巖邑府誌/城府
城府
目次 |
岩村府
○岩村府は水晶峰の西に位置する。高い嶺を利用して城郭を構成している。恵那山から西南に三十里余り。楼台は樹梢に懸かり門扉は断崖に臨んでいる。険しい坂は羊の腸のように曲がりくねっており、藤葛は龍がとぐろを巻いているかのようである (これを藤坂という)。岩村という名前はその要塞の岩が険しい意味を取り、左氏伝で「制は岩村なり」と言ったのに倣っている。
平尾徳卿に霧ヶ城に登った詩がある。
霧裏城 樓 聳 え
山勢 波瀾 に似る
逢う毎に 風雨変り
恰 も滄溟 看を作 す
もし一人でこの城を守ったとしても万の敵と対峙できる程の険しさである。一名に霧ヶ城と名が付いているのは山谷の霧が深く山林の霞も晴れにくいことからである。つまり遠山氏の古城名である。里老の話によれば、もし近くに攻め込む敵がいれば雲や霧が城を閉ざし、電閃雷轟、天色黒暗、足下すらよく見えない。城兵はこの混乱に乗じて戦えば敵をたくさん捕らえられ、または迷って道を踏み外し何もしないで捕らえる者もいる。山霊の仕業ということである。
この話が本当ならば代々の城主は枕を高くでき、守るのに恐れはなく、百代を継ぎ入れ替わりもないだろう。しかし天正、慶長の間の僅か三十年に何度も替わってしまっている。合戦が相次ぎ五姓 (遠山、秋山、河尻、森、田丸、松平の六姓か) が入れ替わったのに信じられるだろうか。国を治める道理は徳であって城山の険しさではない。もし強固な城山に頼って徳を修めなければ伊闕や孟門でもなしえなかっただろう。
○巖邑府在水晶峰西畵高嶺為城郭距惠 ※1
嶽西南三十餘里樓䑓懸於樹梢門<img src="../letter/hi.png" class="letter" alt="[阝卑]"/>臨於
断崖峻坂如羊腸藤葛以龍蟠其伝藤坂命名巖
邑者取其要害厳險之義如左氏傳曰制巖
邑是也苟一夫守之殆可敵萬夫之險也一
名霧城者以山谷霧深林霏難披乃遠山氏
古城名也俚老敷衍為説曰若有鄰敵来冦
者則雲霧鎖城電閃雷軣天色黒暗咫尺不
辨城兵乗其擾乱而縱撃則大獲或有迷而
失道拱手就縛者殆如山霊所為也其説果
而然則世主當高枕坐保無虞百世承統無
相替然天正慶長之間相距僅垂三十年而
于戈相踵頻易五姓者何信哉治國之道則
在徳不在險苟如恃險而不修徳則伊闕孟
門不足為之固也若※1 平尾徳卿有登霧城詩 霧裏城樓聳山勢似波瀾毎逢風雨変恰作滄溟看
花が咲き始めは遅く、涼しい風が暑さを吹き、紅葉が錦を織り、骨に浸みるような酷寒が城の四季である。この地の田は早くに耕しても実るのが遅く肥えた土地は少ない。また魚や塩を南の海に頼っており海鮮品が少ない。
小川は城山を出て市街を廻り西の郊原に注いでいる。この水は清らかだが魚は居ない。城東の川には
漉紙敷の品は質がよい。薬品には
城主は小寒の季節 (1月5日頃) になると農耕兵を出して狩りを行いキジやウサギを生け捕りする。これらを東都に献上するのが古くからの習わしである。昔の人が農閑期に武術を鍛えていた名残で、主に従うという戒を忘れないようにするものであろう。行伍に列あり、起坐に法ありにはまだ至っていない。他に蕨漬けも献上している。
文政巳丑 (1829年/文政12)、たいそうな飾りを付けた前軍・中軍・後軍を設け、幟を翻し弓銃を備えて鉦の革を繋ぎ行き止まる。狩りが終わってキジ、ウサギの数がそろえば鉦を鳴らして軍勢を収めて戻る。
郡の村は二十余り。並びに土岐郡の村が若干城府の領地となっている。年間に栗二万余石を産しその四分の一を税として納め官倉を満たしている。雑穀などには税を課していない。その他に西濃と駿河属の領地がある。西美濃、駿河は各五千石である。西美濃は三尾の北方に、駿河は横内に官舎を設け官史を置いている。両地の村落は附録参照。
