遠山来由記/岩村城主遞代次序

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岩村城築城

岩村城築城について。築城の創始は何時の時代か全く不明である。遠山領主が土着して久しい事からその創造もまた遠くであろう。推測すると建久6年 (1195年/鎌倉) 以後だろうか (建久6年より寛延元年 (1748年/江戸中期) まで554年)。言い伝えによれば応仁2年 (1468年/室町) であるという (寛延元年より去ること281年前)。

岩村城主遞代次序
  岩村築城ノ事築城ノ創始何レノ時カ實二不分明遠山領主其來ル事久シ準知ス創造モ亦遠カラン耳
推議ス建久六年以後ナル歟建久六乙卯年ヨリ寛延元戊辰年迠五百五十四年
傳説ス應仁二年戊子ナリト寛延元ヨリ計之以前相去コトニ百八十一年也

遠山氏

加藤左衛門少尉藤原景廉

遠山左衛門尉藤原景朝

建長5年 (1253年/鎌倉) (景朝の頃) から永正5年 (1508年/戦国) (頼景の頃) まで年数およそ256年。その間にその党の人は最も多く諸記録にその名を出しているが、家系の連続は詳しく分かっていない。前述したように確かな所のみを挙げる。

遠山三郎兵衛尉景重

遠山孫太郎左衛門尉景長

遠山加藤次朝兼

前述の通り右の三人もまた遠山城守である。

遠山左衛門尉藤原頼景

永正年間 (1504-1520年/戦国) の頃。

遠山左衛門尉藤原景友

大永4年 (1524年/戦国) 卒。

遠山左衛門尉藤原景前

天文年中 (1532-1554年/戦国) の頃。弘治2年 (1556年/戦国) 卒。

遠山左衛門尉藤原景任

永禄年間 (1558-1569年/戦国) の頃。元亀3年 (1572/戦国) 卒。

加藤左衛門少尉藤原景廉
遠山左衛門尉藤原景朝

建長五癸丑年景朝現在ヨリ永正五戊申年頼景現在ニ至テ歳數凡二百五十六年斯間ニ於テ其黨ノ人最モ多ク諸記諸録二其名ヲ出スト雖モ家系ノ連續詳カナラサル故ニ今其ノ疑キヲ闕テコレヲ列出サヽル耳上ニ斷シ竟ルカ如シ

遠山三郎兵衛尉景重
遠山孫太郎左衛門尉景長
遠山加藤次朝兼

右三人是亦遠山城守ナルヘシ上ニ辨スルカ如シ

遠山左衛門尉藤原頼景 永正年間現在
遠山左衛門尉藤原景友 大永四年卒
遠山左衛門尉藤原景前 天文年中現在弘治二年卒
遠山左衛門尉藤原景任 永禄年間現在元亀三年卒

戦国期

御坊丸

元亀3年 (1572/戦国) 12月、齢8歳で家督を継ぐ。城主で居たのは僅か3ヶ月余り。

御坊丸 元亀三年壬申十二月享齢八歳ニテ家督ス領城ヲコト僅三月餘

秋山伯耆守晴近

武田家臣。信州高遠城守 (甲陽軍鑑によれば弘治2年 (1556年/戦国) 秋山に兵250騎を付けて伊那の郡代として高遠城に置くとある)。天正元年 (1573/戦国) 3月、遠山城に入る。天正3年12月までの在城およそ3年である。

秋山伯耆守晴近 武田家臣

信州高遠城守也甲鑑云弘治二年秋山ニ兵二百五十騎添テ伊那ノ郡代トシテ高遠城ニ置クト天正元癸申年三月遠山城ニ入ル而三年ノ極月ニ至ル在城凡三歳ナリ

川尻肥後守鎮吉

織田配下。12万石を領し伊勢川尻を兼ねる。鎮吉の父は川尻右馬允鎮祐という。

天正3年 (1575年/戦国) から10年 (1585年/戦国) まで8年間在城。天正10年に甲斐国へ移った[1][2]。この年の3月11日に武田が滅亡し、これで信長は諸将に恩賞を与えた。川尻肥後守は甲斐国半国に信濃国諏訪郡を加えて賜った。森蘭丸は美濃国岩村城を五万石で賜ったという (三河後風土記十八)。

明智光秀の謀反によって京都で信長父子が殺されると諸国は騒乱した。川尻も領民の一揆に苦しめられ大変な災難[3]を被った。このため徳川家康公が本田百助、名倉喜太郎に兵卒を付けて甲斐国に援兵を遣わしたが、誤って川尻は徳川公を疑い百助を殺して直ぐに新府の館から逃走した[4]。これを百助の従卒と郷民らが追撃し遂に川尻は討たれた[5] (6月18日)。鎮吉の子の下野守吉治は相模国に逃れて北条氏に仕えた[6] (後風土記十九)。つまり川尻が甲斐国に居たのは少しの間である。

