遠山来由記/遠山氏
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弘長3年 {{note|(1263年/鎌倉)}} 8月、将軍 (宗尊) の上洛があり供奉した随兵の中に景経が見られる。文永2年 {{note|(1265年/鎌倉)}} 正月(15日)、将軍 (宗尊) の蹴鞠初めあり。布衣十六人の中にまた景経がある。 | 弘長3年 {{note|(1263年/鎌倉)}} 8月、将軍 (宗尊) の上洛があり供奉した随兵の中に景経が見られる。文永2年 {{note|(1265年/鎌倉)}} 正月(15日)、将軍 (宗尊) の蹴鞠初めあり。布衣十六人の中にまた景経がある。 | ||
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==𣳾經== | ==𣳾經== | ||
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==伊勢加藤左衛門尉== | ==伊勢加藤左衛門尉== | ||
+ | :これは伊勢国に住んでいたことから別にしている | ||
+ | 同じく吾妻鏡三十六、三十八、三十九、四十巻の所々に出る。 | ||
− | == | + | <div class="smaller"> |
+ | これは伊勢の前司加藤光員の子孫である。あるいはまさに前に出ている兵衛尉光資を指すか。光資以後は新左衛門尉と号しているため今一実名が明らかでないことから挙げがたき事。三十八巻寶治元年霜月 {{note|(11月)}} の記に伊賀加藤左衛門というのは、恐らくは伊勢の筆間違いだろう。伊賀の加藤が別にあったのかは知らない。 | ||
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+ | ==加藤次郎左衛門尉== | ||
+ | 第三十一(嘉禎2年8月)記。 | ||
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+ | ==加藤右衛門尉== | ||
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+ | 単に孫太郎と記す物もあり。 | ||
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+ | 第五十 (文応2年8月15日の記)、五十一 (弘長3年8月15日記)。遠山系譜でみればこれは景朝の嫡孫で遠山三郎兵衛景重 (今考えてみれば東鑑には景重の名が出ない) の子である。今ではこれが霧ヶ城遠山家祖先の一人であると言われている。東鑑の中で加藤の氏族は多いが遠山と称している者は景朝とこの景長の二人のみである。 | ||
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+ | ==遠山九郎== | ||
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+ | == 遠山世系 == | ||
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:遠山左衛門尉 | :遠山左衛門尉 | ||
− | :< | + | 永正年間の人物 (誕生亡卒歳月不明)。城内の八幡神社の棟札によれば<ref>{{蝿書|造繪の繪の字が不審。恐らくは営の字と誤ったか。}}</ref>: |
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+ | <big>奉造繪八幡宮 大檀那藤原頼景</big> <small>願主</small> <big>敬白</big><br/> | ||
+ | 永正五年<small>戊辰</small>十一月二十八日<br/> | ||
