遠山来由記/景友ノ餘事

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当城は応仁 2 年 {{note|(1468年/室町)}} に[[遠山景友|景友]]が築いたとも伝えられている<ref>応仁2年は景友が亡くなった大永4年 {{note|(1524年/室町)}} から数えておよそ 57 年前であり年代が大きく離れている。時代相応に考えると恐らくは[[遠山頼景|頼景]]の時代である。</ref><ref>{{蝿書|応仁2年は頼景時代の永正 5 年 {{note|(1508年/室町}} よりおよそ 40 年も前である。頼景よりも前であるのに景友ではないだろう。}}</ref>。これから述べるのものはその異説である。
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当城は応仁 2 年 {{note|(1468年/室町)}} に[[遠山景友|景友]]が築いたとも伝えられている<ref>応仁2年は景友が亡くなった大永4年 {{note|(1524年/室町)}} から数えておよそ 57 年前であり年代が大きく離れている。時代相応に考えると恐らくは[[遠山頼景|頼景]]の時代である。</ref><ref>{{蝿書|応仁2年は頼景時代の永正 5 年 {{note|(1508年/室町)}} よりおよそ 40 年も前である。頼景よりも前であるのに景友ではないだろう。}}</ref>。これから述べるのものはその異説である。
  
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遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。
 
遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。
  
昔々、桐中将という一人の公卿がおり何かの罪があってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もない。窓の格子戸<ref>割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。</ref>を外して敷きこれを席として座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。
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昔々、桐中将という一人の公卿が居り罪あってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もないため席の代わりに窓の格子戸<ref>割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。</ref>を外して敷き座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。
  
公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もその志厚きことおぼろでなく同じこれを紋せよ。
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公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もその志厚きことおぼろでなく同じこれを紋せよ。もし私の子孫が相続するなら世々これを家紋として私の後に主の家と共にその由緒が久しい事の印としよう、と堅く誓った。これはその時の喜びを表すものである。
もし私の子孫が相続するなら世々これを家紋として私の後に主の家と共にその由緒が久しい事の印としよう、と堅く誓った。
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これはその時の喜びを表すものである。
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その後胤 {{note|(子孫)}} 景友の世に城を築き城守となった時に桐の加藤司と称し、また同じくこの紋を以て永く家の印とした。つまり遠山の城桐の加藤司とはまさにこの人物であって鎌倉時代の加藤次景廉を指すのではない。元よりそれとは別の家柄であると云々。
 
その後胤 {{note|(子孫)}} 景友の世に城を築き城守となった時に桐の加藤司と称し、また同じくこの紋を以て永く家の印とした。つまり遠山の城桐の加藤司とはまさにこの人物であって鎌倉時代の加藤次景廉を指すのではない。元よりそれとは別の家柄であると云々。
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通説ではこの説は甚だ根拠のない話である。言い伝えの公卿が何者であるか、桐氏の名や種姓家系を探してみても該当する人物はいない。これが創作とする第一の理由。また桐氏という公卿が遠山荘に流され住んだという話も諸史で明らかな事ではなく、桐中将が左遷されたという俗説のみが存在するというだけでは証拠にならない。これが創作とする第二の理由。
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景友が本当に桐卿の子孫であるとしても伝来の嗣続のいずれにもその名は一つも出てこず、范としてこれの証拠となる所はない。これが創作とする第三の理由。また年序で考えてみると景友以前には頼景が居る。景友が最初にこの城を築きこの家の元祖としたと言うならば頼景はどういう事であろうか。決して順序を乱してはいけない。これが創作とする第四の理由。
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中世、鎌倉将軍の時代に既に判官景朝が居て遠山荘の領主となった事は前史 (東鑑、承久記等) で明らかである。なぜ景友を始祖とするのか。これが創作とする第五の理由。
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その遠山城における近古の諸録の中に桐城という名目は見あたらない<ref>三河後風土記、信長記、本朝三国誌などでは遠山城または岩村城と書かれている。ただ甲陽軍鑑の中にキリガ城という名が見られるが和字 (仮名) で記されている。いまだ桐ヶ城と書かれているものは見ない。</ref>。何故軽率に桐城の話を作ったのだろうか。思うにこれは桐卿にこじつけて起きたものであろう。これが創作とする第六の理由。
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もし本当に桐卿が居てその家へその姓を継ぐとなれば、諸社の棟札や遠山党自記の中に桐姓または桐城の言葉が出て来るはずであるが、そのような所は一つもない。これが創作とする代七の理由。
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察するに、話の中の桐卿のような宰相中将が遠山荘に囚われた事を錯誤した者が居たのだろう。また民家での歓待については巡り合わせ (偶然) である。あるいはその宰相中将が囚われとなってこの場所に来た時に最初に村吏の家に入ったか。虜人といえども尊貴な人物である。農家も尊んでそのような席を設けそのような膳を提供したことから、中将もその崇敬の誠を感じてその席を席としその膳を膳として暫く休み、慰め悦んだか。
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中将はまたただの人ではない。刑場に臨んで大いに観念し吉兆を感じた<ref>承久記によれば[[w:一条信能|信能]]は都を出てから片時も念仏を怠らず、処刑場に臨んでも浄土の[[dic:讃仏偈|讃偈]]を唱え念仏数十編して斬られたと言われている。年来西方往生を心に係られし験にや紫雲たなびき異臭薫じたと。このため群衆の道俗見聞の男女みなただの人ではないと感じたと。</ref>。このため村吏がこれを追悼し食器の悦を感じ。しかしながら中将の遺意なればと手厚い追慕をもって自らの紋としたのか。
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2010年5月9日 (日) 10:53時点における版

