遠山来由記/加藤氏

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加藤

姓は藤原。東鑑や頼景らの自記で明白であるし、また一處 (遠山諸系) の大織冠鎌足十七代の後胤 (子孫) 加藤次郎景廉という言い伝えでも藤原の姓であることが分かる[1][2][3]

源平減衰記を調べてみると加藤家は能因法師[4]の子孫であるという[5]。能因の子に月波蔵人(つきなみくらうど)という者が居り、伊勢国に来て柳右馬入道の入り婿となって一男子をもうけた。加藤五景員 (諱は景貞) である。景員は後に使命を賜って加藤判事となる。加藤太 (光員)、加藤次 (景廉) はその子であり元は伊勢国に住んでいた。景員には平家の武士伊藤某[6]という怨恨があり、加藤親子はしばしば窺い謀って遂に伊藤を殺戮し、仇を避けて東国に逃れた。

武蔵国秩父 (平氏) を頼るが平家を恐れて拒否。また千葉に頼るがこれもまた後の難を恐れて承諾せず。伊豆国へ行き工藤茂光 (藤原) に頼む。茂光は喜んで扶助しその上自分の妹を娶らせた[7]。また頼朝公 (兵衛佐はこの時伊豆国に居た) にこの兄弟が勇敢であると話したことから頼朝はこの二人を召し抱えたという (己上盛衰記第二十)。

この説に依れば加藤家は橘姓である。しかし藤原と伝わっているのは東鑑や彼らの家の自称の記から明らかであり疑う余地もない。ただとりあえず衰退記の異説をここに挙げ記しておく。

  1. ^ 大織冠鎌足は大和国高市郡の人で天兒屋根命(あめのこやねのみこと)23代目の子孫である。本姓は大中臣。世々天地の祭祀を司る中臣鎌子(むらじ)と号していた。孝徳天皇の時に内臣となり天智天皇の朝、蘇我入鹿大臣を暗殺した功で内大臣に任命される。藤原の姓を賜り鎌子を改めて鎌足とする。その後、大織冠と号する。天智天皇8年 (669年) 10月16日没す。藤原は大和国にあり。
  2. ^ 加藤家の祖先を調べてみるとその由来は遠い。加藤太郎景通または修理少進という。源頼光、頼信、頼義らに従う。景通の息子に右馬允景季という者が居る。これは天喜5年 (1057年/平安) に安倍貞任攻めの時に討ち死にした。生年23、父子共に大力の剛勇で世に並ぶ者は居なかったと前太平記奥羽軍記などに見られる。義家の時にも加藤某という者が居る。これもまたこの子孫であろう。
  3. ^ 大織冠は春日明神より21代目の子孫と伝えられている。
  4. ^ 俗名愷古曽部入道 (橘永愷(たちばなながやす)) と号す。始めは融因、後に能因。橘諸兄公第10代の後胤である。
  5. ^ 能因は長門守 (または肥後守) 正四位下橘元愷子である。世系を挙げると諸兄(人皇21代[[w:敏達天皇|]]5代の子孫、井手の正一位橘諸兄公46代孝謙の太平宝字元年に没する歳74) - 奈良丸 - 嶋田丸 - 常主 - 安吉雄 - 吉種 - 純行 - 忠望 - 元愷 - 永愷。
  6. ^ 平氏党に伊藤と称する者がいくつもありどれを指す者かは分からない。
  7. ^ 茂光は工藤助水戸次郎という者と長く怨恨をはさんでおり時には戦闘に及んでいたため互いに枕を高くして眠れなかった。このため加藤兄弟の武勇を気に入り身の保護のために平家の耳に入るのをはばからず特にこれを召したという。