近年は国家も平和が続いて久しく、天下は富み官舎も軒を連ね市街の店は軒の高さを比べている[1]。実に東濃一の都会である。ここの民は素朴で知識が少なく、勤労で学問が少ない。この事から考えると、世を治める方法はこれに頼らせることであって、これを知らせることではない。
思い巡らすに城主は朝早くから夜遅くまで統治に一心に励み、思いやりは領民にも及び、徳は四境にも伝わる。この太平の世が保たれているのは、このように民を軽く見ないことである。
- ^ 北郊に古市があった。古市場という地名はこれである。
夫花柳春遲凉風吹暑
丹楓織錦祁寒透骨則城雉之四時也其田
早耕而晩熟少膏腴之地取魚鹽於南海故
希海鮮泉水渥湲出自城山逵市街西瀉于
郊原其水清潔殊無魚城東河水多鯇鱒鰷
魚等賣於市中又如蕎麥麺茶茗柹栗蘿蔔
秋菌烟草土産最勝矣漉紙數品皆精好如
藥品則有木茯芩二活芍藥黄連厚朴黄蘗
小人参之類熊膽明瑩真而不贋但難多得
歳至小寒之候則命出田卒狩于郊原生執 ※2
雉兎以貢于東都自古為例蓋古人農隙講
武之遺法而不忘繁苞桑之戒者也至行伍
有列起坐有法則未矣又以漬蕨為貢郡邑
二十餘并土岐郡邑若于領于城府歳生栗
二万餘石以四分之一為税充 官倉至雑
穀則不與税別有西濃曁駿河之属領方今 ※3
國家承平日久海内殷富官舎連軒市廛比
屋古市在北郊有地名古市場者此也實東濃一郡會也其民
愨而寡智謹而少文甞聞之經世之術在使
由之而不在使知之恭以
邦君殿下夙夜孳々志於治仁及黎庶徳流
四境若夫撃壌之化則當不易民而致也※2 文政己丑頗加潤色設前軍中軍後軍翻旌旗具弓銃繋鉦鞁為行止狩畢雉兎満其数則鳴鉦収衆而還 / ※3 西美濃駿河各五千石西美濃三尾北方駿河横内設官舎置官史両地村落別附録於後
八幡廟
○八幡廟は城上の高楼の傍らにある。壇場は美しく夕日の光が金文字の額を照らす。言い伝えによれば加藤景廉を祀っているという。廟の後ろに祧 (遠祖の廟) が一つありこれが本廟と呼ばれる。中には高さ二尺 (約60cm) ほどの神人が置かれている。これは景廉の像であるという。玄 (赤または黄を帯びた黒) の冠に黒染めの衣で
手に
桐中将の像というのであれば通じるが (桐中将については前述)、桐氏が府を築いたという説は根拠が無く信ずるに足りない。景廉を祀った後に戦乱の時代が終わり、民に再び武器を取らせない事を示して文徳を広めようとしたのだろうか。
また神倉が設けてあり甲冑が安置されている。景廉の鎧であるという。その精錬は凡人の成せる技ではないが、朽ちて虫が付き繕いもされていない。別に金冑の一箱が安置されているのは源高公が大阪を制した時の鎧である。
門の傍らに奉祀寺社があり月光山薬師寺という (丹羽氏が置いた神宮寺はこれである)。ここも祈霊壇上に神人が置かれている (祈霊壇は降魔堂という)。甲冑に弓矢を持った形は西域 (中央・西アジア) の人のようである。阿弥陀八幡と言い密宗の僧が祭祀を執り行っている。土地の神となった
○八幡廟在城上高樓旁壇<img src="../letter/dan.png" class="letter" alt="土単"/>清浄返照射
金榜傳言祭加藤景廉也廟後設一祧此謂
本廟中置神人長二尺許曰景廉像也其像
玄冠緇衣手執笏殊不類於武将之形而以
縉紳氏之像若謂桐中将之像則猶可桐中
将之事詳于前而桐氏築府之説妄誕不足信也疑
景廉受封之後縱馬偃戈示民不復用而布
文徳也弞又設神庫藏鎧冑曰景廉甲也其
精錬非庸人所著而朽蠧不可為補綴別藏
金甲一櫃者
源高公征大坂之披甲也門旁有奉祀観曰
月光山藥師寺丹羽氏所置神宮寺乃其閣也 又祈靈壇
上設神人祈㚑壇此謂降魔堂甲冑執弓矢形類于西