川尻肥後守鎮吉 織田徒屬也 領十二萬石兼勢州川尻

天正三年ヨリ十年迄在城八年ナリ天正十年甲刕二徙ル武將感狀記ニ云川尻肥前守ハ信長卿ヨリ参州長篠ニ於テ甲ヲ賜テ軍令ヲ司ル者也因茲甲州ヲ賜ルト謂ク此年三月十二日武田滅亡ス信長ヨリ諸將ニ恩賞ヲ賜フ於中甲州半國ニ信刕諏訪郡ヲ加ヘテ川尻肥後守ニ附ス美州岩村城ハ森蘭丸ニ賜ヒ五萬石を授ト参刕後風土記十八是時川尻ハ代テ甲州ニ移住ス而後同年六月信長父子京都ニ於テ明智光秀乃弑逆ニ遇フ故ニ諸國騷亂ス川尻モ國民一揆ガ為ニ困ラレテ甚タ危難ニ及ブ因テ徳川家康公救之為ニ本田百助名倉喜太郎ニ兵卒ヲ添テ甲州ニ遣ス而ルニ川尻謬テ徳川公ヲ疑イ譌計テ忽チ百助を殺シ卽チ新府ノ館ヲ出テ逃走ル時ニ百助ガ從卒及ビ郷民等急ニ追之相闘テ遂ニ川尻ヲ討ツ是六月十八日ナリ子息下野守吉治ハ遁レテ相州ニ適キ北條氏直ニ仕フト後風土記十九然ハ則チ川尻甲州ニ在ルコト惟ダ暫時ノ間也

○鎮吉父ハ川尻右馬允鎮祐ト云 / ○鎮吉信長記ニ肥前ト云肥前肥後前後各ノ改轉歟 / 鎮吉無道ニシテ國人ニ悪マレシ事ハ甲鑑全廿二北國太平記四等ニ出ス / 百助ヲ殺スハ十四日ノ夜寐入タル處ヲ窺テ切ル十八日川尻死ス甲鑑年譜 / 鎮吉ハ山縣源四郎乃郎等三井弥一ト云者ニ討タル北太平記 / 又後風土記二十三日天正十四年秀吉筑紫攻ノ下ニ肥後國筒獄城ヲ開遁シ故ニ其城ヘ川尻肥前守ヲ籠置クト註ニ鎮吉乃子也トアリ今ノ吉治トハ別人歟可考

ちなみに関ケ原戰記ではこの時の事を「川尻肥後守に甲斐国を与える。ただし穴山の本領である下山あたりは除く。ここへ替地として信州諏訪を付す。森武蔵守に信州川中島を与える。かつ木曽の本領である二郡に加増してまた二郡を与える。団平八に濃州岩村を与え森蘭丸に同州金山を与える云々」と書かれている。

現在の金山城は永禄8年に信長より森三左衞門可成に与えられたものである。可成の死後、この城は嫡子である武蔵守長可に与えられ、天正12年に長可が戦死すると秀吉より庶子右近大夫に与えられた。この時15歳で仙千代と号していた。後に慶長4年家康公の命によって右近大夫は信州川中島へ領十二万石で転封となった。

さて、嫡子である武蔵守が金山城守であったのに二男の蘭丸に与えられるという道理があるだろうか。関ヶ原戰記は誤りである。ただし武蔵守が金山を領するうちに川中島を兼領する事があったのかもしれない。またこの時岩村を団平八に付すとは諸記で相違がありこれも用とはならない。団平八は明智が京都で謀反を起こしたときに蘭丸と同時に討ち死にした。

  1. ^ 武将感状記によれば川尻肥前守は三河国長篠で信長公より甲を賜り軍令を司った。これを甲州を賜ったと間違えたと。
  2. ^ 鎮吉は信長記では肥前という。肥前肥後の前後がそれぞれ回転したのだろうか。
  3. ^ 鎮吉が無道で領民に憎まれていたと甲陽軍鑑21、北国太平記4に記されている。
  4. ^ 14日の夜に百助が寝入ったところをうかがって切り殺した。川尻は18日に死んだ (甲陽軍鑑)。
  5. ^ 山県源四郎家臣の三井弥市という者に討たれた (北太平記)。
  6. ^ また後風土記23日、天正14年秀吉が筑紫を攻め肥後国筒獄の城を開城し川尻肥前守を置いた。註に鎮吉の子なりとある。この吉治とは別人だろうか。

森蘭丸

五万石 (伊勢国を兼ねる)。天正10年 (1582年/安土桃山) 10月3日に岩村城を賜ってつかさどる。

天正5年 (1577年/安土桃山)、齢13歳で安土城へ召し抱えられ左僕射(さぼくや) (左大臣) 平信長公に宦事する[1]。信長寵幸の侍童で常にその傍らから離れず、このため一日も居城せずに各務兵庫を城代としていた (正しくは兵庫の家士の各務八右衛門守である)。天正13年6月2日に京都本能寺で信長に従って討ち死にした[2]。このため蘭丸が岩村城主だったのも僅かな間である。

