飯沼
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2009年6月3日 (水) 22:02時点における版
目次 |
沿革
岩村城遠山氏の代々夫人に与えられた供米の取れる地であったため飯妻と呼ばれるようになったと云われている。巖邑府誌によればそれ以前は大野村と呼ばれていたのではないかと推測しているが確かではない。
新杜の開拓由来記によれば 1703年 (元禄16年/江戸初期) に大野村と広岡新田を分離し、大野村を飯沼村の枝村と定めている。現在の大野が飯沼の飛び地となっているのはこのためであろう。
巖邑府誌によれば遠山夫人がこの飯妻村で安産の祈祷し、村はその供物などを納めていたために村人は難産しなくなったと云われている。この風習は岩村から遠山氏が居なくなった後も継がれ現在でも子安講として続いている。
角川地名辞典によれば 1699年 (元禄12年/江戸初期) 頃からは沼地が多かったため飯沼村と呼ぶようになったという。戦国期に遠山氏が滅亡し湯沐邑でなくなって妻の意味が薄れたものと思われる。
飯沼村は明治の大合併 (1897年/明治30年) で阿木村と合併してその名は字として残る事となった。現在飯沼の名前は中津川市の大字。
飯沼の小字
新田
飯沼川が山から出る付近。
中尾
飯沼の東北。血洗池やゴルフ場に出る山道がある。
上樋角
下樋角
山ノ田
後田川の山際付近。
矢筈
梨坪
禅林寺から飯沼川に降りた付近。
鞍坪
梨坪から飯沼川を下った付近。
大日向
大野農免道で大野側から見て辻の手前の北側。その名が示す通り日当たりが良く広く田畑が開けている。大日向遺跡がある。また小高い丘の上に新田の祠が祀られている。
小日向
飯沼川の南、飯野のため池の下付近が小日向と呼ばれているという。
千羽鳥屋
字千羽鳥屋 1511-1 にフォーティーンヒルズカントリークラブあり。
脇田
大野農免道から方外戸の倶楽部への道が分かれる付近。字脇田 366-1 に藤工あり。
宮ノ根
宮ノ根参照。
五反田
宮ノ根から野内方面へ登る周辺。
山之神
市之坪
飯沼駅付近。
木ノ下
木ノ下古墳あり。
飯野
飯野遺跡あり。
藪下
ランドマーク
大日向遺跡
- 中津川デジタルアーカイブ 大日向遺跡出土縄文土器
宮ノ根遺跡
宮ノ根古墳
飯野遺跡
木ノ下古墳
西山遺跡
狐塚1号古墳
猿小塚古墳
木ノ下遺跡
新田の祠
大野農免農道沿い大日向付近の丘に鳥居と祠、石碑が建てられている。ここは新田の持ち宮で山の神が祀られているという。
石碑の一つにたくさんの
五輪堂
辻
神明橋
下沢橋
境橋
アサノコンクリート
阿木から県道407号で飯沼に入った場所に建てられていたコンクリート施設 (バッチャープラント)。通称アサノ生コン。平成に入った頃に撤退して暫く無人であったが、現在はほたるの里が使用している。
NPO法人ほたるの里
アサノ生コン跡地に建てられた不登校児童の民間施設。ここから阿木小学校へ多くの児童が通っている。
開設当時はオウム真理教を始めとする宗教団体が地方での活動拠点を広めている事が社会問題となっていた時期でもあった。地元住民へのコンセンサスが十分に取れていない状況とそういった社会的背景が重なり、どこかの団体の児童収容施設ではないかという噂が先行していた。