域人目弥陀八幡密宗僧主祭祀之事蓋勾
龍為后土實始為社而自三代以降諸侯以
社稷為命祀則此廟可謂巖邑社稷而世主
必祀之神也
領家八幡
○領家八幡は西郊に位置する小さな祠である。言い伝えによれば城上の八幡は元々ここにあって後世に移して現在の場所に祭られたと言われている。ここはその跡である。この話は理屈に合っているだろう。
また領家には長明塚と呼ばれるものがある。 鴨長明漫近がこの地で亡くなったと伝えられる。 長明の和歌に「思いきや 都をよそに 別れ路の 遠山野辺に 雪消むとは」とあるが、惠那郡は遠山荘という事から 根拠となると。本当かどうかは分からない。
昔は
かつて密かにこれを考えてみたが、本邦の屯倉は社倉法に基づいたものであろう (領家はまさに領屯に作る物であるが屯倉を置いて神領としたのだろう)。昔は二十五家で里とし、里には必ず社を建てた (今でも里社という)。社には必ず田があり、また必ず倉を置いて社田から収穫した粟を貯蔵し、里民の貧乏なものを選んで貸し与えていた (神としたのは里人が約束に背かないことを望んだのだろう)。
もし夏に倉から粟を借りれば冬には利息を加えた米を償う。一年の内にこれを収めてまた古いものを散らせる。凶作の時にはこの利息の半分を、大飢饉には全てを免除する。この利息は 1 石 (180.4L) に対して 3 升 (5.4L) だけである。このため世間が凶作に見舞われても民は食を欠くことはなかった。
また文武天皇 (683-707年) は義倉を置いた。これが廃されると帝は常平倉を置いた。これらの制度は若干の差はあるが要するにどれも人徳を施す方法である。このように、この頃には文を学んで先代の優れた王の法を行っていたのである。民を動かし
保元 (1156-1158年) の頃から天子の権力が衰え都落ちする (保元の乱)。ここで関東で武勇を震い海西に恐怖をめぐらさせたものは、みな役人や将軍の子である。目に丁を知らないような者が勢力に乗じて法を改め、後の人が権変を尊び王政を折り曲げたのである。加えて応仁 (1467-1468年) となると群盗が横行し悪党が栄えた。その先王の掟などは一掃されてしまった。悲しいことである。
この頃に遠山氏が城府を築き始め、廃れている屯倉を見つけた。ただ社祠は無駄に残っていた。思うに八幡は将家の鎮護の神であろうと考え、城上に移してその祖先を祭った。その家臣や民もまた倣って崇拝し、あえて何であるか考える者は居なかった。後人はどうやって屯倉の遺跡かどうかを調べれば良いのだろうか。悲しい事である。
○領家八幡在西郊小祠也傳言城上八幡 ※
本在於此而後世徙祭之乃其趾也其言當
有所傳葢古者屯倉在州郡先儒以為推古
天皇置屯倉於各州本邦置屯倉之始也至
今諸州有地名三宅者皆其遺趾也若據其
説則所謂領家亦其跡也嘗窃考之本邦屯
倉者用社倉法者也領家當作領屯葢置屯倉為神領倉也 古
以二十五家為里里必有社猶今之里社 社必有
田又必置倉而収社田所出之粟而委倉中
選里民貧乏者而賑貸之神之者欲里民不背約也若夏
受栗於倉冬則加息計米以償隨年歛散歉
則蠲其息之半大饑則尽蠲之其息毎石止
収三升故天下雖遇歉年民不缼食又有文
武天皇置義倉廢帝置常平倉其法制雖浸
有差等要之皆仁術也可見當時學文行於
上故先王之法挙措於民而鰥寡孤独皆蒙
其澤也夆自保元乾綱解紐王室蒙塵於是
鷹揚於関東狼顧於海西者皆是衙門将種
目不知丁者而乗勢改易法度使後人尚權
変而迂王政也加以建武之乱而州郡星分
王澤既竭至應仁則郡盗横行豺狼飽肉若
夫先王法度則一箒掃地悲哉方此時也遠
山氏始築城府視屯倉廢而社祠徒存以為
八幡者将家鎮護之神也遂徙城上配祭其
祖先恬而不覚其義其臣民亦依倚崇奉而
