遠山来由記/加藤氏

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目次

加藤

姓は藤原。東鑑や頼景らの自記で明白であるし、また一處 (遠山諸系) の大織冠鎌足十七代の後胤 (子孫) 加藤次郎景廉という言い伝えでも藤原の姓であることが分かる[1][2][3]

源平減衰記を調べてみると加藤家は能因法師[4]の子孫であるという[5]。能因の子に月波蔵人(つきなみくらうど)という者が居り、伊勢国に来て柳右馬入道の入り婿となって一男子をもうけた。加藤五景員 (諱は景貞) である。景員は後に使命を賜って加藤判事となる。加藤太 (光員)、加藤次 (景廉) はその子であり元は伊勢国に住んでいた。景員には平家の武士伊藤某[6]という怨恨があり、加藤親子はしばしば窺い謀って遂に伊藤を殺戮し、仇を避けて東国に逃れた。

武蔵国秩父 (平氏) を頼るが平家を恐れて拒否。また千葉に頼るがこれもまた後の難を恐れて承諾せず。伊豆国へ行き工藤茂光 (藤原) に頼む。茂光は喜んで扶助しその上自分の妹を娶らせた[7]。また頼朝公 (兵衛佐はこの時伊豆国に居た) にこの兄弟が勇敢であると話したことから頼朝はこの二人を召し抱えたという (己上盛衰記第二十)。

この説に依れば加藤家は橘姓である。しかし藤原と伝わっているのは東鑑や彼らの家の自称の記から明らかであり疑う余地もない。ただとりあえず衰退記の異説をここに挙げ記しておく。

  1. ^ 大織冠鎌足は大和国高市郡の人で天兒屋根命(あめのこやねのみこと)23代目の子孫である。本姓は大中臣。世々天地の祭祀を司る中臣鎌子(むらじ)と号していた。孝徳天皇の時に内臣となり天智天皇の朝、蘇我入鹿大臣を暗殺した功で内大臣に任命される。藤原の姓を賜り鎌子を改めて鎌足とする。その後、大織冠と号する。天智天皇8年 (669年) 10月16日没す。藤原は大和国にあり。
  2. ^ 加藤家の祖先を調べてみるとその由来は遠い。加藤太郎景通または修理少進という。源頼光、頼信、頼義らに従う。景通の息子に右馬允景季という者が居る。これは天喜5年 (1057年/平安) に安倍貞任攻めの時に討ち死にした。生年23、父子共に大力の剛勇で世に並ぶ者は居なかったと前太平記奥羽軍記などに見られる。義家の時にも加藤某という者が居る。これもまたこの子孫であろう。
  3. ^ 大織冠は春日明神より21代目の子孫と伝えられている。
  4. ^ 俗名愷古曽部入道 (橘永愷(たちばなながやす)) と号す。始めは融因、後に能因。橘諸兄公第10代の後胤である。
  5. ^ 能因は長門守 (または肥後守) 正四位下橘元愷子である。世系を挙げると諸兄(人皇21代[[w:敏達天皇|]]5代の子孫、井手の正一位橘諸兄公46代孝謙の太平宝字元年に没する歳74) - 奈良丸 - 嶋田丸 - 常主 - 安吉雄 - 吉種 - 純行 - 忠望 - 元愷 - 永愷。
  6. ^ 平氏党に伊藤と称する者がいくつもありどれを指す者かは分からない。
  7. ^ 茂光は工藤助水戸次郎という者と長く怨恨をはさんでおり時には戦闘に及んでいたため互いに枕を高くして眠れなかった。このため加藤兄弟の武勇を気に入り身の保護のために平家の耳に入るのをはばからず特にこれを召したという。

