遠山来由記/遠山分家
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天正11年 {{note|(1583年/安土桃山)}}、金山城守[[w:森長可|森武蔵守]]に城を囲まれ防戦したがついに和睦 (金山記では和睦ではなく攻め落とされたとある)。友政は苗木城を武蔵守に授けて遠州浜松へ去り、[[w:徳川家康|徳川家康]]公に属して[[w:菅沼定利|菅沼小大膳]]の宅に身を寄せた。その後、家康公について駿河城に至り仕える。 | 天正11年 {{note|(1583年/安土桃山)}}、金山城守[[w:森長可|森武蔵守]]に城を囲まれ防戦したがついに和睦 (金山記では和睦ではなく攻め落とされたとある)。友政は苗木城を武蔵守に授けて遠州浜松へ去り、[[w:徳川家康|徳川家康]]公に属して[[w:菅沼定利|菅沼小大膳]]の宅に身を寄せた。その後、家康公について駿河城に至り仕える。 | ||
− | 天正18年 {{note|(1590年/安土桃山)}} 相模国[[w:小田原城|小田原城]]落城の後に家康公の命で上野国館林村 {{note|(群馬県館林市)}} に移り[[w:榊原康政|榊原式部大輔]]の宅へ身を寄せる<ref> | + | 天正18年 {{note|(1590年/安土桃山)}} 相模国[[w:小田原城|小田原城]]落城の後に家康公の命で上野国館林村 {{note|(群馬県館林市)}} に移り[[w:榊原康政|榊原式部大輔]]の宅へ身を寄せる<ref>本書が著している内容は金山記とやや異なる。友政が苗木城を去った後から再び本城へ還るまでに十余年を隔ていると思われるが、ここではその事をことごとくすこぶる詳しく記す。金山記ですぐに上野国へ行ったというのはただ始終を挙げてその大概を記しているだけである。</ref><ref>{{蝿書|甲陽軍鑑全二十二、井伊兵部東美濃へ出るについてその道案内のため美濃士遠山勘右衛門 (明智城主)、遠山三郎兵衛 (苗木城主) 両人ろうろうなるを兵部を手前に抱き置きとある。天正十四年の記である。}}</ref>。その後、慶長5年 {{note|(1600年/江戸初期)}} 頃に友政は講和し (これもまた関ヶ原記では和睦ではなく攻め取ったと) 再び苗木城に入った。同年、関ヶ原軍の後に家康公の御感を蒙り本領苗木城村一万五百石に俸せられたと。 |
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+ | 今では苗木城は天正11年の夏に森武蔵によって取られ、翌12年夏にまた武蔵守も滅んで太閤秀吉が有していたと言われている。ちなみに関ヶ原記を調べてみると慶長5年の頃は[[w:河尻秀長|川尻直次]]が城守であった。友政は家康公に訴えて城を乗っ取ったという。つまり関ヶ原の決着が付いた後に友政が本城に戻ったという事はあれこれ映対して知るべし。なお下 {{note|(欄外)}} に関ヶ原記を出す。 | ||
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+ | 元和元年 {{note|(1615年/江戸初期)}} 5月大阪出陣の戦功あり。同5年 {{note|(1620年/江戸初期)}} 12月19日死去。法名雲林寺殿心月宗傳居士 | ||
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+ | 難波軍記によれば元和元年5月7日家康公が亀井村に於いて思いがけず[[w:真田信繁|真田]]<ref>{{蝿書|真田とは左衛門尉幸村である。}}</ref>の伏兵に遭遇し危機に陥ったとき、従っていた御家人が命を捨て防戦してそれぞれ傷を負った。これを亀井表の十八創という。この中で苗木久兵衛は最も傷手を負い即日死んだと。本書をもって難波記が誤りだと分かる。 | ||