無敢誰何者後人何由知為屯倉之遺趾悲
哉※ 領家又有称長明塚者傳云鴨長明漫近示寂於此地 長明和歌曰
於茂比幾也 美也古遠與曽仁 和迦札之乃 登保也摩能邉仁 由幾々惠武登和 惠那郡曰遠山荘以是為據実不知然否
承平 (931-938年) の世から既に百数十年が経っていたが古い弊害に追従するばかりで弛みを張り直す令もない。古い制度が復職しないのはこのためである。幸いに社樹が残っているものは
また市陌の西の端に
- ^ 論語「子曰 寧武子 邦有道則知 邦無道則愚 其知可及也 其愚不可及也」国に道ある時は知者として敏腕を震い、国に道なき時は愚者として損な役割を演じた。調子の良い時に利口ぶるのは誰でもできるが、国難に愚直を貫くのは難しい。
國家承平既巳經百數十年而苟且因循於
舊弊無更張之令古制之不復職此之由也
幸有社樹之存猶告朔之餼羊也或曰景朝
卒葬于領家因建社祭之又市陌西端有小
社曰小宮八幡者傳言承久之役景朝殺一
條中将信能埋屍之處也未知有何據也噫
夫大廈将崩非一木之力所支若承久之公
卿則雖盡忠 王室謀興復而無殺身之益
禍却延 禁闥屍腐於郊原名從而亡信能
等智抑不及寗武子之愚遠矣謔嘲之曰蕭
條老樹有誰弔唯有寒鴉度夕陽
城山
○城山は関門を幾重も構えている。その中に土岐門と呼ばれているものがある。言い伝えによれば城主が土岐氏を攻めその城門を獲り帰ってこれを作ったのだと。それが何時のことなのかは分かっていない。甲陽史を調べてみると天正二年 (1574年) に武田勝頼が岩村を援護し遠山子城をことごとく落としている。その中に鶴峯というものがある。これは土岐郡鶴峯城である (城墟は神箆村山にある)。秋山晴近がその城門を獲ってこれを作り武田氏の威厳を誇示したのかもしれない。あるいは、各務兵庫が鶴峯城を獲ってこれを作ったと。本当かどうかは分からない。
またかつては城楼に銅鐘を掛けていた。銘によれば濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村武並大明神之鐘天文七年 (1538年) 戊戌七月十二日鋳之という (遠山景前が城主の時である)。大井にあった遠山子城を秋山晴近が落とし、神廟壇上の鐘を奪って城楼に掛けたのかもしれない。軍事の緩急の警鐘として備えられている。この鐘は今は乗政寺にある。後世に新しく鋳造したものである。
○城山搆関門數重中有名土岐殿門者傳
言城主攻土岐氏取其城門還而作之未審
為何時也按甲陽史曰天正二年勝頼援巖
邑盡援遠山子城中有鶴峯者此則土岐郡
鶴城也故墟在神箆邑山 疑晴近取其城門而作之
誇耀武田氏之威武也或曰各務兵庫取鶴
城而作之未知是否又嘗掛銅鐘於城樓銘
曰濃州惠那郡遠山荘大井郷正家村武竝
大明神之鐘天文七年戊戌七月十二日鑄
之遠山景前主城府之時也遠山子城中有大井者葢秋
山晴近拔之取神廟壇堚之鐘以掛於城樓
備軍中緩急之警也其鐘今在乗政寺後世
更鑄者也
矢尽山
○テンプレート:Gpsは高く険しく、雉堞 (低い垣根) に臨んでいる (
または城兵をその谷に潜伏させて敵兵を待ち伏せた事から
○城南高峰峻峭臨于雉堞在樹峯道傳言織田
信忠圍巖邑遣別将登此山以射城中而矢
砲不及城壁嬰城士卒嗤曰織田氏之矢盡
也因名曰矢盡山或曰城兵埋伏於其谷要
撃敵兵故曰谷伏皆訓耶圖不志不知孰是也一説
曰八嶺﨑嶇相峙宛然如竹節因名八節山
又訓耶圖不志若其言則命名葢本於節南山之詩
節高峻皃非必指如竹節状也
水晶山
○テンプレート:Gpsは城の背後に臨む。言い伝えによれば河尻鎮吉 (河尻秀隆) が脇道から軍を潜めてここを登り、城中を見下ろして矢や砲を乱発し、それで秋山晴近の防戦の術が尽きたという。
