岩村藩主

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目次

加藤氏

加藤景廉(かとうかげかど)

ファイル:沖の原五輪塔03.jpg
加藤景廉一族の墓
加藤次(かとうじ), 藤次郎, 大夫判官入道, 覚佛

伊勢加藤氏であった加藤景員の次男として生まれる。1180年 (治承4年/平安) 源頼朝の伊豆挙兵の際に父景員、兄光員と参じ山木兼隆を討ち取る。1189年 (文治5年/鎌倉) 奥州に征伐。1195年 (建久6年/鎌倉) 頃に美濃国遠山荘の地頭を賜る。巖邑府誌も参照。

1199年 (正治元年/鎌倉) 親しかった梶原景時の追放に伴って所領を没収される。1219年 (承久元年/鎌倉) 正月、実朝の鶴岡八幡参拝の警備役を命じられたが実朝が暗殺される。同年に出家 (責任を感じての事と言われている)。1221年 (承久3年/鎌倉) 8月3日享年66で没する。墓標は静岡県伊豆市牧之郷の加藤景廉一族の墓

なお景廉本人は頼朝について鎌倉か伊豆の自領におり、遠山荘へ来た事を示すような史料は存在していない。

岩村遠山氏

岩村遠山氏は加藤景廉を祖とし戦国時代まで続く系譜である。1221年 (承久3年/鎌倉) 景廉の没後、その領地は6人の子に継承され、遠山庄の地頭を継いだ景朝(かげとも)がその翌年に入領して遠山加藤氏と呼ばれるようになった (始めは伊勢加藤氏、伊豆加藤氏と区別を付けるため遠山加藤氏と呼ばれたと思われる)。景朝より何代かは加藤あるいは藤原を名乗っていたが[1]、何時の時代からか遠山氏となった。

始め遠山氏は美濃で勢力の強かった土岐氏に付いていた。しかし土岐氏が衰退し西美濃へ勢力を移して行くと、各地の勢力筋との婚姻を結び、子城を設けて次第に勢力を強めていった。戦国時代に入る頃には東濃が尾張 (織田)、信州 (武田)、三河 (松平)、飛騨 (三木) などの勢力がせめぎ合う地となり、いわゆる遠山七家遠山十八子城と呼ばれる城砦を展開していった。

岩村遠山氏は 1572年 (元亀3年/安土桃山) 岩村城の戦いで秋山晴近に開城するまで 351 年間続いている。代位については系譜を始終で記したような史料は存在せず、また岩村城の戦いで菩提寺であった大円寺も焼け落ちた事から大半がはっきりしていない。吾妻鏡や兼山記のように比較的信憑性の高い史料で言及されている人物もいるが、それ以外の者に関しては年代不詳の雑記や言い伝えなどに基づいている可能性がある。

  1. ^ この時代は父方・母方含めて最も功績のある先祖にあやかった名を名乗るのが通例であった。遠山氏においても景朝から何代かは景廉にあやかり「加藤次」を名乗っている。

遠山景朝(とおやまかげとも)

加藤景朝, 遠山左衛門尉, 大蔵大輔, 判官

景廉の長男で鎌倉時代の武将。美濃国遠山荘に入領し姓を遠山に改めた。巖邑府誌参照。

1203年 (建仁3年/鎌倉) 比企能員の変に父景廉と共に出陣する。1221年 (承久3年/鎌倉) 承久の乱では北条泰時に従って西上し官軍を破る。6月25日、乱の首謀者の一人である一条宰中将信能の身を預かり、7月5日に遠山荘にて斬首する (岩村神社と伝わる)。吾妻鏡におけるこの条で「遠山左衛門尉景朝」とあり初めて遠山氏の名が見られる。またこの乱において伯父光員の系統が後鳥羽上皇に与したためその所領が景廉一族へ継承された[1]。この乱の翌年に遠山荘を引き継いで土着した。

また 1235年 (嘉禎元年/鎌倉) には伯父光員の遺領である地伊豆国狩野荘牧之郷 (静岡県伊豆市牧之郷) をめぐり弟の加藤景義と争うが、北条政子の文書を証拠として示し、北条泰時から領有を認められた。