ここでは異説を挙げて霧ヶ城の呼称と遠山家の家紋について左に弁説する。

当城は応仁 2 年 (1468年/室町)景友が築いたとも伝えられている[1][2]。これから述べるのものはその異説である。


遠山城は桐加藤司景友が築いて最初の城守となった。また桐氏が創営する事から桐ヶ城と称する。

昔々、桐中将という一人の公卿が居り罪あってこの国に左遷させられた。ある日、とある民家 (言い伝えによれば山上村吏) に寄った。民家の住まいは汚らしく乱れていて貴人が座れるような場所もないため席の代わりに窓の格子戸[3]を外して敷き座らせた。また食事を勧めるにも食器が整わず、新しい椀の上に箸2本を渡し木地の盆に据えて恭しくもてなした。

公卿はその厚い敬いに感激し、私はわびしい場所に流されたが今親切のこもったもてなしを受けた。この悦びを永く忘れず、親切を受けた食器の形を模して自らの紋としよう。主もその志厚きことおぼろでなく同じこれを紋せよ。もし私の子孫が相続するなら世々これを家紋として私の後に主の家と共にその由緒が久しい事の印としよう、と堅く誓った。これはその時の喜びを表すものである。

その後胤 (子孫) 景友の世に城を築き城守となった時に桐の加藤司と称し、また同じくこの紋を以て永く家の印とした。つまり遠山の城桐の加藤司とはまさにこの人物であって鎌倉時代の加藤次景廉を指すのではない。元よりそれとは別の家柄であると云々。

  1. ^ 応仁2年は景友が亡くなった大永4年 (1524年/室町) から数えておよそ 57 年前であり年代が大きく離れている。時代相応に考えると恐らくは頼景の時代である。
  2. ^ 応仁2年は頼景時代の永正 5 年 (1508年/室町) よりおよそ 40 年も前である。頼景よりも前であるのに景友ではないだろう。
  3. ^ 割った竹を縦横に骨として張ったものである。農家の多くはこれを使用していた。図参照。

