遠山来由記/遠山氏

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:三郎と号す 從五位下左衛門尉
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東鑑三十一、嘉禎3年 (4月23日) 記に将軍 (頼経) 左京権大夫の亭に入り給う。その供奉である (また所々で出る)。
  
 
==景經==
 
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2010年5月14日 (金) 15:25時点における版

目次

景朝

景廉嫡男 初め太郎と号す 遠山左衛門尉 検非違使従五位下 遠山判官 大蔵小舗

承久3年 (1221年/鎌倉)、関東 (鎌倉幕府) の執事が天子の考えと異なることがあり、上皇は逆鱗の余り右京兆 (北条義時) 誅伐の宣旨を下した[1][2] (承久の乱)。このため公家と武家が大いに騒乱して関東の大兵が撃って京を目指し所々で合戦。官軍は遂に討ち負けて東兵都 (東寺?) に入った (上皇らは配流、公卿の多くは誅せられた[3][4])。同6月下旬、乱の張本人である公卿を選んで六波羅に渡された。この中の一条宰相中将信能の身を遠山左衛門尉景朝が預かった。同7月5日、中将信能は美濃国遠山荘に到着しその場で直ぐに首を刎ねられた (俗伝によれば首はその刑場に埋め一祠を建てて霊を祭ったと。今の相原八幡の祠 (岩村神社) であるという)。

以上は東鑑(二十五)に略出している (詳細は本文および承久記参照)。この説から景朝が遠山の領主であることが最も明らかである。

後に景朝は美濃国遠山の城で死去。武並山に遺骸を納め社を建てて祭る。諡して武並大権現と称する (これは記伝の説である。ただし幾つかは景村とも書かれている)。景朝の一生は徃徃に明らかであるが誕生と死去の年月は未だに分かっていない。

考えてみると東鑑(十七)建仁3年 (1203年/鎌倉) 9月2日の記に比企判官義員と北条時政とで紛争があったとき、北条の属兵に列せられている中に加藤次郎景廉、同太郎景朝という名がある。この時景朝は既に列在していた。この名が記されている始終は建仁3年から建長5年 (1253年/鎌倉) に至るまでで年序およそ51年である。建長5年正月2日の記より後は景朝の名が絶えている。これから景朝は建長5年以後に死去したものであろう。

ただし東鑑(二十八)では宝治元年 (1247年/鎌倉) 11月23日に從五位上行伊豆守藤原朝臣尚景死(歳25)大夫尉景廉男也という。これはつまり景朝と記されているものには実際には景朝でないものもあるという事が分かる。景朝は既に承久3年の騒乱時には実在し遠山領主であった。この尚景は宝治元年から遡って数えると (25歳ならば貞應2年 (1223年/鎌倉) 誕生に当たる) 承久3年では生まれる前である (また景廉は承久3年に死去したが死後2、3年を経て子を生ずることがあるだろうか)。

景朝を伊豆守と名乗るのは未だに一所として見た事がない。また既に尚景というのは多分景朝を指しているのではないだろうか。東鑑は徃徃に河津八郎左衛門尉尚景という者が居るが異家別種である。

さらにまた景朝は宝治以来所々に名を列している。直に元治元年12月の記に遠山大蔵小輔とあり、また建長5年の記に正月椀飯中に名を列しており遠山大蔵小輔景朝と分明に記されている。この他にも徃徃に列名があり逐一記す事は出来ない。つまり景朝が尚景という人物であることは決してない。また遠山荘の言い伝えでは景朝は行年45歳で死去、宝治元年なりと記されている。これはこの東鑑の尚景の事を指しているのである。遠山荘の伝えは用いるに足らない。しかれども東鑑にまさしく景廉男と書かれているのは、景朝、景義の他に尚景という子息が居たのか、また鑑文の間違いなのか分からない。

  1. ^ 実は後鳥羽上皇お一人の憤りで天子はこれに従っただけである。詳細は東鑑および承久記。
  2. ^ 右京兆とは右京権大夫兼陸奥守平義時。
  3. ^ 一院八十二後鳥羽院上皇(御父)は隠岐国へ遷流、中の院八十三土御門院(御嫡)は土佐国へ、新院八十四順徳院(第三子)は佐渡国へ。これらは承久の君である。在位十一年御年二十五にして廃帝とならせ給う。
  4. ^ 張本の公卿六人とは光親、宗行、有雅範茂、忠信、信能である。この中の大納言忠信だけが故あって死罪を許され遠流となった。