遠山景重(とおやまかげしげ)

遠山三郎兵衛

吾妻鏡 1238年 1238年 (暦仁元年/鎌倉) 4月10日に遠山三郎兵衛尉景重の名が見られる。

遠山景長(とおやまかげなが)

遠山朝兼(とおやまともかど)

遠山景忠(とおやまかげただ)

遠山頼景(とおやまよりかげ)

遠山景基(とおやまかげもと)

遠山景次(とおやまかげつぐ)

遠山景勝(とおやまかげかつ)

遠山景廣(とおやまかげひろ)

巖邑府誌では岩村城を築城したと推測している。

遠山頼景(とおやまよりかげ)

遠山景友(とおやまかげとも)

遠山景前(とおやまかげさき)

遠山左衛門尉

16世紀前半の人。天文年間 (1532-1554/戦国) に遠山氏の菩提寺である大円寺に臨済宗妙心寺派の高僧明叔・希菴を招く。1547年 (天文16年/戦国)岩村八幡神社の社頭を一宇造営。1556年 (弘治2年/戦国) 没の位牌あり。

奉造立八幡宮社頭一宇 遷宮師 法師 良辯
 大檀主遠山左衛門尉景前 敬白
 天門十六年丁未霜月十日 棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教

景前院殿前左金吾前宗護大禪定門 神儀
 弘治二年丙辰七月十三日

三河後風土記では 1501年 (文亀元年/戦国)松平長親北条早雲の合戦で松平方の軍として参加したと書かれているが、これは没年から数えて55年も前であるため書き記した者の間違いである。これについて遠山来由記ではその時代の頼景と間違えたと推測し、巖邑府誌では享禄・天文の松平清康の宇利城攻めに景前が三河方で参戦したのを間違えたと推測している。

遠山景任(とおやまかげとう)

大和守, 友通, 左衛門尉, 修理亮, 内匠助

1537年 (天文6年/戦国) 景前の子として生まれる。大井武並神社の棟札に「永禄7年 (1564年/戦国) 冬12月大和守景任奉造営」とある。

当初武田方と通じていた遠山氏であったが、東美濃が武田・織田・徳川の三勢力のせめぎ合う地となるに従って岩村城が戦略上の重要拠点となっていった。これにいち早く目を付けてた信長は自身の叔母にあたるお艶の方を景任に嫁がせることで親睦を強め岩村城を武田勢を抑える最前線拠点とした。

1572年 (元亀3年/安土桃山) 12 月、秋山信友率いる武田の軍勢が上村 (上矢作) に攻め入った (上村合戦)。景任率いる遠山氏族は織田、徳川の援軍を要請し応戦するが敗北。景任は岩村城に退いた後に城内で没した (原因は合戦の怪我とも病気とも言われている)。

戦国期

景任亡き後の岩村城の戦いから関ヶ原の戦いまでの約 30 年間は時勢とともに様々と城主が入れ替わった。

坊丸(ぼうまる)

織田勝長, 津田源三郎, 信房, 林庭宗松

織田信長の五男。子を持たずに没した景任の跡取りとしてお艶の方の頼みで 1573年 (天正元年/安土桃山) に養子として迎えられた。ただし当時 8 歳であったため実際の政事は遠山氏族とお艶の方によって行われていた (いわゆる女城主)。同年、岩村城は再び秋山信友に攻め入れられ完全に包囲された。日本有数の城山である岩村城を攻め落とすことは容易ではなかったが、それだけに兵糧攻めには弱く、結局織田方の援軍が望めないと踏んだ遠山方が和議により開城する事となった。和議の条件としてお艶の方は秋山と婚姻し、御坊丸は人質として甲斐に送られた。

坊丸は甲斐で信玄の養子となり育てられたが、織田・徳川の進軍により追い詰められた勝頼の策 (時間稼ぎといわれている) によって 1581年 (天正9年/安土桃山) に織田方へ送り返された。その後、兄である信忠について武田攻めに尽力したが、1582年 (天正10年/安土桃山) 本能寺の変で二条城にて討ち死した。

