巖邑府誌/安岐

提供:安岐郷誌
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阿木または案木と言うが本書は和名抄に因んで安岐とする。

安岐 作阿木又作案木茲因倭名集更安岐

目次

安岐

○安岐は城府の北 6〜7 里 (約3.2~3.8km) にあり東に高くそびえる恵那岳に接している。北から西にかけては飯狭(いいはざま)飯妻(いいづま)東之井(とうのい)との境界を持つ。安岐並びに属村の戸数は三百六十余り。この土地はよく肥えていて貢税は二千余石にもとどく。貢賦は中の上。加えて山林が豊かで村民は食には困らない。

十余の部落からなり [東之井道路沿い] 福岡 (幸神)、田中、橋場 (橋の先後)、寺領 (田中と寺領の間には川が通り橋がある)、野内、赤坂、[道路の西側] 本城 (現在の本庄)、野田、見沢、宮田、樟田、八屋戸 (昔は砥石が出ていたと伝う)、[道路の東側] 青野 (青野は東之井道路 (岩村街道) の西側) (西北の辺鄙で狭い地)、黒田、領天神 (現在の両伝寺)、真原、天嶺際 (現在の大根木)、藤上が存在する。また大野、川上は別の村として存在する。

川の水は村の上の山を水源とし、東の山から出でて西へ流れ、青野に至り飯狭川と合流し、無花山を廻って東之井へ出でて木曽川に入る。川には鯇子(あめのうお) (アマゴ) が多く、また斑点を持つ泥鰌もいる。俗に味女(あじめ)泥鰌と言い秋葉月(あきはづき) (7月) に食すと美味で良い。

○安岐在城府北六七里東山高聳接于惠 ※1
嶽飯狭飯妻東之井為西北疆其土埴墳多
膏腴之田貢税充二千餘石貢賦為中之上
且饒山村民食不乏分十餘部落曰福岡又名
幸神
曰田中曰寺領河水過田中寺領之間有橋梁曰野内曰 ※2
赤坂以上在東之井道路曰本城今作本庄曰野田曰見澤
曰宮田曰樟田曰八屋戸以上在道路西曰青野在西 ※3
北僻陋之地 
曰黒田曰領天神今作両傳寺 曰<img alt="真" class="letter" src="../letter/choku.png" title="真"/>原曰
天嶺際今作大根木 曰藤上以上在道路東又有大野河
上為別村其水出自東山而西流水源出於上村山 
至青野与飯狭水合遶無花山下出于東之
井而北入岐蘇河水中多鯇子又有土鰌斑
點者秋初可食味佳俗目阿慈鳴

※1 安岐並属邑民戸都三百六十餘 / ※2 橋梁先後之地曰橋場 / ※3 傳云八屋戸古出砥石今無之

幸神

○福岡の道ばたには幸神の祠がある (現在の塞之神神社)。思うに道祖神であろう。夫婦の共寝を祀ることから俗に妻神とも言う。

昔、上毛野国(かみつけぬのくに)安中(あんなか) (現在の群馬県安中市) の者が官命で上京し何年も帰らなかった。ある時、命を受けて安中に戻ると家財は全て盗人に盗られており召使いの子たちも離散していた。

盗人たちは娘の美しいことで手込めにしようとしたが、娘は盗人を騙して逃げ延び、岩村府にたどり着いて粗末な小屋を仮住まいとしていた。城府のテンプレート:Gps (藍原ともいう) がそこである。ある若者が小屋の中を覗くとその娘の美しさに一目惚れしてしまった。娘もまた心動いて夫婦の契りを交わした。

故郷での名前を全て聞いて女は驚いた。あなたは官命で遠地に行った兄ではないかと。若者は恥じ入って赤面した。久しく離れて暮らしていたために兄妹は互いの顔が分からなかったのであろう。しかし時既に遅し。私たちは禽獣だ、もう人前には出られないと二人は頷き、互いに自害した。

里人はこれを哀れんで合葬し、廟を建てて祀ったと伝う。安中の土や石を定める参拝者が居た。神がこの土や石を見て故郷を懐かしんで喜び、願い事が必ず叶うと伝う。

この話が伝えたいのは兄妹の情を哀れむべしといったところだが徒死は無益であろう。道に背いて契りを交わしてしまった罪が消える事はない。よく言うように若気の至りで知れば良く死するのはふさわしくない。淫祠を論ずるなら良かろうが、廟内に歓喜天像を置くのは猥褻極まりない。どこの妖僧が作った物か分かったものではない。くだらないく不分別である。