+ | <small>御代官近藤六郎右衛門重明</small> <small>大工二郎右衛門</small> | ||
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+ | ○頼景 遠山左衛門尉 | ||
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+ | 永正年間ノ人也 <small>誕生亡卒歳月未考</small><br/> | ||
+ | ○城内八幡神社ノ棟札ニ曰ク | ||
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+ | 奉造繪八幡宮 大檀那藤原頼景 <small>願主</small> 敬白<br/> | ||
+ | 永正五年<small>戊辰</small>十一月二十八日<br/> | ||
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+ | 造繪ノ繪ノ字未審恐ハ營ノ字ヲ誤カ | ||
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+ | === 景友 === | ||
+ | :遠山左衛門尉 加藤司と号す | ||
+ | 大永4年2月4日卒。法名珠玉大禪定門 | ||
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+ | 大永四年<small>甲申</small>二月四日卒<br/> | ||
+ | 法名珠玉大禪定門 | ||
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+ | ===景前=== | ||
+ | :遠山左衛門尉 <small>景友の嫡男という</small> | ||
城内の神社に棟札が残っている。 | 城内の神社に棟札が残っている。 | ||
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<big>奉造立八幡宮社頭一宇</big> <small>遷宮師 法師 良辯</small><br/> | <big>奉造立八幡宮社頭一宇</big> <small>遷宮師 法師 良辯</small><br/> | ||
大檀主遠山左衛門尉景前 敬白<br/> | 大檀主遠山左衛門尉景前 敬白<br/> | ||
− | 天門十六年< | + | 天門十六年<small>丁未</small>霜月十日 <small>棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教</small> |
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法名 | 法名 | ||
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− | 三河風土記( | + | 三河風土記(五)を調べてみると、文亀元年徳川長親公が北条早雲と戦った時の軍列に遠山左衛門尉景前が居る。しかし文亀元年は景前の天文16年から計ると47年前、また卒年弘治2年から56年前であり年が大きく離れていることから詳しくない。文亀年間はもっぱら頼景の年代であることから、長親公の軍に従ったものとは頼景であろう。それを記した文が恐らくその名を間違えたものと想われる。 |
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− | <div>是景友ノ嫡男ナリト云フ</div> | + | <div> |
+ | 是景友ノ嫡男ナリト云フ | ||
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<small> ○城内之神祠ニ棟札有リ</small><br/> | <small> ○城内之神祠ニ棟札有リ</small><br/> | ||