  1. ^ 蘭丸は容姿端麗で才芸も秀でていた。時の人は皆美しいと賞賛したと云う。
  2. ^ この時に兄弟三人とも戦死した。蘭丸18歳、坊丸17歳、力丸16歳という。坊丸と力丸は敵と遭遇し数カ所の傷を被り二人とも自害。蘭丸は敵の陣中に突撃しておおいに苦戦して死んだ。母の勝壽院妙向尼は深くこれを悼み三子のために同じ7月2日に金山で葬礼を執り行う。武蔵守も喪服で弔礼があり、家士は皆集まり母は三子のために千本卒塔婆の仏事を行って大勢の僧で盛大に供養する。現在中野の千本卒塔婆というのがその遺跡と伝えられる。

森蘭丸 秩五萬石兼勢州天正十年三月嵒城賜テ知之

天正五年齢十三ニシテ安土ノ城ヘ登リ左僕射平信長卿ニ宦事ス蘭丸姿貌倫ヲ絶シ才藝亦此無シ時ノ人多ク美讃スト云是信長寵幸ノ侍童恒ニ其傍ヲ離レズ故ニ一日モ居城セス各務兵庫ヲ以テ城代トス實ハ兵庫乃家士各務八右衛門守之

天正十年六月二日京本能寺ニ於テ信長ニ從テ討死斯時兄弟三人同ク戰死ス曰蘭丸十八坊丸十七力丸十六也坊丸力丸ハ歒ニ相當テ數个所創ヲ被リ二人倶ニ自殺ス蘭丸ハ歒ノ陣中ニ駈入テ大ニ苦戰シテ死ス母公勝壽院妙向尼深ク悼之三子ノ為ニ同七月二日金山ニ於テ葬禮ヲ執行フ武藏守モ喪服弔禮有リ家士皆尒リ母公三子ノ為ニ千本率都婆ノ佛事ヲ行フ大ニ衆僧ヲ供養ス其場地至今中野千本率都婆ト名クル者其遣蹟也ト云因テ蘭丸嵒城主領ハ亦是暫時ノ間也

森家譜系

先祖の八幡太郎義家の六男 (七男の間違いか) 森六郎義隆で始めて森氏と称す。その子の森冠者頼隆は治承4年に千葉常胤の宅で初めて頼朝公に拝謁する。頼隆の二男森次郎は後に伊豆守と改めた。その嫡子である森太郎義泰、同二男森二郎定氏、同三男森三郎頼泰、同五郎泰朝、これら四人兄弟の子孫がそれぞれ森氏を称し父祖の業を継いで繁栄した。

文亀・永正の頃、美濃国羽栗郡蓮台村 (岐阜県羽島郡笠松町田代) の佳人森越後守可勝は文武無備す。この頃、美濃国では斎藤道三が欲しいままに武威を振るい暴悪無道で所々の地を押領していた。このため可勝は秘密裏に尾張国勝幡城守織田備後守信秀と和親して志を通じた。大永3年に一男三左衛門可成を授かる。

○森越後守源可勝
 ├ 可成 三左衞門尉 戰功金山記ニ具也 元亀元年江州宇佐山ニ於テ討死
 │ ├ 長可[1] 勝藏 武藏守 天正十二年四月九日ニ尾州長久手ニ於テ討死
 │ ├ 女 若狭少將勝俊室
 │ ├ 蘭丸
 │ ├ 坊丸
 │ ├ 力丸
 │ ├ 女 於武姫
 │ ├ 竹丸 妙願寺左京後昇進
 │ └ 忠政 仙千代右近太輔後家康公ニ屬ス
 ├ 可政 對馬守
 ├ 女 關小十郎右衛門カ妻 民部成次ヲ生ム
 ├ 女 長田又左衛門カ妻
 └ 傳兵衛尉 手筒山ニ於テ討死

  1. ^ 長可 長一作所有リ非也

田丸中務小輔源具忠

一説に具安

関ヶ原戦記(十三)によれば東美濃の岩村は田丸中務の城で秩禄四万五千石なりという。この田丸氏はもとは蒲生氏郷(がもううじさと)が伊勢国松坂に居た時の旗下である。氏郷が奥州へ下る事になり太閤秀吉の命で氏郷に属して会津へ赴いた。これで氏郷から三春城五万五千石を与えられた。氏郷の没後、嫡子の秀行は所領を減らされ宇都宮に移ったが田丸は大阪に帰参した。この時に秀吉より岩村城を賜ると (己上)。

