遠山来由記/遠山分家

提供:安岐郷誌
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苗木の家系は明らかではない。この家の仲間に尋ねてみたがつぶさに知っている者は居なかった。ただ家康公時代の遠山久兵衛友政以降でようやく家系の連続が見られる。ここではその友政以降を挙げて家の系譜を著す。それより前は 2, 3 の名を出すが連続が不確かであるため仮に挙げて批評するのみとする。

○苗木家之傳
苗木ノ家系分明ナラズ彼家ノ徒ニ尋ルニ
具ニ知ル人無シ但タ近古家康公時代ノ遠
山久兵衛友政以來家系ノ連續漸ニシテ覩
ユ今ハ其友政以來ヲ擧テ家ノ譜系ヲ著ス
也其ヨリ以前ハ二三ノ名ヲ出スト雖モ連
續慥ナラザル故ニ且ク擧テ評批スルノミ

これには二説あり、一説には:

左近
(実名も時代も不明) 加藤次景廉の遠い子孫 (苗木に居城) という。
友政
右衛門佐。苗木城守左近佐が病死し跡取りがいなかったため、親族であった友勝が同国飯羽間城から移って家督を相続した。飯羽間城守は友勝の嫡子の友忠としたといわれている (時代は不明)。
また友忠は飯羽間の城を嫡子の右衛門佐友信に譲り友忠自身は明照(アテラ)城に移り住む云々ともいう。
友政
友勝の三男。

是ニ二説有リ 一説ニ

○左近 實名未知時代亦不詳加藤次景廉ノ遠裔苗木居城

○友勝 右衛門佐 苗木主左近佐病卒シ
テ子息無キニ就テ友勝其ノ親族タル故ニ
同國飯場城ヨリ徙テ家督相續ス飯場ハ友
勝ノ嫡友忠城守スト伝時代今タ詳ナラス
又云後友忠ハ飯場城ヲ嫡右衛門佐友信ニ
讓リ自ラ友忠ハ明照城ニ徙住スト云云

○友政 友勝ノ三男

また一説には:

遠山左衛門尉景村
足利将軍尊氏時代 (1305-1358年頃/鎌倉) の人で苗木城に住んだと言われている。
苗木城は近古に地を移した。現在の高森の城がこれである。古城はただ痕跡のみが残っている。現在苗木と称しているのは福岡村である。現在の城を去ること一里ばかりの村に遍光寺という寺がある。これが古城の跡だと云われている。
ここで言う景村が尊氏時代の人であるという証拠はない。もし尊氏時代であるなら安芸守景忠である。伝え聞きの浮説は取るに足らない。思うに景村は鎌倉時代の景朝であろう。今混濫する事必せり前に述べたとおりである。つまり景村は尊氏時代の人ではなく、また苗木に住んだ人でもなく、これはただ伝説の誤りである。ただ苗木家の遠い祖先という可能性は否定できない。
遠山雲入
現在の高森城はこの人が築いたと言われている (時代未詳)。
遠山勘太郎
後に豊前守を号する。織田信長の奥方の甥という。飛騨国の三木監物某によって殺されたと言われる (雑記)。[1]
  1. ^ 雑記に書かれている説を今考えてみると、勘太郎が織田信長の奥方の甥とは未詳である。これは恐らく信秀の奥方の甥である。よって信秀はその娘を勘太郎に娶らせたのだろう。更に考えよ。

 又一説ニ

○遠山左衛門尉景村 足利将軍尊氏時代
ノ人苗木城ニ住ト云苗木城ハ近古地ヲ移ス今ノ高森ノ
城是ナリ古城ハ但タ蹤蹟ノミ在リ
今上苗木ト称ス是即チ福岡村ナリ今城ヲ去コト一里計
リ村ニ寺有リ遍光寺ト名ク是古城ノ跡也ト云フ
今謂景村ハ尊氏時代ノ人ト云ウ事所據ナシ若尊氏ノ時世ト云ハ安藝
守景忠ナリ傳聞ノ浮説取ニ足ラズ思フニ景村ハ鎌倉時世ノ景朝也
今混濫スル事必セリ前ニ辨スルガ如シ尓レハ景村ハ尊氏時代ノ人
ニ非ス又苗木ニ住スル人ニ非ズ是但タ傳説ノ誤ト知ルベシ但シ苗
木家ノ遠祖トス
ル義ハ無妨ノミ

○遠山雲入 當高森城ハ斯人築之ト云時代未詳

○遠山勘太郎 後号豊前守
織田信長室ノ甥也ト飛州三木監物某ガ為亡サルト云フ雑記 ※1

雑記ノ説ノ如キ今推議スル勘太郎ハ織田信長室甥也トは未詳是恐ハ信秀室ノ甥ナルヘシ因テ信秀其女以テ勘太郎ニ娶スナラン更ニ考ヨ

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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