加藤 姓ハ藤原ナリ東鑑及頼景等
自記分明ノ故ニ且一處遠山庶系
ニ大職冠鎌足一七代ノ後胤加藤次郎景廉
ト云故ニ知ル藤原ノ姓ナルコトヲ然ルニ
源平盛衰記ヲ檢スルニ加藤家ハ是能因法
俗名愷古曽部入道ト号ス始ハ融因後チ能因橘諸兄公第十代ノ後胤ノ裔也ト曰ク能
因息男ニ月波藏人ト云者有リ伊勢國ニ來
テ柳右馬入道ガ贅壻ト為テ一男子ヲ産ム
是加藤五景員ナリ景員後チ使ノ宣ヲ蒙テ
加藤判事ト云加藤太光胤加藤次景廉ハ其子也
舊勢州ニ住ス然ニ景員ニ仇讎アリ是レ平
家ノ武士伊藤某ト伝者ナリ加藤父子屢徂
謀テ遂に伊藤ヲ殺戮シ仇ヲ避テ東國ニ來
武藏國秩父平氏ヲ恃ムト雖モ渠レ平家ノ聴
ヲ恐テ肯ズ又千葉ニ便ルト雖モ是亦後難
ヲ恐テ許諾セズ於是伊豆國ニ徃キ工藤茂
藤原ヲ憑ム茂光喜テ扶持シ剰吾妹ヲ以テ
コレニ娶ス所以ハ工藤助水戸次郎ト云者ト久ク怨讎ヲ夾テ動スレハ闘戰ニ及フ故ニ互ニ尋常安眠セサ
ルニ至ル因テ茂光加藤兄弟力驍勇ヲ美シ身ノ保護ノ為ニ平家ノ聞ヲ不憚特ニ賞之ト云
又時頼朝卿兵衛佐時
ニ豆州ニ在リ
ニ彼兄弟ガ勇悍ヲ説ク故ニ頼朝彼ニ
人ヲ以テ家士トスト己上盛衰記第二十此説ニ依レバ
加藤家ハ是橘姓ナリ然レドモ藤原ト云ガ
如キハ東鑑及彼家自称ノ記明ニ理トシテ
争ヘキ無シ今只且ク衰記ノ異説ヲ挙テ以
此ニ知ラスル尒

○大職冠鎌足ハ和州高市郡ノ人天兒屋根命二十三代ノ後胤也本姓大中臣世天地ノ祭祀ヲ掌ル中臣ノ鎌子連ト号ス考徳帝ノ時始テ内臣トス天智ノ朝蘇我ノ入鹿ノ大臣を誅伐セシ功ニヨツテ内大臣ニ任ズ藤原ノ姓ヲ賜フ鎌子ヲ改テ鎌足トス後チ大職冠ト号ス天智八年十月十六日薨ス藤原ハ大和ノ國ニ在リ / ○加藤家ノ先祖ヲ討ルニ其來ル事遠シ曰ク加藤太郎景通或ハ修理少進源頼光同頼信同頼義等ニ事フ景通乃子息右馬允景季有リ是ハ天喜五年貞任攻ノ時討死生年二十三父子共ニ大力ノ剛勇世ニ比無シ事前太平記奥羽軍記等ニ顕ハル義家ノ時亦加藤某有リ是亦其子孫ナル耳 / ○大職冠春日明神ヨリ二十一代ノ苗裔云 / ○能因 長門守或ハ肥後守正四位下橘元愷子也今世系ヲ挙ケハ ○諸兄[人皇二十一代敏達帝五代ノ後胤井手ノ正一位橘諸兄公四十六代孝謙ノ太平寶字元年ニ薨ス年七十四] - 奈良丸 - 嶋田丸 - 常主 - 安吉雄 - 吉種 - 純行 - 忠望 - 元愷 - 永愷 / ○加藤五名乗ノ事東鑑ニ景員盛衰記ニハ景貞ト云 又加藤太東鑑ニハ光員ト云イ盛衰記ニハ光胤と云フ是等記寫ノ異ト知ルヘシ於中東鑑ニ父ヲ景員子ヲ光員ト云ハ屬スル處有ニ似タリ衰記ニ父ハ景貞子ハ光胤トハ父ノ名ノ字一字ヲモ取ラズ理不屬ガ如シ東鑑ノ如ク景員光員ヲ以正トスベシ員と貞ト字形相似シ員ト胤ト音同シ故ニ記寫ノ誤リニテ衰記ハ貞字胤ノ字ニ作ル者ナラン例セハ佐那田與市ガ如キ東鑑ニハ義忠ト云衰記ニハ義貞ニ作ル是皆記録ノ異ト知ヘシ / ○平氏黨ニ伊藤ト称スル者徃徃ニ在リ何レカ指ス處ヲ知ラス