調べてみると天文の頃 (1532-1554年/室町) に毛野の二州 (現在の群馬県と栃木県) が戦場となっていることから、戦火を避け逃げ延びた安中の豪族がここに居て神を祀ったのであろう (上杉憲政と北条の戦)。現在安中に幸神祠跡があるのはこれである。寛文 17 年[1]に岩村藩主丹羽氏信侯が祠を建てて清宝院の尼がこれを祀り今に至る。

○幸神祠在福岡道路傍葢祭道祖神也俗
名妻神以禱夫婦之合歓其説曰昔者上毛
野安中人宦游于上京年久不還會冠入安
中其家財為盗所掠僮僕離散盗見一女子
美色浴奸之女誘盗而逃去至於巖邑府假
宿千草舎城府有地名合原是也 舎中見一少年姿度 ※1
不凢目逆通情微言桃之女亦心動遂為燕
々于飛之契迨悉語里居姓字女驚曰君非
宦游之兄耶少年赧然而愧葢以索居之久
而兄妹不互認面貌也既而二人相謂曰我
儕之禽獣無復見人之面目相與自刃於此
里人憐而合葬焉又建廟祭之伝賽者有奠
安中之土石者曰神懐故郷見其土石而喜
祈請必得驗若夫所傳則其情雖可憐而徒
死無益至野合乱倫之罪則不可末滅所謂
匹夫匹婦経溝瀆而莫知者也論為淫祀可
矣若廟中置観喜天像則誨媱傷俗不知妖
僧何時而作之妄矣醜矣按天文之頃関東
大乱毛野二州為戎馬之衢想安中貴族避
乱居於此者徒祭其神於此也即今安中有
幸神祠蹟是也寛文十七年侯氏信造営舊
祠巫僧清寳院奉其祀而至於今

※1 合原又作藍原

  1. ^ 寛文は 13 年まで。丹羽氏信の年代や角川日本地名大辞典などの記述と合わせると寛永17年 (1640年) と思われる。

大通山長楽寺

大通山長楽寺は天嶺際 (現在の大根木) にある (この地は高嶺の下に接することから天嶺は高嶺の名による)。俗に行事岳と呼ばれるのはこの高嶺である。天台僧の三蹄が開山し、古くは堂閣、楼門、十二属坊があったが兵火で焼け落ちたと言い伝えられる。現在地名に某坊とあるのは属坊の跡である。

地理をよく見ると土地が狭くて多くの堂閣は建てられないだろう。この場所に古くからあった属坊が廃れたあとに長楽寺をここに移したのだろうか。長楽寺の以前の位置が何処だったのかは分からない。現在の寺には観音像が安置されている。これは古寺の遺物であろう。また寺に各務氏附田の札 (森氏時代の城代 各務兵庫助元正か?) があり村の中には寺領という地名がある。

寛永 11 年 (1634年/江戸初期) には寺領に賀雲山万岳寺が建った[1]。代々曹洞宗の和尚を置き盛厳寺に属している。多分長楽寺の跡地を引き継いだのだろう。

僧史を調べると上毛野の長楽寺 (現在の群馬県太田市世良田町)天台密教に通じた釈円房栄朝上人という者がいる。盛揚真化、宝治元年 (1247年/鎌倉) に没したという。鎌倉幕府の全盛期である。これはつまり長楽寺は元々は上毛野にあって、幸神と同じ者がここに移したという事だろうか。

○大通山長樂寺在天嶺際其地接于高嶺下故名焉高嶺
即俗呼行事嶺者是也 
傳言天台僧三蹄者為開基古
有堂閣門樓曁属坊十二罹兵災而亡即今
田間有地名某坊者乃属坊之趾也熟観地
理狹隘不可許多之堂閣疑此地舊有属坊
而廢後徒建長樂寺於此弞長樂寺故地未
審為何處也即今寺中安置観音佛蓋古寺
之遺物也又寺内有各務氏附田之券而邑
中有地名寺領寛永十一年建賀雲山萬岳
寺於寺領世置曹洞宗和尚属于盛厳寺蓋
以長樂寺舊蹟也弞按僧史曰釋榮朝粹于密学居于上毛野長樂
寺盛揚真化以宝治元年而死其時當鎌倉氏之全盛也然則長樂寺舊寺舊在上毛野而
同幸神徙于此者弞