秋山信友(あきやまのぶとも)

ファイル:Akiyama nobutomo.jpg
秋山伯耆守晴近
晴近, 伯耆守

1527年 (大永7年/戦国) 秋山信任の子として生まれる。1541年 (天文10年/戦国) 元服し名を晴近とするが後の功績で信玄公より信友の名を賜る。武田二十四将の一人として武田信玄に仕え 1572年 (元亀3年/安土桃山) 上村合戦で遠山景任らを退けた後、1573年 (天正元年/安土桃山)岩村城の戦いにおいてお艶の方との婚姻を条件に開城し岩村城へ入った。

信玄亡き後の武田を継いだ勝頼が 1574年 (天正2年/安土桃山) に東美濃へ進軍するとこれに付いて戦った。しかし勝頼が長篠の戦いで敗れると甲斐からの援軍や補給も断たれ、1575年 (天正3年/安土桃山) 城兵の助命を条件に織田方の和議に応じ開城した。しかし約束は守られず秋山夫妻、座光寺、大島らは生け捕られ長良川の河川敷 (岩村の伝承では大将陣とも) で逆さ磔の刑に処せられた。

河尻秀隆(かわじりひでたか)

肥前守, 鎮吉(ちんきち), 与兵衛, 長蔵寺院洞水瑞雲

出生不明。信長の黒母衣衆筆頭として厚い信頼を受けて信忠に付き助力。上村合戦で秋山信友に敗れるも、岩村城の戦いでの功績が認められ 1575年 (天正3年/安土桃山) に秋山が退いた後の岩村城五万石を与えられる。

1582年 (天正10年/安土桃山) 2 月 信長は武田攻略のために大将織田信忠、先鋒森長可・団忠正で軍を起こし秀隆もそれに従った (天目山の戦い)。この時に信長から秀隆に対して若い彼らが軽挙妄動せぬよう抑えよという文書を何度も送っている。織田軍は飯田・大島城を陥とし、秀隆も寄手に加わって 3 月 2 日に高遠城を攻め落とした。勢い付いた織田軍は天目山に武田勝頼を追い詰めて武田氏を討ち滅ぼした。この戦の功績で秀隆は岩村から甲斐国へ転封となったが、1582年 (天正10年/安土桃山) 本能寺の変で信長が倒れると武田を信望していた甲斐の民衆による暴動が起き、岩窪で武田家臣の手に掛かって討たれた。

団忠正(だんただまさ)

平八郎, 平八郎, 忠直

生年不詳。織田信忠について戦っていたが、天目山の戦いで飯田城、高遠城などを陥した功績が認められ 1582年 (天正10年/安土桃山) に河尻秀隆の後釜として岩村城五万石に入る。ただし岩村城に居城した時期はほどんどなかったと言われている。この後も信忠に従って戦っていたが、1582年 (天正10年/安土桃山) 本能寺の変で信忠、勝長 (御坊丸) らと共に二条城で応戦し討ち死する。

信長公記や兼山記では団忠正が岩村城を承け、森成利 (蘭丸) が犬山城を承けたとしているが、遠山来由記をはじめ岩村に伝わる話では成利が岩村を承けたとしている。忠正と成利とは交流もあり双方とも居城していたわけではないことから、話の伝わるうちに間違ったか、あるいは一時期だけ入れ替わった時期があったのかもしれない。

森長可(もりながよし)

長一, 長康, 勝蔵, 武蔵守

通称鬼武蔵。1558年 (永禄元年/戦国) 金山城主である森可成の次男として生まれる。1582年 (天正10年/安土桃山) 天目山の戦いにおける功績で北信地方の20万石を承けたが、その地は武田を信望する者が多く、また上杉とも近く容易に治められる地ではなかった。度重なる暴動や一揆から長可は国衆の妻子を人質として海津城へ出させるよう命じていた。

同年、本能寺の変で信長らが討たれた事で旧武田勢の勢いが増し窮地に追いやられた。長可は人質らを盾に撤退を試み、松本にて人質らを全て処刑して木曽まで戻った。しかしここで長可を討とうとする木曽義昌の動きを察知したため、義昌の子である岩松丸を人質に取って大井宿まで逃げて解放した。

