明治44年の地図

提供:安岐郷誌
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明治44年の阿木周辺地図

左図は 1911年 (明治44年) 測図の岩村地形図をトレースしたもの。ただし阿木以外の非主要道や目印は省略しているし、目視でトレースしたためそれなりの誤差が含まれている。

このページではこの地図が現在の何処が違っているかについて記述している。


岩村街道

岩村街道は東野から県道407号を進み後田川 (下沢橋) を越え、飯沼川の前で県道を逸れて左に登っている。この周辺は現在の明知鉄道軌道が道路だったようにも見受けられる。実際、県道のこの付近は造成で切り開かれたような造りである。

山側を登って上で大野農免道と合流する。農免道の先で神明神社子安寺に下り、旧県道407号と合流。飯沼川 (神明橋) を越えてそのまま道なりに現県道407号に戻る。なお、現在のように県道407号を直進させ野田からの道と繋げたのは昭和60年頃である。

県道407号を道なりに進んで野内の坂を下る。寺川の手前で右折して県道406号に入り、保育園、郵便局前を通り阿木川手前で右折して A コープ前の旧阿木橋を渡る。橋場の坂を上がり若王子神社の山の西側を廻って国道363号と合流。その先の塞之神橋で旧国道363号に入り、塞之神神社の前を通って直進。日帰方面に向かう三叉路を右に行き打杭峠 (乗馬場の横) を越える。打杭峠の阿木側は整備されているが岩村側は山道である。

富田を超えて石燈籠を越えた上り坂を左に逸れて旧国道363号を登る。いぼ石の三叉路を右へ抜け再び現国道363号と合流。橋を渡った信号で岩村の城下町とつながって終点となる。

なお塞之神から日帰を抜け大円寺につながる道も書かれている。これは大円寺へ抜けるための間道だったのだろう。

飯沼地域

大野農免道が完成したのは昭和49年である。の先の五輪堂あたりから矢筈につながる道が見られる (今でも五輪堂の道向かいに旧道の入り口らしきものが残っている)。飯野溜池の場所には梨坪から野内・北側につながる道が見られる。また北側の農免橋の下に広岡分校が書かれている。

阿木西部

宮田の整田碑から阿木川ダムに向かう道が出来ておらず、また野田トンネルも出来ていない。駅から線路をくぐって右に折れ、マンジの坂を登って野田に出る道が書かれている。またその間道として天神神社の北を抜ける道も書かれている。八屋砥から阿曽田に出る道が阿木川を渡っているが、ここにはおそがい吊り橋があったと聞いている。八幡神社の鳥居周辺は田んぼに囲まれている。

阿木南部

旧阿木橋から見沢方面に行く道は寺川のところで上流方向に入り組んで書かれている。A コープの先の高校への坂を登り、そのまま直進して寺川を渡るのがあったのかもしれない。

真原農免道が出来たのは昭和60年頃である。藤上からは中学校の下の道を通って長楽寺に出て根木屋橋大根木橋を通って真原に出ていた。

岩村・飯羽間

現在の岩村駅から旧国道257号沿いに岩村電気軌道が敷かれている (国鉄明知線はまだない)。現在の小沢大橋の付近にこの岩村電鉄の発電所が書かれている。この発電所跡は現在でも渇水時に見られると聞く。

また、現在の阿木川湖小沢峡のこぶし公園の西側と思われる位置に小沢冷泉 (鹿の湯) が書かれている。これは岩村府誌にも書かれている冷泉である。

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