  1. ^ 万岳寺の建立は慶安3年 (1650年/江戸初期)。寛永11年とは飯沼禅林寺再建との混同と思われる。

城山跡

城山跡は本城 (本庄) の西にある。里人によれば昔は大藤権允という人が城を守っており、かつて打杭山で岩村兵と共に戦ったと云われているがいつの事であるかは分からない。また堀田某という者が城を守っており、現在も堀田という地名があり見澤殿という邸舎の跡もある。調べてみると遠山子城の一つに振田というものがある。堀田と読みが近いためこれは安岐城を指したものだろうか。

邸の壁跡は現在でも残っている。農民がここを耕すと矛先ややじり、酒などを入れる瓶の破片などが掘り出される。また八屋戸 (八屋砥) の土地から銭をまとめる紐も見付かっている。

城跡の南の鬱蒼とした森の中には八幡神社が祀られている。これは見沢社とも呼ばれ武並神が祀られているという。田畑の中に高さ数(じん) (諸説有り1仞は2.4〜1.7m) の鳥居があるようだが、現在見沢と言われているところは古い壇場だったのではないだろうか。もしそうなら、俗に廟社を指して宮と言うが見沢は宮沢の訛りであろう。

○野田の村山にもまた砦跡がある。

○城山墟在本城西俚人曰昔者大藤権允
者守焉甞与巖邑兵戦于椓橛山未審為何
時之事也又曰掘田某者守焉呼曰見澤殿
即今有地名堀田乃邸舎之趾也按遠山子
城有振田者与堀田國訓相近疑指此弞塁
壁之趾至今猶在田夫耕其地出鋒鏑瓦缶
之類又耕八屋戸之地得古字銭若于緡又城墟南山祭八幡
神社樹鬱蒼此謂見澤社 或曰祭武並神也田間
有石華表高數仭者疑今称見澤者蓋古壇
未定義文字 土単.png國俗指廟社曰宮然則見澤乃宮澤之訛也○野田邑山亦有砦趾

天神廟

○天神廟の一つが宮田の鬱蒼とした森の中にある。もう一つは黒田である。現在領天神と言われるのは昔の屯倉(みやけ)の名残であろう (説は前述)。その他の神祠は弱王子 (若王子) (田中)、三嶋神 (野田)、大沢社 (藤上)、熊野神 (真原) である。

○天神廟一在宮田社樹岺欝一在黒田今
称領天神者疑古屯倉遺趾也説見于前其餘神
祠曰弱王子在田中 曰三嶋神在野田 曰大澤社
在藤上曰熊野神在真原

風窟

○真原の山に常に風が吹き出ている風窟(かざあな)がある。里人は暴風による農作物の被害を免れると云い夏になると祭りを執り行う。またその風窟に石を投げる者が居ればたちまち暴風が起きその者も難に遭うと云う。多分に愚かな田舎者の言であろう。

風窟の上に牧平原 (槇平(まきだいら)) と呼ばれる中平原がある。かつて村民がここの開拓を試みたがやせて穀物が育たず今は杉林となっている。

○風窟在真原山巖窟中毎生飄風季夏日 ※1
民祭之曰除暴風傷禾之難或有投石於窟
中者則暴風忽起其人亦遘難可謂齊東野
人之事也

※1 風窟上有称牧平原中平原者村民試墾之上薄不生穀今廃爲椙林

龍泉寺

龍泉寺は行事岳と呼ばれる村の東の高山の北山の上にある。補陀山龍泉寺という號の一草堂に観音像を 安置しており仲春の初午に祭っている。住職は居らず現在は清宝院の尼が仮で寺務を執り行っている。この草堂は 寛永 17 年に岩村藩主丹羽氏信侯が再建したものである。草堂の傍らには神祠があり、また血洗池と 呼ばれる池がある。


