遠山来由記/岩村城主遞代次序

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岩村城築城について。築城の創始は何時の時代か全く不明である。遠山領主が土着して久しい事からその創造もまた遠くであろう。推測すると建久6年 {{note|(1195年/鎌倉)}} 以後だろうか (建久6年より寛延元年 {{note|(1748年/江戸中期)}} まで554年)。言い伝えによれば応仁2年 {{note|(1468年/室町)}} であるという (寛延元年より去ること281年前)。
 
岩村城築城について。築城の創始は何時の時代か全く不明である。遠山領主が土着して久しい事からその創造もまた遠くであろう。推測すると建久6年 {{note|(1195年/鎌倉)}} 以後だろうか (建久6年より寛延元年 {{note|(1748年/江戸中期)}} まで554年)。言い伝えによれば応仁2年 {{note|(1468年/室町)}} であるという (寛延元年より去ること281年前)。
  
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==遠山氏==
 
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==秋山伯耆守晴近==
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武田家臣
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○'''秋山伯耆守晴近''' 武田家臣
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信長父子が京都で明智光秀の謀反に遭った事から諸国は騒乱した。川尻も領民の一揆に苦しめられ大変災難<ref>{{蝿書|鎮吉が無道で領民に憎まれていたと甲陽軍鑑21、北国太平記4に記されている。}}</ref>。このため徳川家康公が本田百助、名倉喜太郎に兵卒を付けて甲斐国に援兵を遣わした。しかし川尻は誤って徳川公を疑い百助を殺して直ぐに新府の館から逃走した<ref>{{蝿書|14日の夜に百助が寝入ったところをうかがって切り殺した。川尻は18日に死んだ (甲陽軍鑑)。</ref>。百助の従卒と郷民等が追って闘い遂に川尻を討った}}<ref>{{蝿書|山県源四郎家臣の三井弥市という者に討たれた (北太平記)。}}</ref> (6月18日)。子の下野守吉治は相模国に逃れて北条氏に仕えた<ref>{{蝿書|また後風土記23日、天正14年秀吉が筑紫を攻め肥後国筒獄の城を開城し川尻肥前守を置いた。註に鎮吉の子なりとある。この吉治とは別人だろうか。}}</ref> (後風土記十九)。つまり川尻が甲斐国に居たのは少しの間である。
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○'''川尻肥後守鎮吉''' 織田徒屬也 領十二萬石兼勢州川尻
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天正三年ヨリ十年迄在城八年ナリ天正十年甲刕二徙ル<span class="s">武將感狀記ニ云川尻肥前守ハ信長卿ヨリ参州長篠ニ於テ甲ヲ賜テ軍令ヲ司ル者也因茲甲州ヲ賜ルト</span>謂ク此年三月十二日武田滅[[File:未定義文字 凶(ボウ).svg|亡]]ス信長ヨリ諸將ニ恩賞ヲ賜フ於中甲州半國ニ信刕諏訪郡ヲ加ヘテ川尻肥後守ニ附ス美州岩村城ハ森蘭丸ニ賜ヒ五萬石を授ト<span class="s">参刕後風土記十八</span>是時川尻ハ代テ甲州ニ移住ス而後<span class="s">同年六月</span>信長父子京都ニ於テ明智光秀乃弑逆ニ遇フ故ニ諸國騷亂ス川尻モ國民一揆ガ為ニ困ラレテ甚タ危難ニ及ブ因テ徳川家康公救之為ニ本田百助名倉喜太郎ニ兵卒ヲ添テ甲州ニ遣ス而ルニ川尻謬テ徳川公ヲ疑イ譌計テ忽チ百助を殺シ卽チ新府ノ館ヲ出テ逃走ル時ニ百助ガ從卒及ビ郷民等急ニ追之相闘テ遂ニ川尻ヲ討ツ<span class="s">是六月十八日ナリ</span>子息下野守吉治ハ遁レテ相州ニ適キ北條氏直ニ仕フト<span class="s">後風土記十九</span>然ハ則チ川尻甲州ニ在ルコト惟ダ暫時ノ間也
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○鎮吉父ハ川尻右馬允鎮祐ト云 / ○鎮吉信長記ニ肥前ト云肥前肥後前後各ノ改轉歟 / 鎮吉無道ニシテ國人ニ悪マレシ事ハ甲鑑全廿二北國太平記四等ニ出ス / 百助ヲ殺スハ十四日ノ夜寐入タル處ヲ窺テ切ル十八日川尻死ス甲鑑年譜 / 鎮吉ハ山縣源四郎乃郎等三井弥一ト云者ニ討タル北太平記 / 又後風土記二十三日天正十四年秀吉筑紫攻ノ下ニ肥後國筒獄城ヲ開遁シ故ニ其城ヘ川尻肥前守ヲ籠置クト註ニ鎮吉乃子也トアリ今ノ吉治トハ別人歟可考
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==森蘭丸==
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==田丸中務小輔源具忠==
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==大給松平氏==
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==丹羽氏==
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==松平氏==
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2009年7月12日 (日) 17:19時点における版

