遠山来由記/景友ノ餘事

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今更に挙げて述べるのものは異説である。
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遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。
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昔々、桐中将という一人の公卿がおり何かの罪があってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もない。窓の格子戸<ref>割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。</ref>を外して敷きこれを席として座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。
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公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もその志厚きことおぼろでなく同じこれを紋せよ。
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もし私の子孫が相続するなら世々これを家紋として私の後に主の家と共にその由緒が久しい事の印としよう、と堅く誓った。
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これはその時の喜びを表すものである。
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その後胤 {{note|(子孫)}} 景友の世に城を築き城守となった時に桐の加藤司と称し、また同じくこの紋を以て永く家の印とした。つまり遠山の城桐の加藤司とはまさにこの人物であって鎌倉時代の加藤次景廉を指すのではない。元よりそれとは別の家柄であると云々。
  
 
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遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。
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昔々、桐中将という一人の公卿がおり何かの罪があってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏である) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もない。窓の格子戸<ref>割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。</ref>を外して敷きこれを席として座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。
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公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もそのもてなしのおぼろでない、
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同じこれを紋せよ。
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もし私の子孫が相続するなら世々これを紋として私の後の主の家
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{{古文書翻訳|遠山来由記}}

2010年5月9日 (日) 09:36時点における版

ここでは異説を挙げて霧ヶ城の呼称と遠山家の家紋について左に弁説する。

当城は応仁 2 年 (1468年/室町)景友が築いたとも伝えられている[1][2]。これから述べるのものはその異説である。

遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。

昔々、桐中将という一人の公卿がおり何かの罪があってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もない。窓の格子戸[3]を外して敷きこれを席として座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。

公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もその志厚きことおぼろでなく同じこれを紋せよ。 もし私の子孫が相続するなら世々これを家紋として私の後に主の家と共にその由緒が久しい事の印としよう、と堅く誓った。 これはその時の喜びを表すものである。

その後胤 (子孫) 景友の世に城を築き城守となった時に桐の加藤司と称し、また同じくこの紋を以て永く家の印とした。つまり遠山の城桐の加藤司とはまさにこの人物であって鎌倉時代の加藤次景廉を指すのではない。元よりそれとは別の家柄であると云々。

  1. ^ 応仁2年は景友が亡くなった大永4年 (1524年/室町) から数えておよそ 57 年前であり年代が大きく離れている。時代相応に考えると恐らくは頼景の時代である。
  2. ^ 応仁2年は頼景時代の永正 5 年 (1508年/室町 よりおよそ 40 年も前である。頼景よりも前であるのに景友ではないだろう。
  3. ^ 割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。

○景友ノ餘事 此中異説ヲ擧テ以辨ジ並ニキリガ城ノ呼称及遠山家紋ノ事ヲ辨説ス如左

相傳フ當城ハ是レ應仁二年戊子ニ景友築
之ト今謂應仁二年ハ景友卒大永四ヨリ計之凡ソ五十七年前ナ  ※1
リ年序杳ニ阻レリ恐ハ是頼景ノ時世ナルヘシ時代相應ノ故ニ

是異説ナリ今㪅ニ擧テ辨釋之セハ或ガ傳
説スラク遠山城ハ是レ桐加藤司景友築之
始城守ス桐氏ノ人創營スルガ故ニ亦タ
桐ガ城ト称ス曩時一人ノ公卿アリ桐
中将ト名ク事ニ坐セラレテ此國ニ左遷ス
而一日或民家ニ傳ル處ノ山上村吏ガ宅ナルベシ入給フ民家ノ
住居鬱挹取擾シテ貴人ヲ置ニ無地故ニ窻
ノ格子戸是竹ヲ割リ縦横シテ骨トシタル物ナラン農家多ハ用之如圖ヲ外シテ
敷之席トシ座セシム又進食ニ膳具モ整ザ
レバ新シキ椀ノ上ニ箸二本渡シ掛ケ木地
ノ盆ニ居ナドシテ出シ欽仰シテ管待時
ニ卿其ノ致敬ノ厚ヲ感悦有テ云ク我謫所
ノ侘シキニ今厚志ノ饗應ニ遇此悦永ク忘
ルマジ然バ親切ナル饗具ノ象ヲ模シテ自
ノ紋トセン主モ其志厚少縁ノ事ニ非ジ同
是ヲ紋トセヨ若我ガ子孫相續セバ世世是
ヲ家紋トシテ我後チ主ガ家倶ニ其由緒久
キコトノ印トセント堅ク契約アル是レ其
時ノ喜ヲ表スル也而メ後胤景友ノ世築城
ヲ自ラ城守スルニ至ツテ即桐ノ加藤司ト
稱シ又同ク此ニ紋ヲ以テ永ク家ノ印トス
然則遠山ノ城桐ノ加藤司トハ正ク是此人
ニシテ曾テ鎌倉時世ノ加藤次景廉ヲ指ス
ニ非ズ元ヨリ是事家別種ナリ云云

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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