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+ | 三河後風土記 (十七) によると信州左馬頭[[w:木曾義昌|源義昌]]は武田の親族であったが遺恨があり、武田に背いて織田方に属していた。天正10年 {{note|(1582年/安土桃山)}} 正月、甲州の兵を木曽城で受け奮戦し大勝したが、[[w:武田勝頼|勝頼]]が大軍を率いて向かっていると聞き信長に援軍を頼んだ。この取り次ぎが苗木久兵衛であった。久兵衛はこの事を岐阜の[[w:織田信忠|信忠]]に報告し、すぐに家士を率いて木曽に向かったという<ref>金山記によれば木曽はこの時に久兵衛と森武蔵守とに頼んだとしている。木曽はこれら両将の推挙かたじけなしとして弟である[[w:上松義豊|上松蔵人]]を人質として出したという。</ref>。 | ||
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+ | 金山記によれば天正11年の夏、森武蔵守は僧圓仁房を使いとして苗木によこし友政を我が旗下に付けようとした。 | ||
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2010年5月10日 (月) 14:21時点における版
苗木の家系は明らかではない。この家の仲間に尋ねてみたがつぶさに知っている者は居なかった。ただ家康公時代の遠山久兵衛友政以降でようやく家系の連続が見られる。ここではその友政以降を挙げて家の系譜を著す。それより前は 2, 3 の名を出すが連続が不確かであるため仮に挙げて批評するのみとする。
○苗木家之傳
苗木ノ家系分明ナラズ彼家ノ徒ニ尋ルニ
具ニ知ル人無シ但タ近古家康公時代ノ遠
山久兵衛友政以來家系ノ連續漸ニシテ覩
ユ今ハ其友政以來ヲ擧テ家ノ譜系ヲ著ス
也其ヨリ以前ハ二三ノ名ヲ出スト雖モ連
續慥ナラザル故ニ且ク擧テ評批スルノミ
これには二説あり、一説には:
- 左近
- (実名も時代も不明) 加藤次景廉の遠い子孫 (苗木に居城) という。
- 友勝
- 右衛門佐。苗木城守左近佐が病死し跡取りがいなかったため、親族であった友勝が同国飯羽間城から移って家督を相続した。飯羽間城守は友勝の嫡子の友忠としたといわれている (時代は不明)。
- また友忠は飯羽間の城を嫡子の右衛門佐友信に譲り友忠自身は
明照 城に移り住む云々ともいう。 - 友政
- 友勝の三男。
是ニ二説有リ 一説ニ
○左近 實名未知時代亦不詳加藤次景廉ノ遠裔苗木居城伝
○友勝 右衛門佐 苗木主左近佐病卒シ
テ子息無キニ就テ友勝其ノ親族タル故ニ
同國飯場城ヨリ徙テ家督相續ス飯場ハ友
勝ノ嫡友忠城守スト伝時代今タ詳ナラス
又云後友忠ハ飯場城ヲ嫡右衛門佐友信ニ
讓リ自ラ友忠ハ明照城ニ徙住スト云云○友政 友勝ノ三男
また一説には:
- 遠山左衛門尉景村
- 足利将軍尊氏時代 (1305-1358年頃/鎌倉) の人で苗木城に住んだと言われている。
- 苗木城は近古に地を移した。現在の高森の城がこれである。古城はただ痕跡のみが残っている。現在苗木と称しているのは福岡村である。現在の城を去ること一里 (約4km) ばかりの村に遍光寺という寺がある。これが古城の跡だと云われている。
- ここで言う景村が尊氏時代の人であるという証拠はない。もし尊氏時代であるなら安芸守景忠である。伝え聞きの浮説は取るに足らない。思うに景村は鎌倉時代の景朝であろう。今混濫する事必せり前に述べたとおりである。つまり景村は尊氏時代の人ではなく、また苗木に住んだ人でもなく、これはただ伝説の誤りである。ただ苗木家の遠い祖先という可能性は否定できない。
- 遠山雲入
- 現在の高森城はこの人が築いたと言われている (時代未詳)。
- 遠山勘太郎
- 後に豊前守を号する。織田信長の奥方の甥という。飛騨国の三木監物某によって殺されたと言われる (雑記)。[1]
- この人物はまさに苗木高森城の主である。雑記によれば左近の嫡子であるともいう。前説によると左近は子が居なかったためその親族である友勝が飯場の城より来て家督を継いだという。今考えると前述の友勝とは勘太郎の事かも知れない。実子ではないが左近の後を継いだためここでは嫡子と記す。