目次

岩村城築城

岩村城築城について。築城の創始は何時の時代か全く不明である。遠山領主が土着して久しい事からその創造もまた遠くであろう。推測すると建久6年 (1195年/鎌倉) 以後だろうか (建久6年より寛延元年 (1748年/江戸中期) まで554年)。言い伝えによれば応仁2年 (1468年/室町) であるという (寛延元年より去ること281年前)。

岩村城主遞代次序
  岩村築城ノ事築城ノ創始何レノ時カ實二不分明遠山領主其來ル事久シ準知ス創造モ亦遠カラン耳
推議ス建久六年以後ナル歟建久六乙卯年ヨリ寛延元戊辰年迠五百五十四年
傳説ス應仁二年戊子ナリト寛延元ヨリ計之以前相去コトニ百八十一年也

遠山氏

  • 加藤左衛門少尉藤原景廉
  • 遠山左衛門尉藤原景朝

建長5年 (1253年/鎌倉) (景朝の頃) から永正5年 (1508年/戦国) (頼景の頃) まで年数およそ256年。その間にその党の人は最も多く諸記録にその名を出しているが、家系の連続は詳しく分かっていない。前述したように確かな所のみを挙げる。

  • 遠山三郎兵衛尉景重
  • 遠山孫太郎左衛門尉景長
  • 遠山加藤次朝兼

前述の通り右の三人もまた遠山城守である。

  • 遠山左衛門尉藤原頼景 永正年間 (1504-1520年/戦国) の頃。
  • 遠山左衛門尉藤原景友 大永4年 (1524年/戦国) 卒。
  • 遠山左衛門尉藤原景前 天文年中 (1532-1554年/戦国) の頃。弘治2年 (1556年/戦国) 卒。
  • 遠山左衛門尉藤原景任 永禄年間 (1558-1569年/戦国) の頃。元亀3年 (1572/戦国) 卒。
  • 御坊丸 元亀3年 (1572/戦国) 12月、齢8歳で家督を継ぐ。城主で居たのは僅か3ヶ月余り。

加藤左衛門少尉藤原景廉
遠山左衛門尉藤原景朝

建長五癸丑年景朝現在ヨリ永正五戊申年頼景現在ニ至テ歳數凡二百五十六年斯間ニ於テ其黨ノ人最モ多ク諸記諸録二其名ヲ出スト雖モ家系ノ連續詳カナラサル故ニ今其ノ疑キヲ闕テコレヲ列出サヽル耳上ニ斷シ竟ルカ如シ

遠山三郎兵衛尉景重
遠山孫太郎左衛門尉景長
遠山加藤次朝兼

右三人是亦遠山城守ナルヘシ上ニ辨スルカ如シ

遠山左衛門尉藤原頼景 永正年間現在
遠山左衛門尉藤原景友 大永四年卒
遠山左衛門尉藤原景前 天文年中現在弘治二年卒
遠山左衛門尉藤原景任 永禄年間現在元亀三年卒
御坊丸 元亀三年壬申十二月享齢八歳ニテ家督ス領城ヲコト僅三月餘

秋山伯耆守晴近

武田家臣

信州高遠城守 (甲陽軍鑑によれば弘治2年 (1556年/戦国) 秋山に兵250騎を付けて伊那の郡代として高遠城に置くとある)。天正元年 (1573/戦国) 3月、遠山城に入る。天正3年12月までの在城およそ3年である。