ここで秀行が若松百万石を没収されたのは文禄4年である。この年に田丸が岩村城守となったのならば慶長5年までの保城は6年間である。また考えると森蘭丸が天正10年に没して以来、文禄4年に至るまでの間14年についてはまだ考えていない。また一説には中務自身は伊勢の田丸に住んでおり岩村城は抱城であったため家士の某が守っていたともいう。

田丸は太閤秀吉公の徒属である。蘭丸以後にこの岩村城を賜った。太閤の没後、石田治部小輔三成に党与し、慶長5年9月15日石田三成は美濃国関ヶ原に於いて徳川神君と合戦し一戦に利を失い一族党類ことごとく滅んだ。このため田丸も速やかに降参し城を開けてこの城を出た。田丸の後、(慶長5の初冬から6年の初春まで) 徳川家より番士を置いてこの城を守衛させたという (最初は内藤豊前守、後に三宅孫右衛門)。

田丸中務小輔源具忠 一説具安

關原戰記十三曰東美濃岩村ハ田丸中務カ城秩禄四万五千石也此田丸ハ
舊蒲生氏郷勢州松坂ニ有シ時ノ旗下也氏郷奥州ヘ下ルニ迄テ太閤
秀吉ノ命に依テ氏郷ニ屬シテ會津ニ赴ク因テ氏郷ヨリ三
春ノ城ニ五万五千石ヲ添テコレヲ田丸ニ附ス氏郷没後嫡
秀行所領ヲ減セラレテ宇津宮二移ルニ及テ田丸ハ大坂ニ
歸参ス故ニ秀吉ヨリ賜岩村城ト己上今謂秀行若松百万石ヲ没
収ノ事ハ文禄四乙未年ナリ此年田丸岩村ノ城守ト成ラハ慶
長五年庚子迠ハ保城ノ間六年也○又案スルニ森蘭丸天正十
壬午年亡ス以來文禄四年ニ至テ其間相去コト十四年ナリヤ
未考○又一處ニ云中務自己ハ伊勢ノ田丸ニ住シ岩村城ハ為
吾抱城家士某守之ト云

田丸ハ太閤秀吉卿ノ徒屬ナリ蘭丸以後
斯嵒城邑ヲ賜フ太閤没後石田治部少輔
三成ニ黨與ス慶長五年九月十五石田三成
美州關个原ニ於テ徳川神君ト對戰シ一
戰ニ利ヲ失イ一族黨類悉ク亡ブ故ニ田
丸モ亟ニ降テ開城ヲ出此城田丸ガ後慶長
五ノ初冬ヨリ六年ノ初春ニ至ル
徳川家ヨリ番士ヲ置テコレヲ
守衛セシムト云初ハ内藤豊前守後ハ三宅孫右衛門

岩村開城(伝説)

ここで伝説を挙げて田丸開城の始終を記す。慶長5年 (1600年/江戸初期) 秋9月、石田敗軍の後も田丸は尚岩村城を守っていた。家康公は隣境の苗木城守遠山久兵衛友政に命じて田丸に向かわせ、また併せて明智守遠山民部、小里城の小里彦五郎を与力として付けた。

同年冬10月9日寅の上刻 (午前3-4時頃) それぞれ城を出発し岩村に赴いた。友政は兵五百を阿木と飯羽間の布陣し、小里・明智もそれぞれ兵三百余りを岩村城の南に敷いた。田丸は手勢僅か三百騎で籠城している。敵が攻め寄せたと聞いてやぐらに登り城の南北を見回すと騎手がひるがえり軍兵が充満していた。

田丸は急いでやぐらより飛び降り家士らに向かい、これは防戦しきれるものではない、城を無事開け渡し自ら髪を剃って世を逃れんと言うと城中が静まりひかえていた。そこへ友政の使いである陶山次郎兵衛が来て、家康公の命によりここに出向いてきた、早々に城を明け渡すかどうかと言った。田丸はこれに直ぐ返事をすると答えて陶山を還した。

友正の元へ田丸の使者が来た。城を明け渡すという条件は違いない、御大儀ではあるが大手の城戸まで出向き給えと。友政は承諾し使者を帰した。その後、田丸中務は髪を切って投げ捨て、織物の袴に一尺八寸の太刀を帯び、家臣の石部外記を召し連れて大手の木戸へ出た。友政も揭布の織物の袴に太刀を帯び大手へ向かった。家臣の纐纈藤左衛門は黒系の鎧に鎖手拭にて鉢巻きし二尺八寸の太刀を横たえて供奉した。

互いに近づき田丸が言うには、城を明け渡す事に別儀なし、これより我は高野山に登るべし、しかし長々の籠城に困窮して路用の蓄えなし、なれなれしき事で恥じ入り候へども、少々の助力に預かり度候、また白昼に城から離散するのは面目ないため暮れを待ってから退出申したい、かつこれから西美濃の辺りまで案内を付けて頂ければ重々の恩であると。友政は始終を聞いて承諾し双方は退いた。