景員

加藤五郎 加藤判官

平治の乱で源左典馬 (義朝) に従い何度か平家と闘った。後に源氏は大敗を喫し、大将の義朝も敗走して尾張国野間郷で長田庄司の反逆に遭い殺された。このため源家の徒属は流浪しあちこちに漂泊した。景員も虚しく本国伊勢に還り蟄居して再び嘉運が至るのを待った。

景員には息子が二人おり嫡を加藤太郎、次を加藤次郎と言った。あるとき右兵衛佐 (頼朝) が伊豆国に居ると聞きつけその御見廻として次男の加藤次郎を遙か東国に下した。頼朝が相模国で義兵を募っていると聞き大いに喜び、行装を促し嫡の加藤太と共に東国に到着する (己上伝記の説、以下東鑑による)。

この時、武衛 (頼朝) は山木判官を討ったあと勢いを強大にして近国の宿敵討伐を謀った。治承4年8月20日、武衛は伊豆・相模両国の兵を集めて伊豆を出兵し相模国の土肥郷へ向かった (石橋山の戦い)。これに従った英雄は北条親子 (四十六人の名を列す)、加藤五景員、同藤太光員、同藤次景廉、小忠太光家などである。これらの軍勢三百騎は国の石橋山に陣を敷いた。

平家方はすぐさま大庭三郎景親 (相模国佳人)、同俣野五郎景久 (十三人の名を列す) など三千余りの強兵を集め、さらに伊藤次郎祐親法師 (三百騎余り) も加わって共に武衛に対峙した。両軍共に命を軽んじ戦ったが、23日の夕暮から24日の夜明けまでかかっても多勢に無勢、対抗しがたく武衛は遂に敗走し (佐那田與市らの勇士はここで討ち死にした) 土肥の桐山に逃れた[1]

景親は三千騎をもってこれを追撃し、加藤父子、大見、佐々木、天野、堀らは決死の覚悟で防戦。武衛もまた自ら敵を射た。しばらく逃れて臥木の上に立つと残兵北条以下の将が集まった。土井実平はこの大勢では隠れるのが難しいが頼朝一人であれば例え僅かな日数であれども何とか隠し通す事が出来る、皆しばらくの間別れて命を延ばし重ねて会稽の恥を浄めんと、再三の換喩を強いたので拒む事もできない。北条以下の諸士は四方へ離散し、実平一人で頼朝公に供奉した (ただし盛衰記には主従七騎留まるという[2])。

工藤茂光は肥満の体であったため山行が叶わない我が身に憤慨して自害した。加藤五景員と光員、景廉は逃れて三日間箱根山に身を隠した (盛衰記では伊豆の社に隠れたという)。それぞれ食料が無くなり疲労。殊更景員は衰老の身であったため進退窮まった。景員は二人の息子に向かって「私はもう老齢だ。例え愁眉を開く (ここで逃れた) としても幾ばくの余生があるだろうか。おまえたちは壮年であるしすぐに命を落とす事は無い。すぐに私を捨て源家へ仕え快く功業を遂げよ。」と言った。光員らは断腸の思いであったがまたどうする事も出来ず、とうとう父を走湯山に送り捨て (時に26日景員は寺に入って薙髪するとも)、兄弟は甲斐国へ赴いたと言われている。

後に武衛は運を開き伊豆・相模を治めて鎌倉に入った (治承4年10月16日)。また黄瀬川出陣の時に相模国府で (同10月23日) 諸将に軍功の褒賞を与えた。北条以下景員入道ら (二十五人の名を列す) は、ある者は本領を安堵し、ある者は新恩の賞を賜った (己上東鑑)。この時景数には伊勢国を付したという (記伝の説)。

  1. ^ 頼朝卿は椙山から箱根の永実という場所に移って隠れ、その後安房国平北郡猟嶋へ移り、北条以下三浦の輩と合流して再軍を催した。
  2. ^ 主従七騎とは土肥次郎実平、同男 (長男) 遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠岡崎四郎義実藤九郎盛長 (これらに頼朝公を合わせて七騎) (己上)。