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− | == 景任 == | + | === 景任 === |
− | :遠山左衛門尉 大和守 <small>大井武並棟札の記</small> | + | :遠山左衛門尉 大和守 <small>大井武並棟札の記</small><br/>岩村修理亮 (三河後風土記) 岩村内近助 (本朝三国誌) |
大井武並明神再建の檀主はこの人物である。造営上棟の時に大祭会を開く (代官某の奉行)。遠近の僧俗老若男女が雲のように集まって賑わった。これに猿楽を召し寄せて17日間の能興行があった。神事は最も厳重なりなどとも記されその神社の棟札に書かれている (別當解脱寺般若院講師隆玄書記ス文甚長ク事尤詳ナリ)。時に永禄7年 {{note|(1564年/戦国)}} である。 | 大井武並明神再建の檀主はこの人物である。造営上棟の時に大祭会を開く (代官某の奉行)。遠近の僧俗老若男女が雲のように集まって賑わった。これに猿楽を召し寄せて17日間の能興行があった。神事は最も厳重なりなどとも記されその神社の棟札に書かれている (別當解脱寺般若院講師隆玄書記ス文甚長ク事尤詳ナリ)。時に永禄7年 {{note|(1564年/戦国)}} である。 | ||
甲陽軍鑑及び後風土記などの書録に、遠山岩村城守岩村殿と称して織田信長の姨夫であるのはまさしくこの人物である。<small>三河後風土記、甲陽軍鑑、本三国誌などに岩村殿の名を出しているがいまだその実名は明らかでない。ここで棟札の記によってこの時の岩村殿を名付けて景任と称していた事が分かる。後日池田輝政家譜秘記および小幡勘兵衛の秘記を調べてみるとそれが事実であった。</small> | 甲陽軍鑑及び後風土記などの書録に、遠山岩村城守岩村殿と称して織田信長の姨夫であるのはまさしくこの人物である。<small>三河後風土記、甲陽軍鑑、本三国誌などに岩村殿の名を出しているがいまだその実名は明らかでない。ここで棟札の記によってこの時の岩村殿を名付けて景任と称していた事が分かる。後日池田輝政家譜秘記および小幡勘兵衛の秘記を調べてみるとそれが事実であった。</small> | ||
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+ | '''景任''' 遠山左衛門尉 大和守 <small>大井武並棟札ノ記</small> 岩村修理助 三河後風土記 岩村内近助 本朝三國誌 | ||
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+ | <div style="margin-left:1em;"> | ||
+ | 大井<small>正家村 </small>武並明神再建檀主ハ即チ是斯<br/> | ||
+ | 人也造營上棟ノ時大祭會ヲ設ク<small>代官某時奉行タリ</small><br/> | ||
+ | 遠近ノ緇素老若男女雲ノ如ク來聚テ贍<br/> | ||
+ | 之且猿樂ヲ徴寄セテ一七日ヲ際テ能興<br/> | ||
+ | 行有リ神事最モ嚴重ナリ等具ニ記シテ<br/> | ||
+ | 彼神社ノ棟札ニ在リ<small>別當解脱寺般若院講師隆玄書記ス文甚長ク事尤詳ナリ</small>時<br/> | ||
+ | 永禄七甲子ノ年也 | ||
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+ | 甲鑑及後風土記等ノ諸録ニ明ス遠山岩<br/> | ||
+ | 村城守岩村殿ト稱シテ織田信長ノ姨夫<br/> | ||
+ | ナル者正ク是レ此人也<small>参後風土甲陽鑑本三國誌等ニ岩村殿ノ名ヲ出スト雖モ<br/> | ||
+ | 未ダ其實名ヲ顕サズ今棟札ノ記ニ依テ此時ノ岩村殿ヲ名ケテ<br/> | ||
+ | 景任ト称スルコトヲ知ル後日池田輝政家譜秘記及ヒ小幡勘<br/> | ||