さて中務は城へ戻り、城戸を開けて城中の男女ことごとく出すべしと下知した。ここで城中に居た八十人余りの女子供らは何日もの籠城に疲れ飽きていたため、出られるのを喜んで荘艶をも繕わず我先にと争い出でて東西へさまよう有様を見て哀れを催せり。その他、総家中下部に至るまで後や先にと城を離散した。

大将の中務はその晩景即ち旅行を促す。家臣の外記若党に長刀一振りを持たせ主従もろとも忍びやかにすごすごと出る時、田丸は離別の上を述べて曰く

武門榮耀暫時夢 武門の栄光は短い間の夢
業障輪回報此期 
堪耻衰弊零丁苔 
誰知今日別離思 誰が今日の離別の思いを知るだろうか

岩村ニタマル物トテ雪バカリ消モヤセント思フ我身モ

これを大手の城戸の扉に張り城を出た。友政の陣から藤左衛門が出迎き、軽少ながら御路用のためと金五十両を出し与えた。中務は涙を流してこれを頂き納め、自分の長刀を出して、これは田丸家代々の重宝の打ち物であるが今度友政出向きの印にまた恩謝の気持ちであると云々。藤左衛門はこれを受け取り足軽両人を呼び出して西美濃あたりまで案内に召し連れらるべしと言って本陣に戻った。田丸主従は案内を先に立たせて夜に紛れて行った。

これを南手に報告すると小里、明智は友政の陣で会合し、三将共に士卒を引き連れ桃燈を立て並べ城内を巡検した。人気は全くなかったが広間を見れば大将の物具 (武具) を初めとして練器馬具の類が山のように積み置かれていた。友政は士卒に命令してことごとく取り改め城中を逐一点検して領知水巻などまで帳面に改めた。家臣の石垣兵左衛門に与力、足軽、中間差を付けて当分の城代とした。小里、明智も同じく数人を残して夜が明ければ三将ともに皆万歳を唱えて陣を返したと (己上)。

田丸が与えた長刀は現在苗木の家にあって重宝とされている。これを田丸長刀と呼ぶという。

岩村開城(関ヶ原記)

関ヶ原記 (十三) を調べてみると中務の身は大阪に参勤し岩村には田丸主水(たむらもんど)を置いて留守させていた。主水は敵襲を考え土岐と高山との二箇所に砦を構え兵を分けて配置した。この二つの砦から変動転化して出戦し敵を退けるためである。この本城は高山にあったが兵を出すのに不便であったため二つの砦を構えたのである。

この近境の妻木郷に妻木雅楽助という者が居た。無二の関東方であったためその身は微小であったが続々軍を出し田丸領を侵略していった。しかし敢えて城中から兵を出さず妻木は二つの砦に向かって何度か攻戦したが勝負は決しない。そうこうしている間に関ヶ原合戦で徳川公が勝利し、これより大坂へ向かった。田丸中務はこの時大坂に居て降参したため、妻木は公の命で城を受け取る役を負った。

この時に遠山勘右衛門 (明知城主七千石)、和田助右衛門 (小里領主三千石) が援兵として妻木方におり、会談して公命を城内に告げた。城中にも既に主人の中務より告があったが、主水は妻木は当敵なれば城を渡すに快いとせず、願わくば隣境なれば苗木殿に渡すべしと言った。このため久兵衛友政は岩村城に駆けつけ城を受け取り、田丸主水は城を出て去ると云々。

これは前の伝説と全く違っている。両説ともその内容は共に道理あってにわかには否定しがたい。ここで試しに一議を設けるなら、岩村開城以前は主水が城守で妻木と戦っており、開城の時には中務が自ら籠もって城を開けたのだろうか。伝え聞きの異説は強いて会せない。ただし田丸中務が逃世した事は本当の事である。当城没落以後その蹤蹟なく、また知る人も居ない。

大給松平氏

松平和泉守源家乗

領二万石。慶長6年 (1601年/江戸初期) (正月) 上野国那波藩より転封しここ岩村城に移る。慶長19年 (1614年/江戸初期) (没年) に至るまで14年間の城主である。

松平和泉守源乗寿

当初二万石だったが後に増禄。慶長19年 (家督) から寛永15年 (1638年/江戸初期) まで25年間の城主である (この年に遠江国浜松藩三万六千五百石余りへ転封)。

両代合わせてこの岩村城を領すること38年である。三河国松平十八家の随一、大給家とはこの松平氏である (大給家系を左の累譜に挙げる)。

松平和泉守源家乘 領二萬石

慶長六辛丑年正月上州那波邑ヨリ得替
此嵒城ニ移ル慶長十九甲寅年卒年ニ至
守城ノ間十四年也

松平和泉守源乘壽 初二萬石後増禄

慶長十九年家督ヨリ寛永十五年戊寅年ニ
至テ守城二十五年也戊寅ノ年遠刕濱松ヘ得替秩三万六千五百石餘
兩代合テ此嵒城ヲ領スル事其間三十
八年ナリ其参州松平十八家ノ隨一大
給家ト云フ者是也今因ニ大給家系ヲ擧ク畧譜左ノ如シ