竜泉寺の西の麓には広く原野があり、その土地はやせている。ここの人の住む村は大野という名である (現在は大野と広阜(ひろおか)の二地域となっている)。 この地は阿木の東境に接しており全て阿木の部落である。


北野大智寺テンプレート:Gpsの 桃翁が東濃大野大禅寺の南陔兄に贈った詩がある。

山中冝棲白雲身
露井秋風憶古人

寺下灘声居リテ
安禅応ン三龍神

この序によれば東濃大野村の吉祥山大禅寺とは峰翁祖一(ほうおうそいつ)禅師 開山の道場である (祖一については[daienji.xhtml大円寺記]参照)。山や川がこの傍らを巡り、 何より灘声(たんせい) (急流の響き) がやかましい。あるとき一人の老翁が説法を聞きに訪れた折りに 師は灘声が疎ましいと告げた。翁は私の力でこれを移して見せようと言った。師はにわかには信じられなかったのだが、 しばらくすると雷鳴が轟き始め翁は竜となり井戸に消えた。その中から雲がわき起こり大雨が三日続いて山河は水で 満たされ、そしてその急流は三里 (1.6km) ほど遠くに移動したと云う。 この事から祠を建てて竜を祭り、昔から水無明神と呼ばれている。今でも大野村に井戸がないのはこのためだと。


桃翁も南陔もいつの人間か分からないが、思うに勝国以前の人物であろう。この伝承は竜泉と称するのに十分な 根拠である。多分に水無明神は山頂の神祠、竜が消えた露天の井戸はその傍らの池であろう。 大野には井戸が無く村民が皆川の水を酌んでいるのは今なおそのようである。

○龍泉寺邑東高山名行事嶽々北山上有
一草堂號補陀山龍泉寺安置観音佛仲春
初午祭之無常住之僧而巫僧清寶院 権掌寺
務寛永十七年侯氏信更作草堂其傍有神
祠又有池水俗名血洗池 其西麓原野嚝而多不

毛之地邑焉者名大野今分為大野廣阜二部 地接于
安岐東堺皆為安岐部落項得北野大智寺桃翁贈
東濃大野大禅時南陔兄詩曰山中冝棲白
雲身露井秋風憶古人寺下灘声居自聴安
禅應永嘱龍神其序曰東濃大野邑吉祥山
大禅寺乃峰翁祖一禅師開闕之道場也祖一

見大圓寺記 山川遶其傍灘声最喧會有一老翁
来聴法師告以厭灘声翁曰我力能徙之師
未信之爲間雷聲一発翁忽化竜入露井井
中雲起大雨三日山河水漲徙轉其灘於下
流三里程於是建祠祭龍因名水無明神至
今大野一邑無井水此之縁也桃翁南陔未
審其時想勝國以前之人也今以此證之則
龍泉名義殆有據也水無明神盖山上之神

祠龍化之露井某傍之池水也而大野邑民
皆汋溪水殊無井水今猶然

右衛門平

右衛門平(うえもんだいら) (右ヱ門平) は大野の原にある。言い伝えによれば落ちぶれた 遠山右衛門佐(うえもんのすけ)が この地に居たとの事である。飯狭右衛門佐信次 (織田信次) が 捕らえられた後にここに隠れ住んだのだろうか。その傍らには右衛門が馬を飼っていたと伝わる 牧野原という名の地がある。

○右衛門平原在大野原中傳言遠山右衛
門佐者落魄居焉乃飯狭信次所擒之後蟄
於此弞其傍有地名牧野原或言右衛門牧
場於此也

川上村

○川上村は龍泉の東の麓にある。村の三分の一が安岐に属しており我が領地である (残りは皆尾張領)。 この番茶は美味である。この地は恵那岳に最も近く和名抄に載っている 淡気(たむけ)ではないだろうか (竹ノ腰と呼ばれる地が存在するがこちらが昔の淡気ではないだろうか)

○河上邑在龍泉東麓以其邑三分之一属
于安岐而爲我領其餘皆領于尾張 茶茗最佳其地
最接于惠嶽疑倭名集<img alt="[耳偏にケ]" class="letter" src="../letter/sho.png" title="耳ケ"/>載之淡氣者弞 ※1

※1 今有称竹腰地疑即古之淡氣


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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