+ | 兵衛カ祕記ヲ檢ルニ彼ニ云處果尓</small> | ||
+ | </div> | ||
+ | </blockquote> | ||
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この頃の遠山城守の前後の連続を順序づける者はまったく的拠がある。何をもって知るとなれば年暦の次第によるのみである。頼景は永正年間の人 (城内八幡の棟札の鐙)、次に景友 (大永4年卒という牌名の記その鐙)、また次に景前 (八幡棟札に天文16年と法名の記に弘治2年という)、後に景任 (大井武並の記に永禄8年という)。次序はこれらの棟札や霊牌などの記による最も証拠となる。 | この頃の遠山城守の前後の連続を順序づける者はまったく的拠がある。何をもって知るとなれば年暦の次第によるのみである。頼景は永正年間の人 (城内八幡の棟札の鐙)、次に景友 (大永4年卒という牌名の記その鐙)、また次に景前 (八幡棟札に天文16年と法名の記に弘治2年という)、後に景任 (大井武並の記に永禄8年という)。次序はこれらの棟札や霊牌などの記による最も証拠となる。 | ||
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+ | <blockquote class="original"> | ||
+ | <div> | ||
+ | 今遠山城守前後連續ヲ序ヅル者ハ尤モ的<br/> | ||
+ | 據有リ何ヲ以知トナラバ是年暦ノ次第ニ<br/> | ||
+ | 依ル尓曰ク頼景ハ永正年間ノ人<small>城内八幡ノ棟札其ノ證</small>次<br/> | ||
+ | ニ景友<small>大永四年卒ト云牌名ノ記其ノ證</small>復次ニ景前<small>八幡棟札ニ天文十六年ト法名ノ記ニ弘治二年ト云</small><br/> | ||
+ | 後景任<small>大井武並ノ記永禄八年ト云</small>次序如此棟札霊牌等ノ記<br/> | ||
+ | 最モ證ト為ルニ足ル而己 | ||
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{{古文書翻訳|遠山来由記}} | {{古文書翻訳|遠山来由記}} | ||
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2010年9月7日 (火) 15:16時点における最新版
目次 |
[編集] 景朝
- 景廉嫡男 初め太郎と号す 遠山左衛門尉 検非違使従五位下 遠山判官 大蔵小舗
承久3年 (1221年/鎌倉)、関東 (鎌倉幕府) の執事が天子の考えと異なることがあり、上皇は逆鱗の余り右京兆 (北条義時) 誅伐の宣旨を下した[1][2] (承久の乱)。このため公家と武家が大いに騒乱して関東の大兵が撃って京を目指し所々で合戦。官軍は遂に討ち負けて東兵都 (東寺?) に入った (上皇らは配流、公卿の多くは誅せられた[3][4])。同6月下旬、乱の張本人である公卿を選んで六波羅に渡された。この中の一条宰相中将信能の身を遠山左衛門尉景朝が預かった。同7月5日、中将信能は美濃国遠山荘に到着しその場で直ぐに首を刎ねられた (俗伝によれば首はその刑場に埋め一祠を建てて霊を祭ったと。今の相原八幡の祠 (岩村神社) であるという)。
以上は東鑑(二十五)に略出している (詳細は本文および承久記参照)。この説から景朝が遠山の領主であることが最も明らかである。
後に景朝は美濃国遠山の城で死去。武並山に遺骸を納め社を建てて祭る。諡して武並大権現と称する (これは記伝の説である。ただし幾つかは景村とも書かれている)。景朝の一生は徃徃に明らかであるが誕生と死去の年月は未だに分かっていない。