山中からは水晶が取れる。大きいものは親指ほどの太さで長さ数寸、六面を削ったようになっている。あるいは白く光あるものが一塊に集まっている。全て白石英である。ことに
○水晶山臨于城背伝言河尻鎮吉間道潜
軍而登之下瞰城中矢砲乱發故晴近防戦
術尽而夆山中産水晶大如母指長數寸六
面如削成或一塊聚生白徹有光皆白石英
也殊不見玲瓏如斗者也水晶如斗者今多出於苗城山中也
大将塚
○大将塚は城府の西北、官舎の裏にある。言い伝えによれば織田信忠がここで秋山夫妻、大嶋、座光寺などを磔にしたと言われている。その後の城主が難に遭ったり早死したことからその頃の人は彼らの霊の祟りと思ったということである。この事から丹羽侯は寺を建てて五人の魂を祭った。天台僧がこの祀りを続けている。ここから惠照山五佛寺というらしい。また一説によれば丹羽氏信は残虐で殺しを嗜んでいたという。かつて罪のない者を五人殺したとき[1]、その霊が祟りをなしたために五佛寺を建てて無罪の魂を祀ったという。
龍玄公 (松平乗紀?) が城府に入った時にこの寺を廃止し官舎とした。
かつてこれを聞いた。秋山晴近は後家を誘って城に入りその欲を思いのままにした。遠山夫人もまた性欲に穢れ心惑わされて土地の神々の社が傾くのを気にかけなかった。皆死んだが罪余り、仰のあるどこかの功徳者がこれを祀った。
氏信侯は残虐でみだりに殺しを行っていたため子孫は禍を受けた。このように自ら起こした禍を
我が先の侯は才知が優れ学を好み、儒教の優れた学者である重臣に政治を委ねている。入府の最初に淫祀を廃してここの民の耳目を革めた。狄梁公 (狄仁傑) の再来といったようである。
この北の丘を
- ^ 林の木に鷹が巣を作っていた。氏信は人を使ってこれを飼っていた。あるとき、民が間違ってこの木を伐ってしまう。鷹が再び来ることはなかった。氏信は大いに怒ってその妻子含めて五人を殺した。
- ^ 元禄の山村騷動。岩村藩主丹羽氏音は悪化していた岩村藩財政を立て直すため、改革の側用人として門閥でない山村瀬兵衛を抜擢したが、元禄15年 (1702年) これに反対する保守派によって山村の専横を訴える騒動が起きた。幕府評定所の裁定によって山村は無罪となり上告した保守派のうち首領格 4 人は斬首、1 人は遠島を命ぜられた。また氏音も蕃内の騒動を収められなかったとして6月22日、九千石を没収の上閉門 (謹慎) を命じられ、越後高柳一万石に封じられた。
○大将塚在城府西北官舎背傳言信忠磔
秋山夫妻曁大嶋坐光寺等於此其後世主
或遭難或夭折時人以為其㚑為祟也於是
侯丹羽氏建寺祭五人之魂天台僧承其祀
因曰惠照山五佛寺云一説曰丹羽氏信殘
虐嗜殺嘗殺無辜者五人鷹巢于林樹氏信使人飼之會小民
誤伐其樹鷹又不耒氏信大怒并其妻子五人戮之其靈為祟故建五
佛寺祭其寃魂逮
龍玄公知城府廢其寺而為官舎也嘗聞之
晴近誘寡婦而入城以逞其欲遠山夫人亦
婬媟蠱心不顧念社稷之傾覆皆死有餘罪
抑有何功徳而祭之耶侯氏信残虐妄殺子
孫受殃斯之謂自作之孽若夫苗裔則懲咎
改悪務施仁政愛臣庶如子民又載其徳凱
樂永享庶幾其祟自消矣而苛政無改賦歛
倍加遂生悖乱而遠謫削地雖建寺媚佛而
佛不福之悲哉我
先公睿邁好学委政於儒雅重臣入府之首
廢淫祀革斯民之耳目可謂狄梁公復生者
也」其北阜曰分岑 岑為飯狭分界 有地名大將陣者
傳言信忠圍城軍于此今観古市趾在其下
則所謂信矣又阜下有地名称古多時俗指陣砦置輜重之處曰称古耶是
也
山上
○西郊の村落を山上という (岩村城は山の上に築かれているため山上と呼ばれるがここでは村落名である)。北の丘に加藤二坐石 (前述参照) という高く立つ大きな石 (腰掛岩, 霊夢岩) が存在し、その丘は
その西には