古巣の金山城に戻った長可ではあったが既にここも周囲は敵と化していた。長可は戻るや否や近隣の城を攻め落とし始めた。この時に団忠正亡き後の岩村城は戦わずして接収。苗木城攻めでは遠山友忠の奇襲に遭い撤退したが、1583年 (天正11年/安土桃山) 2度目の苗木城攻めで苗木城は陥落。遠山友忠は逃げ延び家康を頼りに浜松へ逃げ延びた。こうして美濃地方のほぼ全てから抵抗勢力を排除し豊臣秀吉に取り入った。

その後 1584年 (天正12年/安土桃山)小牧・長久手の戦いでは豊臣方に付き参戦したが、徳川軍の鉄砲部隊の前に討ち死にした。

森家支配の岩村城は家老である各務元正(かがみもとまさ)が管理していた。岩村城に現在の様な石垣が築かれたのは各務元正によるものである。

森忠政(もりただまさ)

仙千代

1570年 (元亀元年/安土桃山) 森可成の子として生まれる。長可の弟。1584年 (天正12年/安土桃山) 小牧・長久手の戦いで長可が没したため森家の家督を継ぐ事となった。ただし実質的な政務は家老である各務元正が引き続き行っていた。1634年 (寛永11年/江戸初期)

田丸直昌(たまるなおまさ)

具安(ともやす)

父である具忠が伊勢渡会の田丸城に入った事から氏を田丸と改めた。秀吉の命で海津城に居たが、秀吉の没後 1595年 (文禄4年/安土桃山) に家康の命で森忠政と入れ替わりで岩村四万石へ移封となる。

1600年 (慶長5年/安土桃山)関ヶ原の戦いでは苗木城の河尻直次らと共に西軍 (石田方) に付き大坂城守備の任に付いた。また東美濃で鶴峯城や高山城などの砦を守らせていたが敗戦。これにより浜松に逃れていた遠山友忠も直次を追いやって苗木城へ戻った。しかし具安は岩村城に居城したままであったため、家康は遠山友政に命じ遠山民部 (明智) や小里彦五郎らと共に岩村城を攻めさせた。

友政の軍 500 人が阿木と飯羽間の境の根に陣を構え、小里・明智軍も 300 人を率いて岩村城の南に陣を構えた。対する田丸軍は 300 人。敵襲の報を受けた具安が櫓に登り見渡すと既に大勢の敵に取り囲まれていた。櫓から降りた具安は一族家臣らに城の明け渡しを告げた。

領地を没収された具安は越後に流され後に出家し春日山で死去した。しかしその子孫は後に赦免されて蒲生家・前田家に仕え、旗本や老中となった。天狗党の乱にも参加した水戸藩田丸家は具安の子孫である。

大給松平氏

太輪に蔦

松平氏は室町時代から続く豪族であり、徳川家康を分出したことから徳川家 (松平宗家) の母体でもある。家康が征夷大将軍になった後も徳川氏に仕え将軍家一門として多くの旗本や大名を排出した。

大給松平氏は松平氏の庶流で三河国加茂郡大給を領したことから大給を称するようになった。松平乗元を祖とする十八松平の一つである。

大給松平氏は 1601-1638年 (江戸初期) の37年間、二代が岩村藩を領した。

松平家乗(まつだいらいえのり)

源次郎, 従五位下, 和泉守, 大聖院殿乗誉道見大居士

大給松平家の初代宗主。1601年 (慶長6年/安土桃山) 正月に上野国那波藩一万石より美濃国岩村藩二万石に転封。乗政寺山に菩提寺久翁山龍巌寺を建立。1614年 (慶長19年/江戸初期) 2月19日享年40で没。 乗政寺山墓地に墓標がある。

松平乗寿(まつだいらのりなが)