景員 加藤五郎 加藤判官
平治ノ亂ニ源左典廐義朝ニ從テ數平家ト戰
而後源氏大ニ利ヲ失イ大將義朝敗走シテ
尾州野間郷ニ至リ逆臣長田庄司ガ為ニ弑
セラル於是源家ノ徒屬此ニ流浪シ彼ニ漂
泊ス景員モ空ク本國伊勢ニ還リ蟄居シテ
再ヒ嘉運ノ至ルヲ待ツ息二人有リ嫡ヲ加
藤太郎ト名ケ次を加藤次郎ト云フ偶右兵
衛佐頼朝伊豆國ニ在ト聞テ其御見廻トシテ
二男加藤次郎ヲ遙ニ東國ニ下ダス既ニノ
頼朝相州ニ於テ義兵ヲ發シ給フト聞大ニ
悦シ行裝ヲ促シ嫡加藤太ト共ニ東國ニ至
己上傳記ノ説也以下東鑑ニ依ル
粤ニ武衛頼朝ハ八木判官ヲ誅滅シテ後乃威
勢漸ク強大ニシテ猶近國ノ凶敵攻伐ヲ謀
時ニ治承四年八月廿日武衛豆相兩國ノ兵
ヲ将聚テ伊豆國ヲ發シ相模州土肥郷ニ赴
ク所從ノ英雄ハ北條父子四十六人ノ名ヲ列ス加藤五景員
同藤太光員同藤次景廉小忠太光家等ナリ
其勢合テ三百騎州ノ石橋山ニ陣ス平家方
ニハ大庭三郎景親相州住人同俟野五郎景久等十三人ノ
名ヲ列ス
三千餘ノ逞兵ヲ率シ亟ニ來逆フ並ニ伊
藤二郎祐親法師三百餘騎相加テ共ニ武衛ニ相當
ル而兩軍輕命爭イ戰フ廿三日ノ黄昏ヨリ
廿四日ノ暁天ニ至ル然トモ多勢ニ無勢對
抗シ難ク武衛遂ニ鬭負テ佐那田與市等ノ勇士於此討死ス逃テ椙
山ニ入ル景親三千騎ヲ以コレヲ追コト急
ナリ於此加藤父子大見佐佐木天野堀等萬
死ヲ冒シテ防戰フ武衛モ亦自敵ヲ射ル漸
ク遁テ卧木ノ上ニ立ツ時ニ残兵北條以下
ノ諸將來リ聚ル實平曰此大勢中中隠難シ
御一身ニ於テハ縦ヒ旬月ヲ渉ルト云共計
畧シテ隠シ奉ルベシ旁暫時分散シテ命ヲ
全シ重テ會諬ノ耻ヲ雪メ給ヘト再三ノ諫
諭ニ因テ強イ拒ム事アタワズ北条以下ノ
諸士各四方ヘ離散ス惟タ實平一人供奉ス
但シ盛衰記ニハ主從七騎止マルト云工藤茂光ハ身肥滿シテ嶮山行
歩不叶ヲ忿テ忽チ自殺ス加藤五景員並ニ
光員景廉ハ逃レテ三日ノ間筥根山ニ在リ
衰記ハ伊豆ノ社ニ隠ルト云各粮絶ヘ神身疲ル景員ハ殊ニ衰
老ノ身進退維谷ル時ニ兩息ニ訓テ曰ク吾
齢老タリ縦イ愁眉ヲ開クト云モ幾ノ殘生
ヲカ待ン汝等壯年徒ニ命ヲ殞ス事莫レ亟
ニ我ヲ捨去テ源家ニ仕ヘ快ク功業ヲ遂ヨ
ト光員等断膓スト雖モ復奈何トモ為コト
ヲ知ラズ竟ニ父ヲ走湯山ニ送捨テ時ニ廿六日景員ハ寺ニ
入テ薙髪スト
兄弟はい甲斐國ヘ赴ト云云後チ武衛運ヲ
啓キ伊豆相模ヲ平治シテ鎌倉ニ入ル治承四年十月十六日
又黄瀬川出陣ノ時相模ノ國府ニ於テ同十月廿三日
始テ諸將ニ軍功ノ賞ヲ行ハル謂ク北條以
下景員入道等二十五人ノ名ヲ列ス或ハ本領ヲ安堵シ或
ハ新恩ノ賞ヲ賜フト己上東鑑是時景員ニ伊勢國
ヲ附スト云記傳ノ説

