龍泉寺跡
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− | {{ruby|'''補陀山龍泉寺'''| | + | {{ruby|'''補陀山龍泉寺'''|ほださんりゅうせんじ}}は室町時代に建立され戦国の世に焼失した[[保古山]]の寺院。現在は石碑と観音堂、池、井戸の遺構のみが残っている。 |
− | + | 兵火を免れた寄木造りの[[馬頭観世音菩薩]]は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は<strong>根ノ上観音</strong> (岐阜県重要文化財) として[[萬嶽寺]]が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。 | |
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+ | == 沿革 == | ||
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+ | | 1501年頃 {{note|(文亀年間/室町)}} || 龍泉寺建立。 | ||
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+ | | {{年号|1574}} || 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。 | ||
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+ | | {{年号|1617}} || 岩村城主 [[丹羽氏信]]が跡地に観音堂を再建。 | ||
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+ | | {{年号|1911}} || 龍泉寺管轄の土地を売却。 | ||
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== 風景 == | == 風景 == | ||
+ | [[File:龍泉寺跡地 Map of Ryusenji Temple.png|thumb|龍泉寺石碑周辺の遺構]] | ||
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File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。 | File:龍泉寺 跡地01.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 別荘地にたたずむ龍泉寺跡。 | ||
File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。 | File:龍泉寺 跡地02.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 石碑と地蔵が立っている。 | ||
File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。 | File:龍泉寺 跡地03.jpg|<map title="龍泉寺" lon="137.504830" lat="35.435169"/>09/02/21 古い歴史を持ちそうな石。 | ||
+ | File:龍泉寺参道 Approach of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺参道" lat="35.4348983333" lon="137.5047116667"/>13/08/12 石碑裏手の参道。 | ||
+ | File:龍泉寺井戸跡 Well Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 井戸跡" lon="137.5049516667" lat="35.4354333333"/>13/08/12 道沿いプレハブ小屋の裏に井戸跡。真夏だが水がたまっている。 | ||
+ | File:龍泉寺池跡 Pond Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 池跡" lat="35.4354866667" lon="137.5047550000"/>13/08/12 井戸跡から10mほど離れたくぼみが池跡。 | ||
+ | File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349983333" lon="137.5051466667"/>13/08/12 石碑の少し先の別荘横に観音堂跡が残っている。 | ||
+ | File:龍泉寺観音堂跡 Kannon-do Hall Ruins of Ryusenji Temple 2.JPG|<map title="龍泉寺 観音堂跡" lat="35.4349800000" lon="137.5052233333"/>13/08/12 観音石仏と礎石が残っている。 | ||
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== 碑文 == | == 碑文 == | ||
− | + | 跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。 | |
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− | + | 浦陀は一般には通じず、後述の[[巖邑府誌]]からも{{ruby|補陀|ほだ}}の誤字か当て字と考えられる。補陀山は[[w:補陀落|補陀落]]とも呼ばれ、南海にあり観音が浄土する山を意味している。チベットのポタラ宮と同じサンスクリット語のポタラカを語源としている。 | |
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。 | 1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。 | ||
− | 天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]] | + | 天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に[[w:武田勝頼|武田勝頼]]が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている ([[岩村城の戦い]]参照)。 |
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。 | 向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは {{年号|1978}} に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。 | ||
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<div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div> | <div>'''碑文'''<br/>昭和四十六年頃此の地方一帯は開発造成され旧龍泉寺跡 (山祇神社所有地) も売却処分する事となり西尾鍚雄氏は当時氏子総代会長として補償交渉に当られました。生前氏は往時を偲び同寺本尊馬頭観世音の建碑を望んで居られたが昭和五十二年七月志し成らずして不帰の人となられました。遺言により金壱拾萬圓也を寄進せられ昭和五十三年五月三日之を建立す。氏子一同</div> | ||
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== 文献散策 == | == 文献散策 == | ||
