遠山来由記/戦国記
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+ | 現今、旧記の説においてその事実を明かすなら、美濃国遠山城は織田信長の姨夫である岩村修理亮の城であった。岩村殿の子息が居なかったため御坊という名の信長の息子を養子とした。元亀3年12月に岩村殿が病死した時に御坊丸はまだ幼少であったが家督を継いだ。そして岩村殿の後室と家士らが御坊丸を養育し城を堅く守っていた。 | ||
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+ | 甲州武田軍の秋山伯耆守は信玄の命を受けて大兵をもって攻め込んできた (天正元年の春)。しかしこの城は山嶺に構えており攻め込む遍路がなく、要害ももっとも堅固であることからたやすく落とすことは出来ない。ここで秋山伯耆守は策略を計り、城中へ使いを出して<ref>言い伝えではこの時秋山は隣郷上村の[[大船寺]]の住持を遣わせた。法印は潜行して城の裏手の間道から入ったという。</ref>諭した。城兵はもし和睦するなら、我は今妻となる女はおらず、幸いにその後室を妻とし共に力を合わせ御坊丸を養育し永く城を保たん、この許しを乞うと<ref>{{蝿書|後室は初め早々に承諾しなかった。そこで甲州[[w:跡部勝資|跡部大炊介]]はもっと書の艶を巧みにした。秋山はこれに頼んで艶言をもって数回書を送り後室を誘い、遂にこれを承諾させたという。これは甲州前後集下に書かれている。}}</ref>。 | ||
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+ | 後室は特に悦んでこの申し出を承知し遂に秋山を城内に入れた。秋山は城に入ると約束の通り後室を自分の妻としたが、御坊丸は信長の人質として甲州に送った。織田家においてはこれを聞いて歯を{{ruby|切|くいしば}}りこれを怒った。 | ||
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+ | 遠山城には秋山、大嶋、座光寺 (勘右衛門) 以下二百五十騎をもって堅く城を守っていたため、信長もこれを攻め落とすのは難しいと考え策略を計り、和議を望むと申し出たが秋山らはこれを受け付けなかった。信長は秋山党の抑えとして旧当城岩村の藩屏である諸城に更に兵を置いた。塞壘を修営して固めたのはのべ十八箇所である。 | ||
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+ | 天正元年春、[[w:武田勝頼|武田四郎勝頼]]は信玄の病気が芳しくなかったため陣代として三河国へ向けて出兵し、直に上洛の志があることを見せるため、まず大軍を率いて3月15日に東美濃に入った。 | ||
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2010年5月10日 (月) 20:23時点における版
- 御坊丸
- 遠山左衛門尉景任の養子。織田上総介信長の第五男である。
- 三歳の時に岩村に入り八歳で家督を継ぐ。
五十君 久助が乳父として従うという (甲陽軍鑑品三十九)。 - 元亀3年12月に景任が死去したためその家督を継ぐ。程なくして秋山伯耆守に城を奪われ岩村城守としての遠山家はここに永く断絶する。
現今、旧記の説においてその事実を明かすなら、美濃国遠山城は織田信長の姨夫である岩村修理亮の城であった。岩村殿の子息が居なかったため御坊という名の信長の息子を養子とした。元亀3年12月に岩村殿が病死した時に御坊丸はまだ幼少であったが家督を継いだ。そして岩村殿の後室と家士らが御坊丸を養育し城を堅く守っていた。
甲州武田軍の秋山伯耆守は信玄の命を受けて大兵をもって攻め込んできた (天正元年の春)。しかしこの城は山嶺に構えており攻め込む遍路がなく、要害ももっとも堅固であることからたやすく落とすことは出来ない。ここで秋山伯耆守は策略を計り、城中へ使いを出して[1]諭した。城兵はもし和睦するなら、我は今妻となる女はおらず、幸いにその後室を妻とし共に力を合わせ御坊丸を養育し永く城を保たん、この許しを乞うと[2]。
後室は特に悦んでこの申し出を承知し遂に秋山を城内に入れた。秋山は城に入ると約束の通り後室を自分の妻としたが、御坊丸は信長の人質として甲州に送った。織田家においてはこれを聞いて歯を
遠山城には秋山、大嶋、座光寺 (勘右衛門) 以下二百五十騎をもって堅く城を守っていたため、信長もこれを攻め落とすのは難しいと考え策略を計り、和議を望むと申し出たが秋山らはこれを受け付けなかった。信長は秋山党の抑えとして旧当城岩村の藩屏である諸城に更に兵を置いた。塞壘を修営して固めたのはのべ十八箇所である。
天正元年春、武田四郎勝頼は信玄の病気が芳しくなかったため陣代として三河国へ向けて出兵し、直に上洛の志があることを見せるため、まず大軍を率いて3月15日に東美濃に入った。
- ^ 言い伝えではこの時秋山は隣郷上村の大船寺の住持を遣わせた。法印は潜行して城の裏手の間道から入ったという。
- ^ 後室は初め早々に承諾しなかった。そこで甲州跡部大炊介はもっと書の艶を巧みにした。秋山はこれに頼んで艶言をもって数回書を送り後室を誘い、遂にこれを承諾させたという。これは甲州前後集下に書かれている。
書きかけのページ | このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。 |
古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。