光員

加藤太 加藤判官 伊勢前司 左衛門大夫 景員の嫡子
後に父の業を継ぐ。元は伊勢の祭主で従二位大納言能隆卿の家司である。後に鎌倉将軍に仕えた。実朝卿の時代に祭主と相論があった。東鑑十八に出ている通り。

石橋山の敗軍の後 (治承4年8月26日)、加藤父子の三人は箱根山に隠れ父は走湯山に入って出家した。その夜兄弟は亥刻 (午後9-11時) に伊豆の国府祓所(はらいど)に到着したが、これを怪しんだ土地の人等が集まって駆逐したため兄弟は離散して逃走した。28日、駿河国大岡の牧で運良く再開し共に富士の麓に潜んでいた。

同10月13日、甲斐源氏並びに北条父子が駿河に赴いた (北条は石橋敗軍の後に頼朝より軍勢の催促の使いとして甲州に至ったが途中に逢っため共に来た)。これは駿河の月代長田入道と対戦のためである。かくして甲州の兵が富士山北麓の若彦路を越える時に加藤兄弟もそこから出て、甲州勢と共に駿河国に入った。10月14日、長田と合戦の時 (長田が敗軍して遂に滅んだ) に加藤兄弟は特に軍功があったという (己上東鑑)。

○光員 加藤太 加藤判官 伊勢前司
    左衛門大夫 景員之嫡 後嗣父業
舊伊勢ノ祭主従二位大納言能隆卿ノ家司ナリ後チ鎌倉將軍ニ事
フ因テ實朝卿ノ時世祭主ト相論ノ事東鑑一八ニ出スカコトシ

石橋山敗軍ノ後治承四年八月廿六日加藤父子三人隠テ
筥根山ニ在リ父ハ走湯山ニ入テ出家ス兄
弟ハ其夜亥刻伊豆ノ國府祓土ニ著ク土人等
コレヲ怪テ竸聚テ驅逐ス故ニ兄弟離散シ
走ル二十八日駿州大岡ノ牧ニ於テ兄弟復
タ僥倖ニ相逢テ倶ニ冨士ノ麓ニ蟄ス同十
十三甲斐源氏幷ニ北條父子駿州ニ赴ク石橋敗軍
ノ後北條ハ頼朝ヨリ軍勢催促ノ御使トシテ甲州ニ到ル半途ニ逢テ相伴フ
是駿河ノ月代長田
入道ト對戰ノ為ナリ斯テ甲州兵冨士山北
麓若彦路ヲ越ル時加藤兄弟モ此ヨリ出デ
テ甲州勢ト相伴テ駿州ニ入ル而十月十四
日長田ト合戰ノ時長田敗軍シテ遂ニ亡フ加藤兄弟特ニ軍
功有リト云己上東鑑

景廉

検非違使 大夫尉 加藤次 加藤判官 景員二男

鎌倉右将軍源二位頼朝公の寵臣 (頼家、実朝に至る三代共に近臣)。東鑑によれば伊豆国で武衛が一院[1]の令旨を受けて挙兵し、近国の源氏を募って多くの勇士が従った。ここで諸将と相談して治承4年8月17日の夜に山木判官兼隆[2]を急襲する (隣国境にいた国敵のため)。この時武衛は「皆山木に対して速やかに雌雄を決すべし。私は今夜の戦いを以て生涯の吉凶を試す。我が軍が勝ったなら火を放ち煙を上げて相図とせよ。」と命じた (盛衰記に北条以下八十五騎が向かったという)。