塔岑の傍らに十三仏という地名がある。刑場である。老人によればここの前は分岑にあり、その前は四面塔にあったという。かつて慈仙公が西城に盆栽を献じている。
○西郊村落曰山上巖邑城于山上故一名山上而今時為村落名
北阜有峙立磐石曰加藤二坐石説詳于前其阜名
祖父岑 遠山氏以加藤二為祖故有此称谷
中有屏風磐形類於屏風障未審所以名焉」 ※
其西有塔岑高阜建藏經塔阜中産紫栗其
樹長不盈一二尺而結實殆可庭苑之竒翫
也城山諸溪水相合為小河北泻于飯狭※ 塔岑傍有地名十三佛刑場也古老曰其前刑場在分岑又其前在四面塔云」慈仙公嘗盆植献于西域
武並廟
○武並廟は城府の西で高嶺の峰の草木が生い茂った中にある。城府からは三里程で飯狭との境界である。城府の武士たちはこれを崇めて宗社としている。言い伝えによれば遠山景朝を祀っているという。この祠は三廟ある。大夫を祀る理由は当然であろう。
景廉は七子をもうけており[1]、遠山荘を分領して子孫が各廟を建ててこれを祀った[2]。その武功が父に並ぶ、また兄弟の武威が競い並ぶという意味をとってこれを名付けている。またはこれらの神がみな高い嶽に祀られているため嶽並ともいう。これもまた通じる。
- ^ 東鑑を調べてみると景廉の子に景朝、尚景、景俊、景長、景義とある。そして景義の行に第七郎とあるため景廉に七子が居ることが分かる。
- ^ 廟は城府西山、大井、竹折、野井、佐々羅岐、藤村、久須美がありこれらを七祠という。平林にあるものは後に人が移して祀ったものである。大井野井などはこれである。
○武並廟在城府西高嶺岑蔚中距城府三
里程与飯狭交疆場城府士庶祟之為宗社
傳言祭遠山景朝也其祠三廟葢大夫之祭
或其理當然如其命名之義則曰景廉生七
子按東鑑景廉子有景朝尚景景俊景長景義而景義之行第称七郎則知景廉有七
子也分領遠山荘子孫各建廟祭之廟在城府西山曁大
井竹折野井佐々羅岐藤村久須美此謂武並七祀取其武功竝父之
義而名為又取兄弟武威競並之義也或曰
其神皆祭高嶽故曰嶽並又通祠在平林者後人所徙祭
也如大井野井是也
○また一方では遠山氏の各自が競い合って優劣が付かず、その祭るところの神都を目指して武並という。名を雄武相並ぶという意味から取る。苗木、明知、串原、安岐、曽岐などはみなこれである。
今観てみると廟山の下に飯狭城跡がある。飯狭氏が祀っていた神であろうか。現在、里人は重陽 (旧暦9月9日) の祝日に八幡神と武並神を城内で併せて祭り、舞台を設けて観覧している。飯狭の人がその神輿を担いでいる。おそらく飯狭で祭っている所の御利益にあやかっているのであろう。またかつて里老に聞いたところによれば、武並廟は元々蕨平原にあったという。 老いた柏が数株、今も存在しているのはこの社樹である。今でも民はその地を開墾しない。蕨平は城府の西南の平原である。これを参考として併記しておく。
○又曰遠山氏各自竸起不相下目其<img src="../letter/sho.png" class="letter" alt="耳ケ"/>祭
神都曰武並取義於雄武相並如苗木明知
串原安岐曽岐等皆是也今観廟山下有飯
狭故城墟疑又飯狭氏所祭之神弥方今重
陽佳節郷人合祭八幡神与武並神於府内
設戯場為観飯狭人肩其神輿恐足為飯狭
所祭之一徴也又嘗聞俚老之言曰武並廟
本在蕨平原老柏數株今猶存乃其社樹也
至今民不敢耕種於其地蕨平原即城府西
南平原也併記之以備参考
天瀑山
○テンプレート:Gpsは城南の三里ほどに位置する (山田、峯山の境界である)。里人は山頂に祭られている神に雨を祈る。瀑泉天上より注ぐという意味を取って天瀑と名付けられている。この北の沢が瀧となっており、雨乞いをする者はその水で禊ぎをする。
平尾徳卿に瀑布の詩がある。「古廟高臨密樹前傍看瀑布掛巖巓更疑天上銀河水流到霊山仙境辺」