源二郎, 従五位下, 和泉守, 源高院深誉道徹

1600年 (慶長5年/安土桃山) 2月26日、家乗の長男として生まれる。母親は大垣城主石川康通の娘。1614年 (慶長19年/江戸初期) 2月19日、家乗の死により齢15にして家督を継ぐ。同年10月大坂冬の陣で美濃勢を率いて枚方に布陣、翌年5月大坂夏の陣でも美濃・信濃勢を率いて枚方から森口に進軍する。1633年 (寛永10年/江戸初期) 石室千体仏建立。1638年 (寛永15年/江戸初期) 大坂の役での功により美濃国岩村藩二万石から遠江国浜松藩三万六千石へ転封。同時に龍巌寺を浜松に移す。1639年 (寛永16年/江戸初期) 岩村に残した家乗の墓を守るため隆崇院を開基する。

1644年 (正保元年/江戸初期) 上野国館林藩六万石へ転封。1651年 (慶安4年/江戸初期) 老中となる。1654年 (承応3年/江戸初期) 享年55で没。

丹羽氏

九本骨上がり総檜扇

清和源氏の子孫。義家から10代目の一色氏兼を祖とし氏兼の孫氏明尾張国丹羽郡丹羽荘を領した事から丹羽氏を称する。氏明より9代目の氏勝は信長に仕え、またその子氏次は尾張国岩崎城で家康に仕え、小牧の役で功を成し三河国伊保藩一万石を領した。

丹羽氏は 1638-1702年 (江戸初期) までの76年、五代が岩村藩を領した。

丹羽氏信(にわうじのぶ)

勘助, 氏重, 従五位下, 式部少輔, 慈明院殿可山道印大居士

丹羽氏次の次男。大坂の役で功績があり寛永の初めに爵位を受け式部少輔、御書院番頭となる。1638年 (寛永15年/江戸初期) 4月27日、三河国伊保藩一万石から岩村藩二万石に転封。龍巌寺の跡地に曹洞宗妙仙寺を開基。1644年 (正保元年/江戸初期) 大坂加番。1646年 (正保3年/江戸初期) 5月11日享年57江戸にて没。 乗政寺山墓地に墓標がある。

塞之神神社の堂、龍泉寺跡地に観音堂を建立。妙仙寺属で禅林寺開基。

丹羽氏定(にわうじさだ)

勘助, 式部少輔, 興昌院殿桃雲宗萼大居士

1606年 (慶長11年/江戸初期) 氏信の長男として出生。1646年 (正保3年/江戸初期) 11月11日、氏信の死で家督を継ぐ。弟の信春 (猪之助氏春) に千石を与え旗本に加えた。1647年 (正保4年/江戸初期)、1653年 (承応2年/江戸初期) 大坂加番。1651年 (慶安4年/江戸初期) 松平定政の出家による領地没収で刈谷城を譲り受ける。1653年 (承応2年/江戸初期) 経王山妙法寺(日蓮宗)建立。1657年 (明暦3年/江戸初期) 4月16日享年43江戸にて没。大名墓地に墓標あり。

丹羽氏純(にわうじずみ)

勘助, 式部少輔, 直指院殿性山義見大居士

1637年 (寛永14年/江戸初期) 氏定の長男として出生。1657年 (明暦3年/江戸初期) 6月22日、氏定の死で遺封を賜る。同冬従五位下式部少輔に叙任。1669年 (寛文9年/江戸初期) 大坂加番。1671年 (寛文11年/江戸初期) 岩村八幡神社に絵馬を奉納。1674年 (延宝2年/江戸初期) 9月27日享年38で岩村にて没。 乗政寺山墓地に墓標がある。

岩村城の戦いで処刑された秋山夫妻、座光寺、大島、伴野の五名を弔うため妙法寺の東隣に五仏寺を建立。

丹羽氏明(にわうじあき)

勘助, 長門守, 性覚院殿長門權刺史徳雲道海大居士

1667年 (寛文7年/江戸初期) 氏純の長男として出生。1674年 (延宝2年/江戸初期) 9月27日、氏純の死で家督を継ぐ。1682年 (天和2年/江戸初期) 12月、従五位下長門守に叙任。1684年 (貞享元年/江戸初期) 6月、岩村に入る。1686年 (貞享3年/江戸初期) 3月2日疱瘡を患い享年20で岩村にて没する。 乗政寺山墓地に墓標がある。