北条以下は兼隆の館前の天満坂のほとりに攻め寄せてしきりに矢を放った。兼隆は襲撃を予期していなかったため、その日に家人らの多くが外出していて夜まで戻らなかった[3]。しかし残兵が要害を堅めて進み決死で防戦したためたやすく勝負を決せなかった。

武衛は館から遥かに望んで火が放たれるのを待っていたが火の手は中々上がらない。宿衛していた加藤二郎、佐々木三郎、堀ノ藤次郎に命じてまた向かわせる時に、長刀[4]を手に取って景廉に与え、お前はこれで速やかに兼隆を討って帰れと命じた。三士は謹んでこの命を受け近道を走り大いに戦って景廉は遂に兼隆の首を取った (盛衰記には景廉一人従卒僅か四、五の輩で到着したという)。また従兵らをことごとく討ち取り屋室に火を放って焼いた。

明け方に皆凱旋し数級の首を献じた。武衛は喜びこれは我が運を開くべきという吉兆なりと祝った (己上東鑑ほぼ出す、盛衰記二十は大同小異だがほぼ今よりも詳しい)[5][6][7]

  1. ^ 一院とは七十七代後白河法皇の事。福原の京に押し籠もられ御座されていた所で文覺上人が到り、密かに申し受けて帰った。院宜の書き出しには「前右兵衛督光義奉治承四年七月十四日」とあり。七十八二条院は永万元年(六月)に御脱屣 (退位) し新院と号したため法皇は一院と称することとなった。新院は一ヶ月ほどで崩御された。盛衰記にも新院とあるのは六条院である。後に高倉院も御脱屣し新院という。
  2. ^ 散位平兼隆(たいらのかねたか) (前述の廷尉山木判官) は伊豆国の流人である。父である和泉守信兼が兼隆を訴え当国山木郷に配された。しばらく経ち年序假平相國禅閣之權輝威于群郷 ○山木は八牧とも。
  3. ^ 8月17日は三嶋の神事であったため郎従どもの多くは祭りに行っており、また黄瀬川の宿に泊まりなどして帰らなかった。
  4. ^ この薙刀は元は源家の重器である。池の禅尼の手に渡っていたのを頼朝卿に授けられたと云々。
  5. ^ 安元2年 為朝退治のため諸軍が伊豆大島へ向かった。加藤兄弟もそれに加わり為朝は自殺し景廉が首を取った。
  6. ^ 養和2年6月7日 頼朝は由比ヶ浜で弓馬の芸を御遊覧。大いに興を催された。暮頃に景廉がにわかに気絶したため酒宴を止められ還った。翌日、佐殿(すけどの) (頼朝)車大路の景廉の家に渡りお伺いなされた。今夕より本復すると伝えると佐殿は大いに喜び賜うといわれる。
  7. ^ 文治5年頼朝は奥州泰衡の追討に出向き加藤兄弟が従軍した。建久元年頼朝上洛、景廉は供奉。

景廉 撿非違使 大夫尉 加藤次 加藤判官 景員二男

その後、石橋山の敗戦で武衛は椙山へ逃れて危機を免れ、加藤兄弟もまた離散した (前述の通り)。後に黄瀬川の軍営に復帰し従ったという。元暦2年 (文治元年に当たる) 西国討伐の時は三河守範頼卿に従ったが景廉はその地で病にかかり戦功はなかった (この事は東鑑台四に詳しい)。

建久4年5月、将軍 (頼朝) は富士野の藍沢に狩りに出かけた (富士の巻狩り)。同28日 (子刻) 曾我兄弟 (十郎祐成五郎時致) は御狩場の仮屋に入って夜討ちした (工藤祐経を討って御座所へ斬り入った) (曾我兄弟の仇討ち)。この時、守衛の諸士は皆突き出て兄弟と戦い、ある者は手負いとなりある者は討たれた。この中で加藤太は怪我を負ったが加藤次は無傷であった (東鑑)。