水の傍らの小さな社には最近城主が新しく壇場を造り、わざわざ駕篭の道を曲げてこれにお参りをしている。ああ、この神の徳は計り知れない。うやうやしくも考えてみると、城主は国の統治を受け継ぐにあたって、徳は日のように登り輝き、仁は人民に広まり、誠敬は上下に至る。神鬼はこの祈りを受け、山河を祭るのは国の幸福の永きを祈るためであって、また他には求められないだろう。この雨乞いの巫女が焚こうとしているものは、まさにこの輝く日に間違いないだろう。
この大良公 (松平乗薀) の三男である松平乗衡は林氏の養子となり家督を継ぐ。自らを天瀑山人と號して天保辛丑 (天保12年/1841年) 七月に逝く。戒名を快烈先生という。才宏く学博く実に一世の泰斗であった。
この山にはまた栄があり。瀑澤の傍らに鶴亀石というものがあり、石の上に模様があり鶴亀を彷彿とさせる形である。岩村市人の木村弥五八が墾田した時にこの石を得た。
また西には小富峰がある。まるで富士山のようで図画に入っているようである。山の下には一筋の模様を成している目帯磐という大岩がある。また山の傍らに鍛冶平原、大工洞という地名があるのは、きっと昔にここに職人が居たのだろう。
大工洞は今は大根洞と呼ばれている。大根と大工は音が近いため誤ったのだろう。傍らには石屋洞と呼ばれる場所がある。
○天瀑山在城南三里許為山田峯山疆場 高嶺祭 ※
神郷人賽之祈雨因取瀑泉泻自天上之義
命名天瀑其北礀水為瀑雩者祓禊其水名
瀑澤水旁有小社頃
邦君殿下新造壇墠親自枉 駕賽之想其
意在為斯民祈風雨和暢也噫夫神之為徳
不可度思恭惟
殿下方承國統徳輝日躋仁延黎元誠敬格
于上下神鬼享其祀望祭山川者即所以祈
國祚之永命又何他覔之有耶若夫欲焚巫
尫者則非同曰之談也又有小富嶺峙其西
宛如富嶽入畫圖之状也山下有磐石一條
石理成文俗目帯磐又山傍有地名鍛治平
原大工洞者疑古諸工居於此處弞 ※※ 大良公一男曰乗衡君出嗣林氏自号天瀑山人天保辛丑七月逝謚快烈先生先生宏才博学実為一世泰斗此山亦与有栄焉 瀑澤傍有称鶴亀石者石上有文髣髴類亀鶴二物岩邑市人木村彌五八墾田時得之 平尾徳卿有瀑布詩 古廟高臨密樹前傍看瀑布掛巖巓更疑天上銀河水流到靈山仙境邉 ※ 大工洞今呼曰蘿蔔洞非是葢蘿蔔邦語曰大根与大工音近故謬近傍又有称石屋洞處
高松山
○高松山は矢尽山の南に位置する。頂上の一株の老松が晩翠を含んでいることからこの名が付いた (近年この樹は枯れた)。土の中から銀状の硬鍚のようなものが出土する。銀鉚を掘るものによれば、これは性が劣っていて用にならないという。
○高松山在矢盡南嶺上有一株老松含
晩翠故名焉頃年其樹枯 土中産生銀状如硬鍚
堀銀鉚者見之曰性劣不可為用也
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桜稲荷
○櫻稲荷在府内官舎傍 〓
松石山乗政寺
○松石山乗政寺在府内北郭 〓
晴雲山隆崇院
○晴雲山隆崇院在乗政寺西隣 〓
久昌山盛巖寺
○久昌山盛巖寺亦在官舎旁 〓
流水山祥雲寺
○流水山祥雲寺在市街西端 〓
瀧井山清樂寺
○瀧井山清樂寺在城山南麓 〓
桃蕚山妙法寺
○桃蕚山妙法寺在城府西郭日蓮宗也 〓
遍照山浄光寺
○テンプレート:Gpsは街店舗の裏に位置する。一向宗である。その開祖である祐正は三河牛窪の人で内田氏小字七之亮、父を弥右衛門という。永禄年間 (1558-1569年) に岡崎、牛窪で神祖の龍が興されたが、守将であった牧野氏が何度かの戦でたびたび敗れ、ついに部下を率いて降参して諸侯共々内田と名を変えた。