大給家譜系

乘元 松平源二郎 加賀守 清和源氏新田大炊助義重十三代ノ後胤徳川右京亮源親忠公第二ノ男也 参州加茂郡大給城ニ居ス秩五千石餘ト云 天文六丁酉年卒ス謚松明院生前ノ行業ハ彼家譜ノ如シ ─ 乘正 松平源二郎 左近忠 六十二歳卒 ─ 乘勝 松平源二郎 卒年二十二 ─ 親乘 松平源二郎 左近督 和泉守 是徳川源清康公時世ノ人軍功家譜ニ見ユ 眞乘 松平源次郎 左近督 天正十壬午歳卒ス 是徳川源家康公ニ從テ數度ノ戰功有リ 右皆居城ハ大給ノ郷 秩禄亦咸五千餘石ト云次ノ家乘モ初ハ亦同シ ○眞乘ノ戰功家乘ノ戰功具ニ家譜ニ出 ─ 家乘 松平源次郎 和泉守 天正十年八歳ニシテ家督十三歳ノ時家康公ノ膝下ニ於テ首服ヲ加フ御諱字ヲ賜テ家乘ト号ス 天正十八年小田原北條汳落ノ後チ始テ一万石ニ封セラル上刕那波邑ヘ得替慶長六年美州岩村ヘ得替 秩二万石也同十九年二月卒ス松石山内ニ廟所有大聖院殿ト号ス ○家乘代日本諸大夫ノ冠ト定ル ─ 乘壽 源次郎 松平和泉守 慶長十九年行年十五家督相續大坂冬夏兩度共ニ出陣戰功等家譜ノ如シ 寛永十五年岩村ヨリ濱松ヘ徙リ正保元甲申年上州館林ヘ得替秩ヲ増シテ六万石餘 慶安四年八月天下ノ執權職ヲ𣴎テ四位ノ侍從ニ任ス𣴎應三甲午年正月逝ス年五十五遺廟館林善導寺ニ在リ ─ 乘久 源次郎 宮内少輔 松平和泉守 𣴎應三年家督寛文元辛丑年館林ヨリ下總佐倉ヘ得替延寶六戊午年肥前ノ唐津ヘ移ル加増一万石也都テ禄七万石貞享三丙寅年卒ス ─ 乘政 乘壽ノ二男 小字助十郎 〓

丹羽氏

丹羽家譜系

此次丹羽家五代ヲ列ルニ就テ預彼家系ヲ示ス委キ事ハ附録ニ出スガ如シ

公深 一色 宮内大輔 清和皇十二代後胤源𣳾氏ノ四男也 ─ 範氏 次郎 一色 ─ 直氏 右京亮 一色 ─ 氏兼 右京亮 一色 ─ 氏宗 勘次郎 一色 ─ 氏明 己下丹羽ト称ス尾州丹羽郡ニ住ス丹羽平三郎ト云 ─ 氏時 次郎左衛門 ─ 氏盛 傳助 ─ 氏範 勘六左衛門 ─ 氏從 和泉守 尾州折戸城ヲ築テ住ス 折戸壘トハ是ナリ ─ 氏員 新助 假名平左衛門 本郷ノ城に住ス ─ 氏興 平左衛門尉 居城本郷 ─ 氏清 丹羽若狭守 秩七千石己下同秩 尾刕愛智郡岩﨑ノ城ニ守タリ ─ 氏識 右近大夫 岩崎城主 ─ 氏勝 右近大夫 岩崎 初信長ニ從イ後家康公ニ屬ス ─ 氏次 勘介 岩崎城守 家康公ニ屬シテ所所ノ戰功最モ多シ彼家譜及三河後風土記等徃徃ニ出ス ○慶長五年三刕伊保ノ城ニ移ル秩一万石翌六年ニ卒ス年五十二 ─ 氏信 勘介 氏次二男 是亦家康公ニ仕ヘテ戰功多シ 大坂冬夏ノ陣殊ニ働ク 元和三年丁巳從五位下式部少輔ニ任ス 寛永十五戊寅年美濃岩村城ヘ徳替加封有テ秩二万石正保三丙戌年卒ス年五十一 ─ 氏定 勘介 式部少輔 氏信ノ男 正保三家督明暦三丁酉年卒ス年四十三 ─ 氏純 勘介 式部少輔 氏定ノ息 延寶二甲寅年卒 三十八 ─ 氏明 勘介 長門守 氏純ノ男 貞享三丙寅ニ卒年二十 氏明性覺院 兩廟所松石山内ニ有リ ─ 氏音 勘介 初越中守 次壹岐守 後和泉守 氏明ノ養子 元禄十五年越後州頸城郡高桺邑ヘ得替禄半減シテ一万石ト成ル 寶永二乙酉年江府ニ卒ス年二十八 ─ 倚氏 勘介 初式部少輔 後和泉守 氏音ノ養子 秩一万石同高柳ヲ領ス 初䅈者役後大坂常番在所ヲ橎州ニ得延享二年願ニ依テ大坂番御免