=== 巖邑府誌 === | === 巖邑府誌 === | ||
+ | {{年号|1751}} に書かれた[[巖邑府誌]]の[[巖邑府誌/安岐#龍泉寺|龍泉寺]]より。 | ||
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+ | <blockquote class="quote"> | ||
+ | <div> | ||
+ | ○'''龍泉寺'''は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。 | ||
+ | </div> | ||
+ | </blockquote> | ||
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+ | 阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは[[天狗森山]]や[[橋ヶ谷山]]を指しているものと思われる。俗に[[阿木山]]と呼ばれる山々は古くは'''行事岳'''と呼ばれていたことが分かる。 | ||
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+ | {{ruby|仲春|ちゅうしゅん}}とは陰暦の 2 月。{{ruby|[[w:初午|初午]]|はつうま}}は旧暦 2 月の最初の午日。龍泉寺焼き討ちより 66 年後の {{年号|1640}} には焼失を免れた馬頭観音菩薩が再び祀られ、岩村府誌が書かれた {{年号|1751}} にもまだ観音堂が建っていた。寛永 17 年は岩村城主{{ruby|[[w:丹羽氏信|丹羽氏信]]|にわうじのぶ}}によって賽之神神社や三森神社の祠が建てられている事から、この年は藩内で神社仏閣整備が行われたものと思われる。 | ||
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+ | 清宝院がどこであるかは不明。[[龍泉寺道]]では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。 | ||
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+ | 竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と{{ruby|広阜|ひろおか}}の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。 | ||
+ | </div> | ||
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+ | 巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。 | ||
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+ | 北野[[w:大智寺_(岐阜市)|大智寺]]<map title="" lon="136.841194" lat="35.509828"/>の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。 | ||
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+ | この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは{{ruby|峰翁祖一|ほうおうそいつ}}禅師 | ||
+ | 開山の道場である (祖一については[[巖邑府誌/大円寺|大円寺記]]参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より{{ruby|灘声|たんせい}} {{note|(急流の響き)}} がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 {{note|(1.6km)}} ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。 | ||
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+ | 桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。 | ||
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+ | 現在の大野に寺院があったという話は存在しない。[[巖邑府誌/飯妻]]の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。 | ||
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+ | 龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に[[水神神社]]<map title="" lon="137.528333" lat="35.439062"/>とあるのがこれを指しているのかもしれない。 | ||
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=== 角川日本地名大辞典 === | === 角川日本地名大辞典 === | ||
+ | 日本地名大辞典<ref><strong>角川日本地名大辞典 21 岐阜県</strong>, <i>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三</i>, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906</ref>の''阿木''の項には以下の記述がある。 | ||
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+ | 竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、 | ||
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+ | 巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。 | ||
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+ | また同書中津川市の''寺社と信仰''の項には以下のように書かれている。 | ||
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+ | 阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。 | ||
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+ | この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。 | ||
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+ | <references/> | ||
== 伝承と四方山話 == | == 伝承と四方山話 == | ||
− | * | + | * 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には[[遠山荘]]だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。 |