○景友ノ餘事 此中異説ヲ擧テ以辨ジ並ニキリガ城ノ呼称及遠山家紋ノ事ヲ辨説ス如左

相傳フ當城ハ是レ應仁二年戊子ニ景友築
之ト今謂應仁二年ハ景友卒大永四ヨリ計之凡ソ五十七年前ナ  ※1
リ年序杳ニ阻レリ恐ハ是頼景ノ時世ナルヘシ時代相應ノ故ニ

是異説ナリ今㪅ニ擧テ辨釋之セハ或ガ傳
説スラク遠山城ハ是レ桐加藤司景友築之
始城守ス桐氏ノ人創營スルガ故ニ亦タ
桐ガ城ト称ス曩時一人ノ公卿アリ桐
中将ト名ク事ニ坐セラレテ此國ニ左遷ス
而一日或民家ニ傳ル處ノ山上村吏ガ宅ナルベシ入給フ民家ノ
住居鬱挹取擾シテ貴人ヲ置ニ無地故ニ窻
ノ格子戸是竹ヲ割リ縦横シテ骨トシタル物ナラン農家多ハ用之如圖ヲ外シテ
敷之席トシ座セシム又進食ニ膳具モ整ザ
レバ新シキ椀ノ上ニ箸二本渡シ掛ケ木地
ノ盆ニ居ナドシテ出シ欽仰シテ管待時
ニ卿其ノ致敬ノ厚ヲ感悦有テ云ク我謫所
ノ侘シキニ今厚志ノ饗應ニ遇此悦永ク忘
ルマジ然バ親切ナル饗具ノ象ヲ模シテ自
ノ紋トセン主モ其志厚少縁ノ事ニ非ジ同
是ヲ紋トセヨ若我ガ子孫相續セバ世世是
ヲ家紋トシテ我後チ主ガ家倶ニ其由緒久
キコトノ印トセント堅ク契約アル是レ其
時ノ喜ヲ表スル也而メ後胤景友ノ世築城
ヲ自ラ城守スルニ至ツテ即桐ノ加藤司ト
稱シ又同ク此ニ紋ヲ以テ永ク家ノ印トス
然則遠山ノ城桐ノ加藤司トハ正ク是此人
ニシテ曾テ鎌倉時世ノ加藤次景廉ヲ指ス
ニ非ズ元ヨリ是事家別種ナリ云云

通説ではこの説は甚だ根拠のない話である。言い伝えの公卿が何者であるか、桐氏の名や種姓家系を探してみても該当する人物はいない。これが創作とする第一の理由。また桐氏という公卿が遠山荘に流され住んだという話も諸史で明らかな事ではなく、桐中将が左遷されたという俗説のみが存在するというだけでは証拠にならない。これが創作とする第二の理由。

景友が本当に桐卿の子孫であるとしても伝来の嗣続のいずれにもその名は一つも出てこず、范としてこれの証拠となる所はない。これが創作とする第三の理由。また年序で考えてみると景友以前には頼景が居る。景友が最初にこの城を築きこの家の元祖としたと言うならば頼景はどういう事であろうか。決して順序を乱してはいけない。これが創作とする第四の理由。

中世、鎌倉将軍の時代に既に判官景朝が居て遠山荘の領主となった事は前史 (東鑑、承久記等) で明らかである。なぜ景友を始祖とするのか。これが創作とする第五の理由。

その遠山城における近古の諸録の中に桐城という名目は見あたらない[1]。何故軽率に桐城の話を作ったのだろうか。思うにこれは桐卿にこじつけて起きたものであろう。これが創作とする第六の理由。

もし本当に桐卿が居てその家へその姓を継ぐとなれば、諸社の棟札や遠山党自記の中に桐姓または桐城の言葉が出て来るはずであるが、そのような所は一つもない。これが創作とする代七の理由。

察するに、話の中の桐卿のような宰相中将が遠山荘に囚われた事を錯誤した者が居たのだろう。また民家での歓待については巡り合わせ (偶然) である。あるいはその宰相中将が囚われとなってこの場所に来た時に最初に村吏の家に入ったか。虜人といえども尊貴な人物である。農家も尊んでそのような席を設けそのような膳を提供したことから、中将もその崇敬の誠を感じてその席を席としその膳を膳として暫く休み、慰め悦んだか。


中将はまたただの人ではない。刑場に臨んで大いに観念し吉兆を感じた[2]。このため村吏がこれを追悼し食器の悦を感じ。しかしながら中将の遺意なればと手厚い追慕をもって自らの紋としたのか。

  1. ^ 三河後風土記、信長記、本朝三国誌などでは遠山城または岩村城と書かれている。ただ甲陽軍鑑の中にキリガ城という名が見られるが和字 (仮名) で記されている。いまだ桐ヶ城と書かれているものは見ない。
  2. ^ 承久記によれば信能は都を出てから片時も念仏を怠らず、処刑場に臨んでも浄土の讃偈を唱え念仏数十編して斬られたと言われている。年来西方往生を心に係られし験にや紫雲たなびき異臭薫じたと。このため群衆の道俗見聞の男女みなただの人ではないと感じたと。
書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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