秋山伯耆守晴近 武田家臣

信州高遠城守也甲鑑云弘治二年秋山ニ兵二百五十騎添テ伊那ノ郡代トシテ高遠城ニ置クト天正元癸申年三月遠山城ニ入ル而三年ノ極月ニ至ル在城凡三歳ナリ

川尻肥後守鎮吉

織田の配下。12万石を領し伊勢川尻を兼ねる。鎮吉の父は川尻右馬允鎮祐という。

天正3年 (1575/戦国) から10年 (1585/戦国) まで8年間在城。天正10年に甲斐国に移る[1][2]。この年の3月11日に武田が滅亡したという。信長から諸将に恩賞を賜り、甲斐国半国と信濃国諏訪郡を加えて川尻肥後守に与えた。美濃国岩村城は森蘭丸に賜い五万石を授けたという (参州後風土記十八)。

信長父子が京都で明智光秀の謀反に遭った事から諸国は騒乱した。川尻も領民の一揆に苦しめられ大変災難[3]。このため徳川家康公が本田百助、名倉喜太郎に兵卒を付けて甲斐国に援兵を遣わした。しかし川尻は誤って徳川公を疑い百助を殺して直ぐに新府の館から逃走した[4]。百助の従卒と郷民等が追って闘い遂に川尻を討った}}[5] (6月18日)。子の下野守吉治は相模国に逃れて北条氏に仕えた[6] (後風土記十九)。つまり川尻が甲斐国に居たのは少しの間である。

  1. ^ 武将感状記によれば川尻肥前守は三河国長篠で信長公より甲を賜り軍令を司った。これを甲州を賜ったと間違えたと。
  2. ^ 鎮吉は信長記では肥前という。肥前肥後の前後がそれぞれ回転したのだろうか。
  3. ^ 鎮吉が無道で領民に憎まれていたと甲陽軍鑑21、北国太平記4に記されている。
  4. ^ {{蝿書|14日の夜に百助が寝入ったところをうかがって切り殺した。川尻は18日に死んだ (甲陽軍鑑)。
  5. ^ 山県源四郎家臣の三井弥市という者に討たれた (北太平記)。
  6. ^ また後風土記23日、天正14年秀吉が筑紫を攻め肥後国筒獄の城を開城し川尻肥前守を置いた。註に鎮吉の子なりとある。この吉治とは別人だろうか。

川尻肥後守鎮吉 織田徒屬也 領十二萬石兼勢州川尻

天正三年ヨリ十年迄在城八年ナリ天正十年甲刕二徙ル武將感狀記ニ云川尻肥前守ハ信長卿ヨリ参州長篠ニ於テ甲ヲ賜テ軍令ヲ司ル者也因茲甲州ヲ賜ルト謂ク此年三月十二日武田滅亡ス信長ヨリ諸將ニ恩賞ヲ賜フ於中甲州半國ニ信刕諏訪郡ヲ加ヘテ川尻肥後守ニ附ス美州岩村城ハ森蘭丸ニ賜ヒ五萬石を授ト参刕後風土記十八是時川尻ハ代テ甲州ニ移住ス而後同年六月信長父子京都ニ於テ明智光秀乃弑逆ニ遇フ故ニ諸國騷亂ス川尻モ國民一揆ガ為ニ困ラレテ甚タ危難ニ及ブ因テ徳川家康公救之為ニ本田百助名倉喜太郎ニ兵卒ヲ添テ甲州ニ遣ス而ルニ川尻謬テ徳川公ヲ疑イ譌計テ忽チ百助を殺シ卽チ新府ノ館ヲ出テ逃走ル時ニ百助ガ從卒及ビ郷民等急ニ追之相闘テ遂ニ川尻ヲ討ツ是六月十八日ナリ子息下野守吉治ハ遁レテ相州ニ適キ北條氏直ニ仕フト後風土記十九然ハ則チ川尻甲州ニ在ルコト惟ダ暫時ノ間也

○鎮吉父ハ川尻右馬允鎮祐ト云 / ○鎮吉信長記ニ肥前ト云肥前肥後前後各ノ改轉歟 / 鎮吉無道ニシテ國人ニ悪マレシ事ハ甲鑑全廿二北國太平記四等ニ出ス / 百助ヲ殺スハ十四日ノ夜寐入タル處ヲ窺テ切ル十八日川尻死ス甲鑑年譜 / 鎮吉ハ山縣源四郎乃郎等三井弥一ト云者ニ討タル北太平記 / 又後風土記二十三日天正十四年秀吉筑紫攻ノ下ニ肥後國筒獄城ヲ開遁シ故ニ其城ヘ川尻肥前守ヲ籠置クト註ニ鎮吉乃子也トアリ今ノ吉治トハ別人歟可考

森蘭丸

田丸中務小輔源具忠

大給松平氏

丹羽氏

松平氏


古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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