− | * | + | * 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。 |
− | * | + | * 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。 |
− | * | + | * 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。 |
− | * | + | |
+ | == 参照 == | ||
+ | * [[龍泉寺道]] | ||
+ | * [[岩村城の戦い]] | ||
+ | * [[血洗神社]] | ||
+ | * [[巖邑府誌/安岐#龍泉寺]] | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
* 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像] | * 中津川市デジタルアーカイブ [http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/archives/sheet.php?code=2156 木造馬頭観世音菩薩像] | ||
− | [[Category: | + | [[Category:二分団|りゆうせんしあと]] |
+ | [[Category:神社仏閣|りゆうせんしあと]] |
2013年8月12日 (月) 23:46時点における最新版
神社仏閣 | |
---|---|
龍泉寺跡 | |
住所 | 岐阜県中津川市阿木字竜泉寺 |
位置 | N35:26:06.60/E137:30:17.38 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 馬頭観世音菩薩 (岐阜県指定文化財/萬嶽寺管理) |
祭神 | |
遺構 | 馬頭観音堂礎石、碑石 |
標高 | 868m |
交通 | 国道363号線から根の上高原へ向かう市道の右側。 |
兵火を免れた寄木造りの馬頭観世音菩薩は江戸時代に再建された観音堂に祀られていたが、現在は根ノ上観音 (岐阜県重要文化財) として萬嶽寺が管理している。今は根ノ上観音は秘仏となっており恵那三十三観音参りの時期に合わせて4月と10月の12〜18日の間のみ開帳している。
目次 |
[編集] 沿革
1501年頃 (文亀年間/室町) | 龍泉寺建立。 |
1574年 (天正2年/安土桃山) | 武田勝頼の軍勢により焼き討ちに遭う。 |
1617年 (元和3年/江戸初期) | 岩村城主 丹羽氏信が跡地に観音堂を再建。 |
1911年 (明治44年) | 龍泉寺管轄の土地を売却。 |
1934年 (昭和9年) | |
1969年 (昭和44年) | 本尊の馬頭観世音菩薩が岐阜県重要文化財指定。 |
[編集] 風景
[編集] 碑文
跡地に建てられている一番大きな龍泉寺・山祇神社の石碑には以下のように彫られている (一部判読不能)。
浦陀は一般には通じず、後述の巖邑府誌からも
1501年頃(文亀年間)〜1574年(天正2年) は室町時代の後期、つまり龍泉寺は日本が戦国時代へ突入しようという時に建立された (現在萬嶽寺に納められている馬頭観世音菩薩が室町時代のものと言われているのはこれが根拠だろうか)。
天正2年は武田軍の手に落ちた岩村城に武田勝頼が入城した年。この時勝頼はまだ遠山勢の手にあった遠山十八子城を全て落とし、周辺の神社仏閣などを手当たり次第に焼き払ったと伝えられている (岩村城の戦い参照)。
向かって右には馬頭観世音の石碑が建てられている。背面の碑文によればこれは 1978年 (昭和53年) に山祇神社氏子総代の方の遺言によって建立されたものである。
[編集] 文献散策
[編集] 巖邑府誌
1751年 (宝暦元年/江戸中期) に書かれた巖邑府誌の龍泉寺より。
○龍泉寺は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と呼ばれる池がある。
阿木の東の高山で龍泉寺跡の南とは天狗森山や橋ヶ谷山を指しているものと思われる。俗に阿木山と呼ばれる山々は古くは行事岳と呼ばれていたことが分かる。
清宝院がどこであるかは不明。龍泉寺道では山野田にあった浄光院が預かっていたと書かれているためその跡を継いだ寺かもしれない。
竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と
広阜 の二地域となっている)。この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。
巖邑府誌の書かれた江戸中期には大野はやせた土地であったという。また文脈から現在の広岡が大野より後に開拓された事が読み取れる。
北野大智寺の桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。
山中冝シレ棲白雲身
露井秋風憶フレ古人ヲ
寺下灘声居リテ自ラ聴ク
安禅応ニン三永ク嘱ス二龍神ニ一この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは
峰翁祖一 禅師 開山の道場である (祖一については大円寺記参照)。山や川がこの傍らを巡り、何より灘声 (急流の響き) がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で満たされ、そしてその急流は三里 (1.6km) ほど遠くに移動したと云う。この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。
現在の大野に寺院があったという話は存在しない。巖邑府誌/飯妻の項に書かれているように、吉祥山大禅寺とは現在の禅林寺の前にあった飯沼のお寺なのかもしれない。
龍泉寺跡の観音堂に馬頭観音像と一緒に祀られていたのは山の神 (大山祇神) である。このため龍を祀った水無明神という件もよく分からない。当時はそのような神が祀られていたのか、現在の字川上 7834 に水神神社とあるのがこれを指しているのかもしれない。
また大野なら掘れば水が出ると思うのだが井戸はなかったと書かれている。
[編集] 角川日本地名大辞典
日本地名大辞典[1]の阿木の項には以下の記述がある。
竜泉寺山に寛永17年より馬頭観音をまつり、
巖邑府誌と同様に寛永 17 年に馬頭観音が祀られたと書かれている。ただし武田の軍勢による焼き討ちには触れられていない。龍泉寺山とは保古山を指しているのだろうか? 現在の龍泉寺跡は山と言うより峠か尾根といったところである。
また同書中津川市の寺社と信仰の項には以下のように書かれている。
阿木竜泉寺跡にあった馬頭観音堂は、初午の日に馬を引き参詣する人を集めたが、現在は礎跡を残すのみである。
この記述からは里人にとって初午参りが馬や牛を祭るものであったこと、また観音堂が建立された江戸時代初期の頃には龍泉寺まで馬を連れて行けるほどの道があったことが窺える。
- ^ 角川日本地名大辞典 21 岐阜県, 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三, 1980年(昭和55年), 株式会社角川書店, ISBN 978-4040014906
[編集] 伝承と四方山話
- 寺領は手賀野から千旦林周辺と聞く。当時の岩村藩には遠山荘だけでなく延暦寺領など小さな荘園も点在していた。
- 焼失を免れた龍泉寺の山門が後に麓に移されたとも聞くが詳細は不明。
- 天台宗が武装勢力として全国へ勢力を伸ばしていた時代背景や、東山道・中仙道と恵那地方一帯が見渡せる保古山という地理から、美濃・信濃・三河周辺地域を監視するための延暦寺の前線基地といった意味合いもあったと考えられている。
- 里人には無人の別荘と林業者のプレハブが建ち並ぶ肝試し的な場所としての印象も強い。昭和50年代にプレハブの代わりに置いてあった廃バスは現在は朽ち果て熊笹に沈んでいる。
[編集] 参照
[編集] 外部リンク
- 中津川市デジタルアーカイブ 木造馬頭観世音菩薩像