考えてみると東鑑(十七)建仁3年 (1203年/鎌倉) 9月2日の記に比企判官義員と北条時政とで紛争があったとき、北条の属兵に列せられている中に加藤次郎景廉、同太郎景朝という名がある。この時景朝は既に列在していた。この名が記されている始終は建仁3年から建長5年 (1253年/鎌倉) に至るまでで年序およそ51年である。建長5年正月2日の記より後は景朝の名が絶えている。これから景朝は建長5年以後に死去したものであろう。
ただし東鑑(二十八)では宝治元年 (1247年/鎌倉) 11月23日に從五位上行伊豆守藤原朝臣尚景死(歳25)大夫尉景廉男也という。これはつまり景朝と記されているものには実際には景朝でないものもあるという事が分かる。景朝は既に承久3年の騒乱時には実在し遠山領主であった。この尚景は宝治元年から遡って数えると (25歳ならば貞應2年 (1223年/鎌倉) 誕生に当たる) 承久3年では生まれる前である (また景廉は承久3年に死去したが死後2、3年を経て子を生ずることがあるだろうか)。
景朝を伊豆守と名乗るのは未だに一所として見た事がない。また既に尚景というのは多分景朝を指しているのではないだろうか。東鑑は徃徃に河津八郎左衛門尉尚景という者が居るが異家別種である。
さらにまた景朝は宝治以来所々に名を列している。直に元治元年12月の記に遠山大蔵小輔とあり、また建長5年の記に正月椀飯中に名を列しており遠山大蔵小輔景朝と分明に記されている。この他にも徃徃に列名があり逐一記す事は出来ない。つまり景朝が尚景という人物であることは決してない。また遠山荘の言い伝えでは景朝は行年45歳で死去、宝治元年なりと記されている。これはこの東鑑の尚景の事を指しているのである。遠山荘の伝えは用いるに足らない。しかれども東鑑にまさしく景廉男と書かれているのは、景朝、景義の他に尚景という子息が居たのか、また鑑文の間違いなのか分からない。
- ^ 実は後鳥羽上皇お一人の憤りで天子はこれに従っただけである。詳細は東鑑および承久記。
- ^ 右京兆とは右京権大夫兼陸奥守平義時。
- ^ 一院八十二後鳥羽院上皇(御父)は隠岐国へ遷流、中の院八十三土御門院(御嫡)は土佐国へ、新院八十四順徳院(第三子)は佐渡国へ。これらは承久の君である。在位十一年御年二十五にして廃帝とならせ給う。
- ^ 張本の公卿六人とは光親、宗行、有雅範茂、忠信、信能である。この中の大納言忠信だけが故あって死罪を許され遠流となった。
[編集] 景義
- 景廉二男 七郎左衛門尉
嘉禎元年 (1235年/鎌倉) 8月21日、将軍(藤原頼経)の館庁において加藤七郎左衛門景義と兄加藤判官景朝とが伊豆国狩野荘内の牧之郷地頭を争って一決をとり (兄は南座、弟は北座)、この公事は景義の負けとなった。東鑑三十に詳細。
[編集] 光資
- 加藤太光員男 兵衛尉 後に加藤新左衛門尉と号す
建保6年 (1218年/鎌倉) 9月、山徒が強訴を企て日吉、祇園、北野の神輿を振り立て閑院殿の陣頭に押し寄せた。在京の武士が宮門に支えこれを防いだ。その中に加藤兵衛光資が八王子の駕輿丁の男の腕を斬り落とし神輿を汚穢せしめたと云々。東鑑二十三の通り。
また東鑑では以下の如く徃徃に加藤家の人名を列す。
[編集] 景長
- 加藤左衛門尉 新左衛門尉 六郎兵衛尉
東鑑二十六、将軍頼経公 (時嘉六歳) 代の貞応2年 (1223年/鎌倉) 10月13日の記で詰番の中に第五加藤六郎兵衛尉。
[編集] 景廣
- 加藤右衛門尉
東鑑二十二、建保2年 (1214年/鎌倉) 7月27日大倉大慈寺供養。将軍実朝公の参拝あり。供奉調度掛は加藤新左衛門尉景長。後騎の中に加藤右衛門尉景廣 (同時列在せり)。
[編集] 景俊
- 加藤左衛門三郎
東鑑二十六、貞応3年 (1224年/鎌倉) 正月1日の記に椀飯 (頼経公が七歳の時)。四の御馬 (加藤六郎兵衛尉景長、同左衛門三郎景俊)。
この記から推測すると景俊は景長の舎弟または息子であろうか。これで始めて左衛門三郎の名があるためにまたこの景俊は行景、景経らの祖父かもしれない。もしそうなら以下に出す行景、景経らはその子孫である。更に調べる必要がある。
[編集] 行景
- 三郎と号す 從五位下左衛門尉
東鑑三十一、嘉禎3年 (4月23日) 記に将軍 (頼経) 左京権大夫の亭に入り給う。その供奉である (また所々で出る)。