加藤 姓ハ藤原ナリ東鑑及頼景等
自記分明ノ故ニ且一處遠山庶系
ニ大職冠鎌足一七代ノ後胤加藤次郎景廉
ト云故ニ知ル藤原ノ姓ナルコトヲ然ルニ
源平盛衰記ヲ檢スルニ加藤家ハ是能因法
俗名愷古曽部入道ト号ス始ハ融因後チ能因橘諸兄公第十代ノ後胤ノ裔也ト曰ク能
因息男ニ月波藏人ト云者有リ伊勢國ニ來
テ柳右馬入道ガ贅壻ト為テ一男子ヲ産ム
是加藤五景員ナリ景員後チ使ノ宣ヲ蒙テ
加藤判事ト云加藤太光胤加藤次景廉ハ其子也
舊勢州ニ住ス然ニ景員ニ仇讎アリ是レ平
家ノ武士伊藤某ト伝者ナリ加藤父子屢徂
謀テ遂に伊藤ヲ殺戮シ仇ヲ避テ東國ニ來
武藏國秩父平氏ヲ恃ムト雖モ渠レ平家ノ聴
ヲ恐テ肯ズ又千葉ニ便ルト雖モ是亦後難
ヲ恐テ許諾セズ於是伊豆國ニ徃キ工藤茂
藤原ヲ憑ム茂光喜テ扶持シ剰吾妹ヲ以テ
コレニ娶ス所以ハ工藤助水戸次郎ト云者ト久ク怨讎ヲ夾テ動スレハ闘戰ニ及フ故ニ互ニ尋常安眠セサ
ルニ至ル因テ茂光加藤兄弟力驍勇ヲ美シ身ノ保護ノ為ニ平家ノ聞ヲ不憚特ニ賞之ト云
又時頼朝卿兵衛佐時
ニ豆州ニ在リ
ニ彼兄弟ガ勇悍ヲ説ク故ニ頼朝彼ニ
人ヲ以テ家士トスト己上盛衰記第二十此説ニ依レバ
加藤家ハ是橘姓ナリ然レドモ藤原ト云ガ
如キハ東鑑及彼家自称ノ記明ニ理トシテ
争ヘキ無シ今只且ク衰記ノ異説ヲ挙テ以
此ニ知ラスル尒

○大職冠鎌足ハ和州高市郡ノ人天兒屋根命二十三代ノ後胤也本姓大中臣世天地ノ祭祀ヲ掌ル中臣ノ鎌子連ト号ス考徳帝ノ時始テ内臣トス天智ノ朝蘇我ノ入鹿ノ大臣を誅伐セシ功ニヨツテ内大臣ニ任ズ藤原ノ姓ヲ賜フ鎌子ヲ改テ鎌足トス後チ大職冠ト号ス天智八年十月十六日薨ス藤原ハ大和ノ國ニ在リ / ○加藤家ノ先祖ヲ討ルニ其來ル事遠シ曰ク加藤太郎景通或ハ修理少進源頼光同頼信同頼義等ニ事フ景通乃子息右馬允景季有リ是ハ天喜五年貞任攻ノ時討死生年二十三父子共ニ大力ノ剛勇世ニ比無シ事前太平記奥羽軍記等ニ顕ハル義家ノ時亦加藤某有リ是亦其子孫ナル耳 / ○大職冠春日明神ヨリ二十一代ノ苗裔云 / ○能因 長門守或ハ肥後守正四位下橘元愷子也今世系ヲ挙ケハ ○諸兄[人皇二十一代敏達帝五代ノ後胤井手ノ正一位橘諸兄公四十六代孝謙ノ太平寶字元年ニ薨ス年七十四] - 奈良丸 - 嶋田丸 - 常主 - 安吉雄 - 吉種 - 純行 - 忠望 - 元愷 - 永愷 / ○加藤五名乗ノ事東鑑ニ景員盛衰記ニハ景貞ト云 又加藤太東鑑ニハ光員ト云イ盛衰記ニハ光胤と云フ是等記寫ノ異ト知ルヘシ於中東鑑ニ父ヲ景員子ヲ光員ト云ハ屬スル處有ニ似タリ衰記ニ父ハ景貞子ハ光胤トハ父ノ名ノ字一字ヲモ取ラズ理不屬ガ如シ東鑑ノ如ク景員光員ヲ以正トスベシ員と貞ト字形相似シ員ト胤ト音同シ故ニ記寫ノ誤リニテ衰記ハ貞字胤ノ字ニ作ル者ナラン例セハ佐那田與市ガ如キ東鑑ニハ義忠ト云衰記ニハ義貞ニ作ル是皆記録ノ異ト知ヘシ / ○平氏黨ニ伊藤ト称スル者徃徃ニ在リ何レカ指ス處ヲ知ラス

景員

光員

景廉

景廉 撿非違使 大夫尉 加藤次 加藤判官 景員二男

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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