丹羽式部少輔源氏信

秩禄二万石。三河国伊保藩からこの岩村へ転封。城主9年間 (寛永15年の転封から正保3年没まで)。

丹羽式部少輔源氏定

秩禄同じ。城主12年間 (正保3年の家督から明暦3年没まで)。

丹羽式部少輔源氏純

秩禄同じ。城主18年間 (明暦3年の家督から延宝2年没まで)。

丹羽長門守源氏明

秩禄同じ。城主13年間 (延宝2年の家督から貞享3年没まで)。

丹羽和泉守源氏音

秩禄同じ。岩村城守およそ15年 (貞享3年の家督から元禄15年の転封まで)。

以上、丹羽家五代が岩村領主であったのは寛永15年から元禄15年まで65年である。

丹羽式部少輔源氏信 秩禄二万石
参州伊保邑ヨリ此岩村ヘ得替城守ノ間九年寛永十五年ヨリ得替 正保三年ニ至ル卒年

丹羽式部少輔源氏定 秩同前
城守ノ間十二年正保三年ヨリ家督 明暦三年ニ至ル卒年

丹羽式部少輔源氏純 秩同前
保城ノ間十八年明暦三年ヨリ家督 延寶二歳ニ至ル卒年

丹羽長門守源氏明 秩同前
城守スル事十三年延寶二年ヨリ家督 貞享三ニ至ル卒年

丹羽和泉守源氏音 禄同前
嵒城守領凡十五年貞享三年ヨリ家督 元禄十五年ニ至ル得替

以上丹羽家五代岩村主領ノ間寛永十五ヨリ元禄十五ニ至テ歳數都テ六十五年也

元禄の山村騒動

ここで丹羽家衰退の理由を考えてみる。そのきっかけは五代目城守氏音の代である。家臣の丹羽三郎兵衛 (領七百石)、鈴木源太左衛門 (領五百石)、丹羽角左衛門 (三百五十石) 他、角左衛門の舎弟に山村瀬兵衛 (二百五十石の用人役[1]) という者がいた。瀬兵衛はすこぶる材力があったため家臣の中でも君主に通じており、かたくなに君主の得用を重んじて倹約をもっぱらとしていた。また権力を振るって家中の諸事を我が意に支配していた。老臣らは材量が足りない事はみな瀬兵衛に任せていたが、これらの事に大いに嫉妬していた家士らは瀬兵衛を罪とするよう主君に訴えようと党を組み徒を集め会議した。

この騒動が家中に広がった事から主人の氏音は、その方が事を起こしたわけではないが家中の騒乱が気の毒であるためしばらくこれを制し沈めるため故なりと、不本意ながら瀬兵衛に長い暇を申し付けた。瀬兵衛は謹んでこれを承りここを去ったが鬱憤は止まず、しばらくの年を経て傍輩の非義による自分の無罪を挙げた訴状を江戸の官庁に訴え出た。

これにより丹羽家中の多くの者が江戸幕府へ召し呼ばれた。幕府の裁定で瀬兵衛においては罪無きと定まり、また傍輩の家士らは理由が分明でなかったと決まった。汝らは武士にあるまじき徒党を組み一家の騒動を起こすとは言語道断なりとして与党の者ども三十士の罪の軽重を糾明しお咎めとなった。

浅野新右衛門 (百五十石)、田湖平蔵 (百三十石)、西尾治大夫 (同前)、須賀金左衛門 (同前) の四人は徒党の張本のため下使の手に渡して首を刎ねられた。妻木郷右衛門 (二百五十石) は遠島[2]。その他二十五人は仕官の御搆にて追放させられた。城守の氏音は政勢の怠慢を問われ本領を半減し越後国上之山 (高柳藩) へ所替え仰せ付けられた。時に元禄15年初秋である。

開城

この後、空城には丹羽家士のなかで党を逃れた残士が籠もり守っていた。

月番の老中秋元但馬守が奉書をもって美濃苗木城守遠山和泉守友春、信州飯田城守堀大和守親賢を江戸城へ呼びつけ、来たる7月29日限りで岩村留守居の者どもより城を受け取るよう公命を下し速やかに発行せよと命じた。またその検使に榊原八兵衛、斎藤次左衛門の一列に命じ、領知掟の儀は辻六郎左衛門、南条金左衛門が承った。