[編集] 景經
- 三郎と号す 左衛門尉という 六位なり 鑑の所々に出る
建長6年 (1264年/鎌倉) 5月1日、将軍 (宗尊親王) の館で相撲があり[1]景経はその数に数えられている (相撲は次第六番、加藤三郎景経は第五番にあり左に勝つなり)。東鑑四十四で明らかである。
弘長3年 (1263年/鎌倉) 8月、将軍 (宗尊) の上洛があり供奉した随兵の中に景経が見られる。文永2年 (1265年/鎌倉) 正月(15日)、将軍 (宗尊) の蹴鞠初めあり。布衣十六人の中にまた景経がある。
- ^ 相撲は相模国時頼の催し。
[編集] 𣳾經
- 加藤左衛門三郎
建長4年 (1252年/鎌倉) 3月6日、藤次左衛門尉𣳾経は使節として上洛、行程七日と記されている (これは宗尊親王の時)。文永2年 (1265年/鎌倉) 6月23日、将軍 (宗尊) が最明寺の亭に入る (供奉の人騎馬歩行相随う)。加藤左衛門三郎𣳾経は歩行の中に列している (また7月16日の記に三郎の名あり、同一人物だろうか)。
ここで、加藤家の実名は皆「景」の字を用いているが𣳾経一人が景の字を除いて経の字を取っている。思うにこれは景経の嫡男だろうか。あるいは経の一字を用いるため別人だろうか分からない。
上記の𣳾経の事は東鑑四十二巻など。
[編集] 景綱
- 加藤右衛門三郎
これはどういう人物だろうか。東鑑四十一 (建長6年 (1256年/鎌倉) 正月朔日) 記に見られる。
上記の他、東鑑に往々にして名があり。更に並べ示す。
[編集] 伊勢加藤左衛門尉
- これは伊勢国に住んでいたことから別にしている
同じく吾妻鏡三十六、三十八、三十九、四十巻の所々に出る。
これは伊勢の前司加藤光員の子孫である。あるいはまさに前に出ている兵衛尉光資を指すか。光資以後は新左衛門尉と号しているため今一実名が明らかでないことから挙げがたき事。三十八巻寶治元年霜月 (11月) の記に伊賀加藤左衛門というのは、恐らくは伊勢の筆間違いだろう。伊賀の加藤が別にあったのかは知らない。
[編集] 加藤次郎左衛門尉
第三十一(嘉禎2年8月)記。
[編集] 加藤右衛門尉
〓
[編集] 遠山孫太郎左衛門尉景長
単に孫太郎と記す物もあり。
第五十 (文応2年8月15日の記)、五十一 (弘長3年8月15日記)。遠山系譜でみればこれは景朝の嫡孫で遠山三郎兵衛景重 (今考えてみれば東鑑には景重の名が出ない) の子である。今ではこれが霧ヶ城遠山家祖先の一人であると言われている。東鑑の中で加藤の氏族は多いが遠山と称している者は景朝とこの景長の二人のみである。
〓
[編集] 遠山九郎
〓
[編集] 遠山加藤五郎
〓
[編集] 遠山三郎
〓
[編集] 加藤大夫判官
〓
[編集] 遠山世系
[編集] 景村
[編集] 景廣
[編集] 遠山氏譜系
[編集] 頼景
- 遠山左衛門尉
永正年間の人物 (誕生亡卒歳月不明)。城内の八幡神社の棟札によれば[1]:
奉造繪八幡宮 大檀那藤原頼景 願主 敬白
永正五年戊辰十一月二十八日
御代官近藤六郎右衛門重明 大工二郎右衛門
○頼景 遠山左衛門尉
永正年間ノ人也 誕生亡卒歳月未考
○城内八幡神社ノ棟札ニ曰ク奉造繪八幡宮 大檀那藤原頼景 願主 敬白
永正五年戊辰十一月二十八日
御代官近藤六郎右衛門重明 大工二郎右衛門造繪ノ繪ノ字未審恐ハ營ノ字ヲ誤カ
- ^ 造繪の繪の字が不審。恐らくは営の字と誤ったか。
[編集] 景友
- 遠山左衛門尉 加藤司と号す
大永4年2月4日卒。法名珠玉大禪定門
景友 遠山左衛門尉 號加藤司
大永四年甲申二月四日卒
法名珠玉大禪定門
[編集] 景前
- 遠山左衛門尉 景友の嫡男という
城内の神社に棟札が残っている。
奉造立八幡宮社頭一宇 遷宮師 法師 良辯
大檀主遠山左衛門尉景前 敬白
天門十六年丁未霜月十日 棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教
法名
景前院殿前左金吾前宗護大禪定門 神儀
弘治二年丙辰七月十三日