建久6年の春、景廉は頼朝公より美濃国遠山荘に封じられた。時に3月3日御下文を賜ったという。これは遠山庶系の説である。東鑑十五によれば、建久6年2月14日己尅将軍家鎌倉を出発し御上洛、御台所並びに男女子息ら皆伴う、これ南部東大寺供養の間御結縁有るべきためである、3月4日 将軍近江国鏡の駅を出で勢田の橋に臨むと云々とある。この事から考えると、頼朝はこの年の3月3日にまさしく帰旅の間であった。この日に景廉が荘園を封じられ御下文を受けた事が本当かどうか分からない。ただ景廉は旅行の供奉であったから、将軍が美濃路を経て来る時節にこの遠山荘を付したものかと思われる。これに準じてこの年景廉は自らの領地である遠山荘に入ったのだろうか。東鑑(十五) 建久6年7月10日の記に余度、将軍が上洛の間、供奉の御家人ら皆に休暇を賜って自分の領国へ帰ると云々。これから考えると景廉が遠山荘に入ったのはあるいはこの時であろうか。また東鑑では建久7年から9年まで3年の間は記録が欠けている。もしもし欠けていなかったらこの事が書かれていたのかもしれない。これらは全て推論であって定量としてはいけない。ただし景廉は頼朝の近臣である。常に座右をはなれないのであれば例え領国に入ったといえど少しの間も留まることはなかっただろう。

建久10年正月 (13日) 頼朝公が死去し頼家が継ぐ[1][2]。建仁3年8月、頼家公は長患いにより辞職排除され、実朝が将軍を継いだ。建保7年正月27日[3]、将軍 (右大臣実朝公) は拝賀のため鶴ヶ岡へ参拝 (道中の隨兵一千騎)。この時、検非違使大夫判官景廉 (束帯平塵蒔の太刀、舎人一人、郎等四人、調度掛小舎童各一人、看督の長二人、火長二人、雑色六人、放免五人) は警備役であった。

将軍は夜に (承久記では戌刻と記されている) 神拝竟を出て石橋のほとりで当宮別当の公暁[4]に討たれた (略した部分は本文及び承久記に詳しい。公暁はその夜のうちに長尾新六定景に訪ねられ斬られた)。翌28日の夜明け、加藤判官次郎を使節として上洛させ天子に将軍の横死を申し上げた。五日の行程と書かれている (2月2日京着、同9日に還る)。同月 (28日) 辰の刻 (午前8-10次頃)、御台所[5] (奥方) は落飾 (剃髪)武蔵守親広 (乃至) 大夫尉景廉以下の家人百人余りが死去の哀傷に堪えずことごとく出家を遂げたという。

ここで挙げられている加藤判官次郎とは景廉の名を指すのであろう。しかしながら景廉は既に28日辰刻に皆と共に薙髪している。判官次郎は事件の朝に鎌倉を出発している。明らかに別人である。矧や記伝の説を考えると景廉はこの年64歳である。かつこの記にも宿老と称して遠行の労を傷めて許されている事から、急使の役には応じる事は出来ない。もしそうならこの判官次郎は誰だろうか。加藤党の人間が最も多いという。あるいはその中の一人であるともいう。恐らく鑑文はその名を違えたのだろうか。更に考慮せよ。

承久3年[6] 天下逆乱の時には関東の大軍が撃って京都・畿内へ上がる。加藤判官らの宿病は軍に従って上洛する事を許され鎌倉に留まったと云々。承久3年8月3日 (寅刻) 検非違使従五位下行左衛門少尉藤原朝臣景廉法師 (法名) 覺蓮房妙法卒 (己上東鑑所々交え明かす)。記伝の説によると承久3年美濃遠山荘に卒す。享年66歳。つまり城内に葬られる。葬所に一祠を営建してその霊を祭る。現在の八幡神社であると (己上)。

ここで述べる東鑑に準ずるなら覚蓮はこの年复未ニ至テ猶ヲ鎌倉に居た。いつの間に美濃国遠山荘に移って病死したのか分からない。この事はいまだはっきりしていない。あるいは実は鎌倉で死んでその遺骸を領地遠山荘に移したのだろうか。遠代の事で実卒に弁明しがたい。

景廉の生涯の事業は東鑑に詳しく書かれている (一から二十五に至る)。また盛衰記にも出ている (二十の巻及び二十一など)。

また雑記において景廉を遠山判官と称しているのは根拠が無い。遠山の称号は景朝 (影廉の嫡男) が始めである。これは伊勢の加藤もまた左衛門尉と称していたためこれに対して遠山左衛門尉という (東鑑往々に列名)。景廉は加藤判官または大夫尉などと号しているが遠山と称したことは無い。

