る事誠の如し。天の真中より南の方ばかり所々引きもきらず星の流れ夥しき事也。南の方ばかり流れ、中天は雲より下にて星流れ、夫より誠に冷気に相成り、同月末帚星見ゆる。

文久三年 前代未聞の大通行助郷難渋

今年 御上洛東海道也。諸大名方御登り、(なお)又当年 諸家方 国村へ御引き取りに相成り、三ヶ年に百日の交代と御改革に相成り、奥方並びに諸家中国村へ引き取りになり前代未聞大通行。

之より助郷難渋して加助郷願として弥兵衛治房 (吉村) 四月十日出立し、江戸に於いて道中御奉行様へ願上げ奉り、願の通り近郷手あきの村、並びに三河にて御付けられ候。

当年 京都、江戸、西国とて国々大変に騒がしく候。文久二年より参勤交代緩和。三年に一回出府。大名妻子の帰国の許可。

文久三年 天誅組之乱

七月十七日 大和国五条之御陣屋 御代官鈴木源内様浪士六十人ばかり。十七日 夜参り何かと書類読聞、直に首打ち落とし、それより天の川と云ひ所に立て篭もり、外に千人ばかり百姓を従へ大変なり。井伊、藤堂、紀伊御三家にて御打ち払いに相成り大合戦の由なり (天誅組の変)

将軍家茂上洛。重ねて御上洛。翌年正月 京都御着と申し候。尤も蒸気船にて御上洛なり。六月は御下関。

今年冬 野田地内西山にて野山並びに田も少々二間余り下へ沈み申し候。四方およそ五十間余り。誠に地変也。

元治元年 禁門之辺

七月十八日 京都大変。長州方と京都守護会津方御警衛、大垣家と大合戦 (禁門の変)。京都六分消失。

元治元年 武田耕雲斎通行

十一月 浮浪士武田耕雲斎始め常陸筑波山より長州を趣向か、又は京都を出願かとそれぞれの評判にて道中筋、高崎にて合戦の由、所々御大名方御防ぎ合戦之れ有り (天狗党の乱)。和田峠にて松本勢、諏訪勢御堅め此の処にて大合戦。それより飯田へ出、それより上村口へ参り候や、又妻篭の方へ参り候や相分からず。之れ依り岩村にては十一月二十五日 東野村石仏 (小野川の下) へ御堅めにと成り候処。二十六日 上村へ御堅め移しと定め候処、弥々妻篭口より来る由に付き、又々石仏へ御堅めに成り、二十七日の朝決まり候。当年殿様大坂御加番にて御人数少なき故 一入心配。混雑恐れ入り候事なり。御陣はおよそ二十間ばかり幕打ち 大砲二挺也。

大将分 松岡勝之進 御勝手御用人
大目付 大野源兵衛、渡辺左次馬

其の外侍分三十人ばかり、足軽迄に都合百人ばかり、其の他村々猟師残らず郷夫迄におよそ六百人と云ふ。当村より猟師十二人、郷夫九人、組頭二人出張。惣人数およそ六百人ばかりを百人位づつ一組にして花無山と保古山、両平に鉄砲、竹槍にて二十七日朝より二十八日朝迄張番也。

岩村御用達並びに町役人東野村を出、兵糧のにぎり飯送る。さて又、浪士はおよそ千人ばかり。二十七日大井に泊まり甲冑又は鎧ばかり、又は兜ばかりの者も中に之れあり。大将分は甲冑にて陣羽織着騎馬にて旗さし物 美々しく。二十八日朝 五ツ頃大井出立なり。落合宿にては侍分浪人一人乱法の由にて手討ちに致し、中津川にては大将分一人、是は先和田峠にて手負い道中にて相果て、首を中津川宿にて埋め遺く。大井宿長石塔にては一人、是乱法之者手打ちに致し埋め申し、是はき者の由なり。

当飯沼村作右衛門 (宮地) と云う者、石仏御陣屋御堅より抜け出て大井へ浪士見物に参り入り候処。作右衛門村袖印を浪士見付け 作右衛門を捕へ、いづれ大垣、彦根の廻し者かと疑ひ槙ヶ根迄連れ行き、段々吟味致し候処。全く百姓に相い違い之れ無く候に付き其の所を逃げ去り帰村しき候。誠に危き命助り候。浪士はそれより鵜沼辺りより谷汲辺りへ出、北国へ移り申すべきと越前境にて大雪に逢ひ之至て難儀の様子にて越前敦賀へ出、加州様へ願出候よし 無残の次第なり。

下々の者は助命候なり。同六月二十六日 大井宿を駕篭に乗り江戸の方へ通り申し候。

元治二年 毎日日和乞之事

正月、二月、三月、四月、時候例の通にて
五月十日 木草山 口明け。
閏五月五日 農休み。
右五日、六日 天気吉。それより雨降り出し殊に冷気にて。
閏五月十七日 誠に大雨洪水。去る子年の通り大変。毎日日和乞いにて。
六月一日 村中、火場断ちにて信心。
六月二日 厳しく穀留仰出され。石田亀右衛門様御出役にて。村中籾御改め。土蔵持残らず御見分。
御改米二十二俵 有。籾二百十八俵 有。
右の通り之れ有り候之共新穀止、今だ余猶日間之ゆ有候間心配しきし候。
十四日より大雨 十五日大雨洪水 是より追々諸色高値殊に来、一駄四両余。
五月長州御進発として京都より閏五月二十五日暮六ツ大坂御入城遊され候よし。
岩村様、当年大坂加番にて彼地に在され候。 

写 吉村弥吉

吉村弥吉 平成7年配布の「(よろず)記録 天保より 飯沼村」より。


参照

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