- また三河風土記 (九) によれば織田備後守信秀 (信長の父) の第十八の娘を苗木勘太郎に娶らせたとある。娘は勘太郎の死後に後家となりただ娘一人だけが居たと[2]。従って勘太郎は天文年間から永禄までの人物である。雲入以降時が経っている人と思われる。
- 遠山久兵衛尉友秀
- ある記によれば遠山久兵衛尉某が苗木勘太郎の死後明照より苗木城に移り住んだという。恐らくはこの人物であろう。前説によれば右衛門佐友勝の嫡子である久兵衛友忠は当初飯羽間城に住んでいたが後に明照城に移るという。友忠はまさに友政の兄である。ここに挙げる友秀は友政の前に列せられている事からそれが分かる。他記にあるような明照より移るというのは恐らくこの人の事で前述の友忠ではない。
- 己上 (私説) に根拠はないがその説があるに従ってあれこれ映対してもう少し辨ずる。
- 今誠に諸説を会して推議して仮に図示する。
- 左近
- 雲入というのはこの人物か。
- 友勝
- 勘太郎のことか。この名で左近の養子になったのだろうか。
- 友忠
- 友勝の嫡子、あるいは友秀という人物はこれか。
- 友政
- 友勝の三男。
- ^ 雑記に書かれている説を今考えてみると、勘太郎が織田信長の奥方の甥とは未詳である。これは恐らく信秀の奥方の甥である。よって信秀はその娘を勘太郎に娶らせたのだろう。更に考えよ。
- ^ 信長の妹が勘太郎に嫁いだのは信秀が生きている間である。信秀は天文18年に亡くなった。勘太郎もその後ほどなくして死去したか。
又一説ニ
○遠山左衛門尉景村 足利将軍尊氏時代
ノ人苗木城ニ住ト云苗木城ハ近古地ヲ移ス今ノ高森ノ
城是ナリ古城ハ但タ蹤蹟ノミ在リ
今上苗木ト称ス是即チ福岡村ナリ今城ヲ去コト一里計
リ村ニ寺有リ遍光寺ト名ク是古城ノ跡也ト云フ
今謂景村ハ尊氏時代ノ人ト云ウ事所據ナシ若尊氏ノ時世ト云ハ安藝
守景忠ナリ傳聞ノ浮説取ニ足ラズ思フニ景村ハ鎌倉時世ノ景朝也
今混濫スル事必セリ前ニ辨スルガ如シ尓レハ景村ハ尊氏時代ノ人
ニ非ス又苗木ニ住スル人ニ非ズ是但タ傳説ノ誤ト知ルベシ但シ苗
木家ノ遠祖トス
ル義ハ無妨ノミ○遠山雲入 當高森城ハ斯人築之ト云時代未詳
○遠山勘太郎 後号豊前守
織田信長室ノ甥也ト飛州三木監物某ガ為亡サルト云フ雑記 ※1
是正ク苗木高森城ノ一主ナリ或雑記ニ云
ク左近ガ嫡子也ト然ニ前説ニ依ルニ左近
子泣キ故其ノ親屬友勝飯場ノ城ヨリ来テ
家督スト云 今議ス前言フ友勝ハ或ハ直
二勘太郎ナル歟實子ニ非レ共左近ノ跡ヲ
繼ク故ニ今嫡子ト記スルナラン又三河後
風土記九ニ依ニ織田備後守信秀信長ノ父第十八
ノ女ヲ以テ苗木勘太郎ニ妻ハス勘太郎死
後後家ト為テ惟タ女一人殘テ在リト信長ノ妹勘太
郎ニ嫁セシハ信秀存生ノ間ナリ信秀ハ天文十八酉巳年卒ス勘太郎モ其ノ後程無ク卒去歟準知ル勘太郎ハ
天文年間永禄迠ニ至ル人也雲入以来時世
多ク隔ザルノ人ナル可シ思焉○遠山久兵衛尉友秀 或記二遠山久兵衛
尉某苗木勘太郎死後明照ヨリ苗木城ニ徙
住スト恐ハ斯人ナルヘシ然ニ前説ニ依ニ
右衛門佐友勝ノ嫡子久兵衛友忠ハ初飯場
城ニ住シ後明照ノ城ニ徙ルト云友忠ハ正
ク友政ノ兄也今擧ル處ノ友秀ハ友政ノ前
二列ルトキハ則知ル他記ニ明照ヨリ移ル
ト云モノハ恐ハ是斯人ニシテ前ニ云友忠
ナラン耳
己上ハ正傳ノ據ベキ無シト雖モ其説有ル
ニ隨テ彼此映對シテ且ク辨ズル事如之
今誠ニ諸説ヲ會シテ推議シテ假ニ圖示セハ○左近 雲入ト云ハ是歟
○友勝 勘太郎ナル乎以之左近養子トスルナラン
○友忠 友勝嫡或ハ友秀ト云ハ是乎
○友政 友勝三男
※1 雑記ノ説ノ如キ今推議スル勘太郎ハ織田信長室甥也トは未詳是恐ハ信秀室ノ甥ナルヘシ因テ信秀其女以テ勘太郎ニ娶スナラン更ニ考ヨ
さらに述べる。苗木城の興起および苗木に最初に住んだ人物は不明である。したがって前述の通り霧城守景友から分家したと見るならば、景友は永正年間から大永の初め (1504-1525年頃/戦国) に至る人物であることから、友政の天正年中 (1573-1593年/戦国) までおよそ六十余年である。やっとその前の三代を継いだ。
