巖邑府誌/土岐郡
提供:安岐郷誌
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+ | 岐頼政似指源三位也按頼政行事曰頼政<br/> | ||
+ | 初拜伊豆守逮薙髪而辞其職嫡子仲網代<br/> | ||
+ | 為伊豆守別賜頼政以弱挾丹波之荘園殊<br/> | ||
+ | 無知美濃之事則識称土岐頼政者殆与称<br/> | ||
+ | 桐加藤次一般之妄説也葢頼政子孫領土<br/> | ||
+ | 岐遂為土岐氏故云然歟甞考土岐氏系曰<br/> | ||
+ | 多田満仲十世之裔曰光衡始称土岐氏光<br/> | ||
+ | 衡曽孫曰伯耆守頼夏頼夏子曰伯耆十郎<br/> | ||
+ | 頼貞元徳元年九月頼貞及多治見國長等<br/> | ||
+ | 奉 帝密詔討北條氏事露而死頼貞子曰<br/> | ||
+ | 彈正少弼頼遠迨帝室中興而頼遠募聚[[File:未定義文字 凶(ボウ).svg|亡]]<br/> | ||
+ | 命要北條仲時於番馬而殺之建武之役應<br/> | ||
+ | 足利氏數建戦績以功専制美濃歴應五年<br/> | ||
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+ | 氏光為仁木義長養子更称今峰氏頼遠從<br/> | ||
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==市原村== | ==市原村== |
2009年8月6日 (木) 18:48時点における版
土岐郡
目次 |
土岐郡
土岐郡の里村は城府に領せられており、それら全てを記せないのであれば府誌を全うすることはできない。しかし境界を遙かに隔てているため見聞も多くない。調査は真相を失し訛りで間違いも入るだろう。このため仮置きでこれを書いている。土岐氏のことをほんの1つ2つ挙げてここに記す。
日本書紀によれば土岐は古く
○土岐郡邑里領于城府者非盡記之則不
能全府誌也然疆塲遙隔而見聞不多恐捜
索失眞以訛傳謬故姑闕之唯挙繋土岐氏
之事者一二聊記於此土岐古作礪杵見日本記
神篦村
○神篦邑我領邑 俚俗傅言昔者土岐頼政射
怪鳥於 禁庭取竹於此作矢因名其邑曰
神篦以神之也其竹今猶可為矢俗呼一鎌篦竹又
其邑山有鶴城故墟曰頼政始城焉所謂土
岐頼政似指源三位也按頼政行事曰頼政
初拜伊豆守逮薙髪而辞其職嫡子仲網代
為伊豆守別賜頼政以弱挾丹波之荘園殊
無知美濃之事則識称土岐頼政者殆与称
桐加藤次一般之妄説也葢頼政子孫領土
岐遂為土岐氏故云然歟甞考土岐氏系曰
多田満仲十世之裔曰光衡始称土岐氏光
衡曽孫曰伯耆守頼夏頼夏子曰伯耆十郎
頼貞元徳元年九月頼貞及多治見國長等
奉 帝密詔討北條氏事露而死頼貞子曰
彈正少弼頼遠迨帝室中興而頼遠募聚
命要北條仲時於番馬而殺之建武之役應
足利氏數建戦績以功専制美濃歴應五年
九月四月以後康永元年坐侵上皇之駕而伏誅其子
氏光為仁木義長養子更称今峰氏頼遠從
子刑部大輔頼康代領美濃即六郎頼清子
也頼清盖頼遠兄弟又頼遠弟有周濟房頼明四條縄手之役馳楠軍而死頼康
老而薙髪更名善忠乃美濃守頼益父也世々
相襲至成頼而亡 其世系似不出於頼政更蹊後考
市原村
定林寺村
書きかけのページ | このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。 |
古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。