遠山友春は7月15日に江戸幕府を出発し同23日に苗木城に到着。日が迫っているので武備を整え家士下部らまでにその旨を慎み重く伝え、同7月28日苗木を出発し茄子川に出た。堀大和守は大井の駅で宿陣し両将は即日大井、茄子川を申の中刻 (午後4-6時頃) に出発し、約束通り東野村の浜射場[MAP]で合流した。

この時にわかに周囲が暗くなった。俄然としているところに大風、洪水、迅雷が始まって皆肝を冷やした。日が暮れて両家の軍士が秘伝の松明を灯したが闇夜の中にすぐ道を失ってしまった。しかし君命は重く両家の兵士は少しも休憩する事はなく力を合わせ千困万苦して翌未明にようやく岩村表に着陣した。しかし雷電風雨はなおも静まらず洪水は車軸を流し少しの間も止まなかった。城上城下を一遍に覆い隠してあたかも闇夜のようであった。

ようようにして本城に到着すると丹羽の残士に公命を伝えた。残士らは城を渡してそれぞれ我坂より退出した。城の受け渡しがことごとく済んだところで堀大和守と検使の両輩は岩村を退去した。遠山和泉守は城を受け取り終わって政勢の掟などを家臣宮地守右衛門に命じ、この他与力の諸士、足軽数人を差し添え当分の城代として夕暮れには苗木に戻った。辻、南条の両人は丹羽家中の旧館を陣屋とし岩村附き領地の掟を預かり、はかる同年9月に信州小諸の城守松平兵庫頭 (この時猶く石川能登守) に岩村城を賜る。

苗木友春も来たる10月朔日に限り検使の指揮を受けて兵庫頭家士どもへ城を渡すべき旨奉書をこうむる。この時に引き渡しの検使として野野山源八郎、渡辺孫三郎が上命をこうむり江戸幕府を出発した。辻、南条両人もあらかじめ御内達があって、兵庫家臣の河合総左衛門、味岡次郎佐右衛門に役所の士輩先達て城下に止宿し上使の御出を待った。

日積もって検使が岩村の旅館に到着した時に席を仰ぎ、河合、味岡が糸口に上使の機嫌を伺い、辻、南条も共に旅館で会談も済んで、城代の遠山家臣宮地守右衛門ならびに諸番所の輩へも先だって一左右の下知を伝えて城内にもその装いを繕い待っているところに上使の両人は辻、南条ならびに河合、味岡その他の士輩を召し連れられ登城する。

本城の大庭で双方の陪臣が砂上に列すと上使両将がうやうやしく厳命を伝え逐一箇条を述べらる。両人ならびに両家の士輩は謹んで上裁を繕い互いに諸念を交えただし城内ことごとく引き渡し厳法の通り終われば上使ならびに辻、南条はすぐに岩村を出立した。後に遠山家士は苗木に戻ると己上。

  1. ^ 用人とは家之の政事を執り行う役である。
  2. ^ 三宅島へ流謫

大給分派松平氏

松平兵庫頭源乗紀

秩禄二万石。元禄15年に信濃国小諸藩より転封。同16年7月15日に岩村入領。城主15年間 (享保元年没まで)。

松平能登守源乗賢

享保2年の春に家督を相続 (4年7月6日に入領)。後に総摂して三万石を領する (増地一万石は駿河国横内と西美濃の北にあり)。城主30年間 (享保2年から延享3年)。

享保8年、乗賢は若御老中の職を承りて翌年西ノ丸嗣君家重公に属すと伝えられている。これ以来代主を置かず江戸幕府に常詰だった。没年延享3年までにおよそ23年、岩村城はただ留主居のみであった。

松平能登守源乗薀

秩禄同じ。延享3年夏に家督を相続 (寛延元年2月21日春、朝鮮使節来朝に接待役を務め岩村へ入領)。

松平兵庫頭源乘紀 秩禄二萬石
元禄十五壬午年信州小諸ヨリ得替
同十六年癸未七月十五日岩村入部
守城ノ間十五年享保元丙申ノ年ニ至ル卒年

松平能登守源乘賢
享保二年丁酉ノ春家督相續四年巳亥七月六日始テ入部
秩初後總攝シテ三萬石ヲ領ス加増地一万石ハ駿刕横
内西美北方ニ在リ
城主タル事三十年享保二年ヨリ延享三年ニ至ル
享保八年癸卯乘賢若御老中職ヲ𣴎テ翌甲辰西ノ丸嗣君家重
公ヘ屬傳ス其ヨリ以來要代無ク江府常詰ナリ卒年延享三丙
寅ニ至テ其間凡ソ廿三年嵒城ハ惟留主居耳也

松平能登守源乘薀 秩同前 三萬石
延享三年ノ夏家督相續寛延元年戊辰二月二十一日春朝鮮人來聘ノ事ニ就テ岩村始入部

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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