また雑記にあるように景廉が京都の守護として廷尉に任じていたというのは誤りである。京都の守護というものは九郎義経以後、元弘正慶の比に至って北条家から守護両人を置いて鎮している。これを両六波羅という。景廉が京の守護であったということは決してない。今謂或ガ辨説スル所頗名當也。

ただし加藤次に対する遠山の称号については東鑑などにその所見がないとはいえ、遠山荘を領知したことから後に遠山と称したのはあり得ない事ではない。従って遠山庶系の中にはまさしく遠山加藤次と記したのだろうと思う。

金山記を調べてみると、昔鎌倉右将軍源頼朝公の時に「水色ハ土岐殿」と言われる美濃国のうち西北六分を領する武名大将がいた (土岐氏の家紋は水色桔梗紋)。同時期の加藤次郎景廉は同国の東南四分を領していた。これが遠山家の祖である。元弘建武の騒乱の後に土岐家は武威盛んにして遠山氏は年々衰え、東濃の僅か岩村苗木の近境だけが遠山家の領分となった。そのうえ美濃国一国の政令はことごとく土岐家の者が司っていた。

後に土岐氏もまたやや衰えて斎藤家が (妙椿道三らが続いて) 大いに威を振るった。天文6年には斎藤大納言藤原正義 (斎藤道三の養子で初めは少将正義といい後に大納言となる。実は近衛の関白植家公の子息) が新たに烏ヶ峰城 (金山城) (可児郡兼山村南の高山にあり) を築いた。従兵二千にして勢いを四方に伸ばしたため、東濃の諸将は皆その威風に偃して旗下に属した。遠山城守もその一つであった。

加治田城守佐藤紀伊守、同じく与力の士に湯淺讃岐、西村二郎兵衛、小関新助、大嶋茂兵衛、佐藤勘右衛門。山上堂洞城守岸勘解由。米田荘加茂山城守肥田玄番。大森に奥村又八。上恵戸に長谷川五郎右衛門。金屋に長谷川彦右衛。根本に若尾入道本昌。高山の城守平井頼母。妻木の主妻木喜十郎。久々利の城守土岐三河守。同じく悪五郎。苗木城守に遠山久兵衛。岩村霧ヶ城に遠山一族七頭衆。右の外国人の主将一揆の大将分など。

誰もが烏峰城[7]に来て拝謁しなかった事はないという (己上)。この説によれば東濃は累世遠山家の領地で、加藤次景廉以来伝々相続して天正の初めに至るもので由緒も最も久遠であると知る事が出来る。

  1. ^ 頼朝が死去した事は東鑑には記されていない。保暦間記では怨霊を見て病死したという。これは相模川の橋の供養に赴き賜いて帰路に何度も落雷があり落馬し明年正月13日に死去すと云々。怨霊とは安徳天皇あるいは平家の一族、また範頼義経などであると。
  2. ^ 頼家は東鑑一頼家は頼朝の一男で字を十萬 (十幡)。万治5年建仁3年7月に病気にかかり8月に跡を長男一萬 (一幡) (大歳) に譲る。9月出家し元久元年7月18日伊豆の修禅寺で殺されたと (己上)。また東鑑にあるように頼家の病中に嫡の一万君が北条時政に殺された。別名を一幡という。実朝は千幡君。
  3. ^ 建保7年は承久元年。
  4. ^ 公暁は頼家の息子で字は善哉。この時に19歳で大剛勇の人であったと。伝えによれば義時らの勧めで実朝を親の敵と討ったと言われている。頼家を修禅寺に害したのは時政の仕業であると。頼朝の正統は皆北条家より亡す。
  5. ^ 御台所は坊門の大納言信清の御娘君である。
  6. ^ 承久3年に66歳ならば保元元年生誕に当たる。
  7. ^ 烏ヶ峰城村は初め中井戸の村と言い次に金山、後に兼山と改めた。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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