三河風土記(五)を調べてみると、文亀元年徳川長親公が北条早雲と戦った時の軍列に遠山左衛門尉景前が居る。しかし文亀元年は景前の天文16年から計ると47年前、また卒年弘治2年から56年前であり年が大きく離れていることから詳しくない。文亀年間はもっぱら頼景の年代であることから、長親公の軍に従ったものとは頼景であろう。それを記した文が恐らくその名を間違えたものと想われる。
是景友ノ嫡男ナリト云フ
○城内之神祠ニ棟札有リ
奉造立八幡宮社頭一宇 遷宮師 法師 良辯
大檀主遠山左衛門尉景前 敬白
天門十六年丁未霜月十日 棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教○法名
景前院殿前左金吾前宗護大禪定門 神儀
弘治二年丙辰七月十三日参河後風土記五ヲ閲スルニ文亀元年辛酉年徳
川長親公北條早雲ト對戰ノ時遠山左衛門 ※1
尉景前軍列ノ中ニ在リ 今議ス文亀元年
ハ景前現在天文十六ヨリ計ルニ四十七年
以前亦卒年弘治二ヨリ計ルニ五十六年前
也年序相距コト遠シ故ニ未詳也按スルニ
文亀年間ハ専ラ頼景ノ時世ナリ然レハ長
親公ノ軍ニ從フ者ハ是頼景ナルヘシ記ノ
文恐ハ其名ヲ差フ耳想焉※1 北条早雲 伊勢神九郎氏茂ト云関東北条家ノ元祖也北条五代記等ヲ見ヨ
[編集] 景任
- 遠山左衛門尉 大和守 大井武並棟札の記
岩村修理亮 (三河後風土記) 岩村内近助 (本朝三国誌)
大井武並明神再建の檀主はこの人物である。造営上棟の時に大祭会を開く (代官某の奉行)。遠近の僧俗老若男女が雲のように集まって賑わった。これに猿楽を召し寄せて17日間の能興行があった。神事は最も厳重なりなどとも記されその神社の棟札に書かれている (別當解脱寺般若院講師隆玄書記ス文甚長ク事尤詳ナリ)。時に永禄7年 (1564年/戦国) である。
甲陽軍鑑及び後風土記などの書録に、遠山岩村城守岩村殿と称して織田信長の姨夫であるのはまさしくこの人物である。三河後風土記、甲陽軍鑑、本三国誌などに岩村殿の名を出しているがいまだその実名は明らかでない。ここで棟札の記によってこの時の岩村殿を名付けて景任と称していた事が分かる。後日池田輝政家譜秘記および小幡勘兵衛の秘記を調べてみるとそれが事実であった。
景任 遠山左衛門尉 大和守 大井武並棟札ノ記 岩村修理助 三河後風土記 岩村内近助 本朝三國誌
大井正家村 武並明神再建檀主ハ即チ是斯
人也造營上棟ノ時大祭會ヲ設ク代官某時奉行タリ
遠近ノ緇素老若男女雲ノ如ク來聚テ贍
之且猿樂ヲ徴寄セテ一七日ヲ際テ能興
行有リ神事最モ嚴重ナリ等具ニ記シテ
彼神社ノ棟札ニ在リ別當解脱寺般若院講師隆玄書記ス文甚長ク事尤詳ナリ時
永禄七甲子ノ年也甲鑑及後風土記等ノ諸録ニ明ス遠山岩
村城守岩村殿ト稱シテ織田信長ノ姨夫
ナル者正ク是レ此人也参後風土甲陽鑑本三國誌等ニ岩村殿ノ名ヲ出スト雖モ
未ダ其實名ヲ顕サズ今棟札ノ記ニ依テ此時ノ岩村殿ヲ名ケテ
景任ト称スルコトヲ知ル後日池田輝政家譜秘記及ヒ小幡勘
兵衛カ祕記ヲ檢ルニ彼ニ云處果尓
この頃の遠山城守の前後の連続を順序づける者はまったく的拠がある。何をもって知るとなれば年暦の次第によるのみである。頼景は永正年間の人 (城内八幡の棟札の鐙)、次に景友 (大永4年卒という牌名の記その鐙)、また次に景前 (八幡棟札に天文16年と法名の記に弘治2年という)、後に景任 (大井武並の記に永禄8年という)。次序はこれらの棟札や霊牌などの記による最も証拠となる。
今遠山城守前後連續ヲ序ヅル者ハ尤モ的
據有リ何ヲ以知トナラバ是年暦ノ次第ニ
依ル尓曰ク頼景ハ永正年間ノ人城内八幡ノ棟札其ノ證次
ニ景友大永四年卒ト云牌名ノ記其ノ證復次ニ景前八幡棟札ニ天文十六年ト法名ノ記ニ弘治二年ト云
後景任大井武並ノ記永禄八年ト云次序如此棟札霊牌等ノ記
最モ證ト為ルニ足ル而己
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古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。