室をとらず子も居なかったため丹羽権兵衛氏春の次男を養子に迎える。

丹羽氏音(にわうじおと)

勘助, 荘之助, 越中守, 壱岐守, 和泉守

丹羽權右衛門信氏の二男として生まれ氏明の養子に入る。1686年 (貞享3年/江戸初期) 3月2日、氏明の死により家督を継ぐ。1697年 (元禄10年/江戸初期) 3月、井上正利女と結婚。1702年 (元禄15年/江戸初期) 5月元禄の山村騒動が発生、同年7月騒動の責任を問われ越後国高柳藩一万石に転封。これに伴い五仏寺は廃止され本尊は神篦村の桜堂に預けられた。

大給松平氏(分派)

太輪に蔦


松平乗紀(まつだいらのりただ)

龍玄院雲巌悟心

1702年 (元禄15年/江戸初期) に藩校となる知新館を設立。

松平乗賢(まつだいらのりかた)

慈仙公

1741年 (寛保元年/江戸中期) 石室千体仏を修繕再興。

松平乗薀(まつだいらのりもり)

美作守, 能登守, 永之助, 乗基, 大良公

老中松平左近将監乗邑(のりさと)の二男で幼名を永之助乗基と称する。1716年 (享保元年/江戸中期) 冬、従五位下美作守を叙任。1746年 (延享3年/江戸中期) 6月23日、家督を相続し能登守と改める。1775年 (安永4年/江戸中期) 冬、従四位下に叙任。1781年 (天明元年/江戸中期) 4月22日隠居し 1783年 (天明3年/江戸中期) 年7月7日に没する。幕命により実子の衡は林家を継ぎ、養子の乗保が家督を継ぐ。

松平乗保(まつだいらのりやす)

能登守, 慥五郎

朽木土佐守玄綱の九男で幼名を慥五郎という。1770年 (明和7年/江戸中期) 冬に乗薀の養子となり翌年河内守に任ぜられる。1781年 (天明元年/江戸中期) 4月23日に封を継ぎ美濃・駿河両国の三万石を領する。同年9月、能登守と改める。1798年 (寛政10年/江戸中期) 7月西丸若年寄、1804年 (文化元年/江戸後期) 8月13日若年寄となり、1806年 (文化3年/江戸後期) 10月大阪城代・従四位に叙任し一万石を賜る。1810年 (文化7年/江戸後期) 6月西丸老中侍従。1812年 (文化9年/江戸後期) 6月26日没。

松平乗美(まつだいらのりよし)

能登守

幼名を幸之進と言い後に卓太郎と改める。1807年 (文化4年/江戸後期) 冬、諸大夫河内守となり後に能登守と改める。1826年 (文政9年/江戸後期) 8月24日に家督を相続。1827年 (文政10年/江戸後期) 春、大阪加番。1831年 (天保2年/江戸後期) 夏、日光御名代。1841年 (天保12年/江戸後期) 春、再び大阪加番。1842年 (天保13年/江戸後期) 11月16日、隠居して中務大輔と改める。1845年 (弘化2年/江戸後期) 8月7日没。

松平乗喬(まつだいらのりたか)

能登守

幼名を寶千代と言う。1840年 (天保11年/江戸後期) 諸大夫靱負佐となり後を継ぐ。1841年 (天保12年/江戸後期) 正月、乗喬と改め叙任して能登守とする。1851年 (嘉永4年/江戸後期) 6月、奏者番となる。1855年 (安政2年/江戸後期) 7月11日没。

松平乗命(まつだいらのりとし)

能登守

1855年 (安政2年/江戸後期) 9月、幼少で家督を継ぐ。1868年 (明治元年) 2月、明治政府につき東征の兵を一小隊出し東山道鎮撫使に属する。同年11月、駿河国の飛び地を新三位中将徳川家達へ引き渡し土岐郡の代地を賜る。翌 1869年 (明治2年) 版籍を奉還。

関連項目

参考文献

外部リンク

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