ここに言われている雲入は景友の子孫であると推測される。苗木の言い伝えで雲入が最初に高森城を築いたと言われているのも全く根拠がないわけではない。最初に城を築き最初に苗木の城守となった事から上に挙がるという意味である。雲入から友政までは僅かに 3, 4 代である。
雲入が築城する前の古城は砦塁として残ったのだろうか。古代は苗木も遠山城守の領分であったことから、大永前後に雲入が苗木城を築き、新しくそこに住んで岩村の遠山氏と苗木の遠山氏と始めて分派したのであろう。
以上の弁説はただの推測である。苗木家の由来を知っていてこの譜系を読んだ人があるならこれを明らかにして欲しい。
苗木の諱字である友の字は通号。景友のことは前述の通り。苗木が昔岩村の領分であった事は金山記に記されている。
遠山友政
- 友政
- 友勝の三男。最初は三郎兵衛と号し後に久兵衛尉と称する。
天正11年 (1583年/安土桃山)、金山城守森武蔵守に城を囲まれ防戦したがついに和睦 (金山記では和睦ではなく攻め落とされたとある)。友政は苗木城を武蔵守に授けて遠州浜松へ去り、徳川家康公に属して菅沼小大膳の宅に身を寄せた。その後、家康公について駿河城に至り仕える。
天正18年 (1590年/安土桃山) 相模国小田原城落城の後に家康公の命で上野国館林村 (群馬県館林市) に移り榊原式部大輔の宅へ身を寄せる[1][2]。その後、慶長5年 (1600年/江戸初期) 頃に友政は講和し (これもまた関ヶ原記では和睦ではなく攻め取ったと) 再び苗木城に入った。同年、関ヶ原軍の後に家康公の御感を蒙り本領苗木城村一万五百石に俸せられたと。
今では苗木城は天正11年の夏に森武蔵によって取られ、翌12年夏にまた武蔵守も滅んで太閤秀吉が有していたと言われている。ちなみに関ヶ原記を調べてみると慶長5年の頃は川尻直次が城守であった。友政は家康公に訴えて城を乗っ取ったという。つまり関ヶ原の決着が付いた後に友政が本城に戻ったという事はあれこれ映対して知るべし。なお下 (欄外) に関ヶ原記を出す。
元和元年 (1615年/江戸初期) 5月大阪出陣の戦功あり。同5年 (1620年/江戸初期) 12月19日死去。法名雲林寺殿心月宗傳居士
難波軍記によれば元和元年5月7日家康公が亀井村に於いて思いがけず真田[3]の伏兵に遭遇し危機に陥ったとき、従っていた御家人が命を捨て防戦してそれぞれ傷を負った。これを亀井表の十八創という。この中で苗木久兵衛は最も傷手を負い即日死んだと。本書をもって難波記が誤りだと分かる。
三河後風土記 (十七) によると信州左馬頭源義昌は武田の親族であったが遺恨があり、武田に背いて織田方に属していた。天正10年 (1582年/安土桃山) 正月、甲州の兵を木曽城で受け奮戦し大勝したが、勝頼が大軍を率いて向かっていると聞き信長に援軍を頼んだ。この取り次ぎが苗木久兵衛であった。久兵衛はこの事を岐阜の信忠に報告し、すぐに家士を率いて木曽に向かったという[4]。
金山記によれば天正11年の夏、森武蔵守は僧圓仁房を使いとして苗木によこし友政を我が旗下に付けようとした。
- ^ 本書が著している内容は金山記とやや異なる。友政が苗木城を去った後から再び本城へ還るまでに十余年を隔ていると思われるが、ここではその事をことごとくすこぶる詳しく記す。金山記ですぐに上野国へ行ったというのはただ始終を挙げてその大概を記しているだけである。
- ^ 甲陽軍鑑全二十二、井伊兵部東美濃へ出るについてその道案内のため美濃士遠山勘右衛門 (明智城主)、遠山三郎兵衛 (苗木城主) 両人ろうろうなるを兵部を手前に抱き置きとある。天正十四年の記である。
- ^ 真田とは左衛門尉幸村である。
- ^ 金山記によれば木曽はこの時に久兵衛と森武蔵守とに頼んだとしている。木曽はこれら両将の推挙かたじけなしとして弟である上松蔵人を人質として出したという。
書きかけのページ | このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。 |
古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。