暫くして上宮寺、正満寺などの僧侶を首領として一向宗の乱が起きる (三河一向一揆)。内田氏は全員上宮寺の檀家だったため乱に参加した。祐正の親兄弟はこの時の難で死んでいる。祐正はたった数歳で身を寄せるところがなくなったが、たまたま同門の寺僧が憐れんでこれを育てた。
祐正は十九歳で剃髪して僧侶となる。姻族は今井、数馬、また三河の人で、時に大聖公に牙将として仕えていた者もいた。祐正はその家の客となり公と逢う。寵愛を受け、最初は那和に浄光寺を建ててそこに住む。その後、松平弥七郎の娘を妻にもらい (一向宗の僧は妻を禁じていない) また松平公に従って岩村に移り住む。この寺を城府の北に建て寺領の田園を若干石をうけたまわった。
源高公は浜松に移ったが祐正は移らず、隠居して老病となり亡くなった。その子の某 (祖父の名を用い弥右衛門と称す) は今井氏の名を名乗り公に仕えて浜松に移った。やがて丹羽氏がことごとく寺領を除外した。慶安2年 (1649年) に寺を現在の場所に移して古い寺跡は足軽の詰め所となった。調べてみると足軽の居た所は多分荒町であろう。現在足軽は安岐橋あたりに移動して跡は田畝となっている。
○遍照山浄光寺在市廛之背一向宗也其
開基曰祐正参河牛窪人内田氏小字七之
亮父曰彌右衛門永禄中
神祖龍興于岡崎牛窪守将牧野氏屢戦屢
敗遂率部下而投欵内田諸侯皆從之未幾
一向宗黨作乱上宮寺正満寺等住僧為巨
魁内田氏皆為上宮寺檀徒故叛應之祐正父
兄死其難祐正僅數歳無所託身會有同門
寺僧憐而育之及年十九薙髪為僧姻族今
井數馬又参河人時仕
大聖公為牙将祐正客於其家而見
公遂蒙寵眷始建浄光寺於那和而居焉以
松平彌七郎女妻之一向宗僧不禁育妻又從
公徒于巖邑建其寺於府北附田園若于石
逮
源高公徙于濱松祐正不欲徙辞以老病遂
止於此其子某称弥右ヱ門用祖父称呼冐今井氏而仕
公從徙于濱松既而丹羽氏盡除附田慶安
二年又移其寺於今處舊寺趾為輕卒所居 ※"按軽卒所居葢荒町也今移轉軽卒於安岐橋邉而跡為田畝
赤薬師
○赤薬師は清楽寺の南に位置する。快長院の巫僧がこれを守っている。古くは大円寺にあったが貞享3年 (1686年) にここへ移る。
または丹羽侯が理由無く妊婦を殺しその孕み子を見た。妊婦に祟られたため祠を建ててこれを祀った。これが本当の事かどうかは分からない。
尚道公が赤薬師の上に天女の祠を建てた。その場所は清らかで瀧の水がさらさらと池に注いでいる。板橋を渡して道を通じている。松の木が生い茂っており避暑や月見に良い。
○赤藥師在清樂寺南巫僧快長院 護之舊在
大圓寺貞享三年移於此※ 或伝丹羽侯無故殺孕婦觀其胎孕婦為祟故建祠祭之不知有此事否 赤薬師上 尚道公建天女祠其地清閑瀑水潺々泻池架板橋通道松樹森々冝避暑觀月
大通寺跡
○大通寺跡は西郊に位置する。かつて見た飯狭巌窟記はその後に書かれたものだが、大永四年 (1524年) 月日大通寺五世天蓋記すとある。この事から考えれば、つまりこの寺の開基は明らかに文明 (1469-1487年) の頃である。また伊志岐田 (岩村町一色か) から出土した仏像の首はこの寺の遺仏であろう。現在は林の中に草堂があって観音仏を安置している。その傍らに観月庵が結ばれている。出土した仏の事は今ではもう聞かない。
○大通寺故趾在西郊嘗見飯狭巌窟記書
其後曰大永四年月日大通寺五世天蓋記
以此推之則其開基必當在文明之頃也又
伊志岐田出佛首葢其遺佛也方今林中有
草堂安置観音佛其旁結観月菴※ 出佛有今絶不聞
極楽寺跡
○極楽寺跡は飯狭との境に位置する。今は田畝となっておりその寺が何時あったものかも分からない。
○極樂寺故趾在飯狭疆場今為田畝未審其
寺在何時也
古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。