景義

景廉二男 七郎左衛門尉

嘉禎元年 (1235年/鎌倉) 8月21日、将軍(藤原頼経)の館庁において加藤七郎左衛門景義と兄加藤判官景朝とが伊豆国狩野荘内の牧之郷地頭を争って一決をとり (兄は南座、弟は北座)、この公事は景義の負けとなった。東鑑三十に詳細。

光資

加藤太光員男 兵衛尉 後に加藤新左衛門尉と号す

建保6年 (1218年/鎌倉) 9月、山徒が強訴を企て日吉、祇園、北野の神輿を振り立て閑院殿の陣頭に押し寄せた。在京の武士が宮門に支えこれを防いだ。その中に加藤兵衛光資が八王子の駕輿丁の男の腕を斬り落とし神輿を汚穢せしめたと云々。東鑑二十三の通り。

また東鑑では以下の如く徃徃に加藤家の人名を列す。

景長

加藤左衛門尉 新左衛門尉 六郎兵衛尉

東鑑二十六、将軍頼経公 (時嘉六歳) 代の貞応2年 (1223年/鎌倉) 10月13日の記で詰番の中に第五加藤六郎兵衛尉。

景廣

加藤右衛門尉

東鑑二十二、建保2年 (1214年/鎌倉) 7月27日大倉大慈寺供養。将軍実朝公の参拝あり。供奉調度掛は加藤新左衛門尉景長。後騎の中に加藤右衛門尉景廣 (同時列在せり)。

景俊

加藤左衛門三郎

東鑑二十六、貞応3年 (1224年/鎌倉) 正月1日の記に椀飯 (頼経公が七歳の時)。四の御馬 (加藤六郎兵衛尉景長、同左衛門三郎景俊)。

この記から推測すると景俊は景長の舎弟または息子であろうか。これで始めて左衛門三郎の名があるためにまたこの景俊は行景、景経らの祖父かもしれない。もしそうなら以下に出す行景、景経らはその子孫である。更に調べる必要がある。

行景

三郎と号す 從五位下左衛門尉

東鑑三十一、嘉禎3年 (4月23日) 記に将軍 (頼経) 左京権大夫の亭に入り給う。その供奉である (また所々で出る)。

景經

𣳾經

景綱

伊勢加藤左衛門尉

景前

遠山左衛門尉
景友の嫡男という

城内の神社に棟札が残っている。

奉造立八幡宮社頭一宇 遷宮師 法師 良辯
 大檀主遠山左衛門尉景前 敬白
 天門十六年丁未霜月十日 棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教

法名

景前院殿前左金吾前宗護大禪定門 神儀
 弘治二年丙辰七月十三日

三河風土記(5)を調べてみると、文亀元年徳川長親公が北条早雲と戦った時の軍列に遠山左衛門尉景前が居る。しかし文亀元年は景前の天文16年から計ると47年前、また卒年弘治2年から56年前であり年が大きく離れていることから詳しくない。文亀年間はもっぱら頼景の年代であることから、長親公の軍に従ったものとは頼景であろう。それを記した文が恐らくその名を間違えたものと想われる。

是景友ノ嫡男ナリト云フ

 ○城内之神祠ニ棟札有リ
奉造立八幡宮社頭一宇 遷宮師 法師 良辯
 大檀主遠山左衛門尉景前 敬白
 天門十六年丁未霜月十日 棟梁大工 熱田宮住人粟田源四郎守次 三郎右衛門宗教

 ○法名
景前院殿前左金吾前宗護大禪定門 神儀
 弘治二年丙辰七月十三日

参河後風土記ヲ閲スルニ文亀元年辛酉年徳
川長親公北條早雲ト對戰ノ時遠山左衛門 ※1
尉景前軍列ノ中ニ在リ 今議ス文亀元年
ハ景前現在天文十六ヨリ計ルニ四十七年
以前亦卒年弘治二ヨリ計ルニ五十六年前
也年序相距コト遠シ故ニ未詳也按スルニ
文亀年間ハ専ラ頼景ノ時世ナリ然レハ長
親公ノ軍ニ從フ者ハ是頼景ナルヘシ記ノ
文恐ハ其名ヲ差フ耳想焉

※1 北条早雲 伊勢神九郎氏茂ト云関東北条家ノ元祖也北条五代記等ヲ見ヨ


書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは遠山来由記を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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