巖邑府誌/土岐郡

提供:安岐郷誌
移動: 案内, 検索

土岐郡

目次

土岐郡

土岐郡の里村は城府に領せられており、それら全てを記せないのであれば府誌を全うすることはできない。しかし境界を遙かに隔てているため見聞も多くない。調査は真相を失し訛りで間違いも入るだろう。このため仮置きでこれを書いている。土岐氏のことをほんの1つ2つ挙げてここに記す。

日本書紀によれば土岐は古く礪杵(とき)とする。

○土岐郡邑里領于城府者非盡記之則不
能全府誌也然疆塲遙隔而見聞不多恐捜
索失眞以訛傳謬故姑闕之唯挙繋土岐氏
之事者一二聊記於此土岐古作礪杵見日本記

神篦村

神篦村 (瑞浪市土岐町鶴城) (我が領)。里人の言い伝えによれば昔に土岐頼政 (源頼政) が宮中で怪鳥を射ち、その矢がここで取った竹で作ったものであったため、これを神として村の名に付けて神篦(こうの)としたという。今でもここの竹で矢を作っている (俗に一鎌篦竹と呼ぶ)。またこの村山に鶴ヶ城 (神篦城) の古跡があり頼政が築いたものだといわれている。

所謂土岐頼政は源三位で指している。頼政の経歴を調べてみると始め伊豆守であったが出家して職を辞し、代わって嫡子の仲綱が伊豆守となっている。頼政が別に賜っていた所は若狭と丹波の荘園であり美濃は聞いたことがない。つまり土岐頼政と称する者は桐加藤次と称する者と同じく一般の妄説である。頼政の子孫が土岐を領し土岐氏となったためにこのように伝えられたのだろうか。

かつて土岐氏の系を考えたが、多田満中の十代の子孫を土岐光衡といい始めて土岐氏と称した。光衡の曾孫を伯耆守頼夏といい、頼夏の子を伯耆十郎頼貞という[1]。元徳元年 (1329年/鎌倉) 9月に頼貞および多治見国長らが帝の密命を受け北条氏を討とうとしたが企てが漏れて死んだ (正中の変)

頼貞の子を弾正少弼頼遠という。帝室中興におよんで頼遠は衆を募り亡命した。北条仲時番場宿で殺した。建武の役に足利氏に応じ幾つもの戦績を建て、この功で美濃を制した。暦応5年 (1342年/室町) 9月 (四月以後は康永元年) に上皇の籠を侵して誅に伏した。

その子の氏光は仁木義長の養子となり姓を改めて今峰氏と称したため、頼遠の甥である刑部大輔頼康が代わって美濃を領した。これは六郎頼清の子である[2]。頼康は出家し名を善忠と改めた。美濃守頼益の父である (代々相継ぎ成頼の代に滅ぶ)。その世系は頼政から始まっているようであるが更に後考が必要である。

  1. ^ 太平記註によれば頼貞は頼員あるいは頼時という。
  2. ^ 頼清は頼遠の兄弟であろう。また頼遠の弟に周済房頼明が居り四條縄手(しじょうなわて) (四條畷) に楠軍に馳せて死んだ。

○神篦邑我領邑 俚俗傅言昔者土岐頼政射
怪鳥於 禁庭取竹於此作矢因名其邑曰
神篦以神之也其竹今猶可為矢俗呼一鎌篦竹
其邑山有鶴城故墟曰頼政始城焉所謂土
岐頼政似指源三位也按頼政行事曰頼政
初拜伊豆守逮薙髪而辞其職嫡子仲網代
為伊豆守別賜頼政以弱挾丹波之荘園殊
無知美濃之事則識称土岐頼政者殆与称
桐加藤次一般之妄説也葢頼政子孫領土
岐遂為土岐氏故云然歟甞考土岐氏系曰
多田満仲十世之裔曰光衡始称土岐氏光
衡曽孫曰伯耆守頼夏頼夏子曰伯耆十郎
頼貞元徳元年九月頼貞及多治見國長等 ※1
奉 帝密詔討北條氏事露而死頼貞子曰
彈正少弼頼遠迨帝室中興而頼遠募聚亡
命要北條仲時於番馬而殺之建武之役應
足利氏數建戦績以功専制美濃歴應五年
九月四月以後康永元年坐侵上皇之駕而伏誅其子
氏光為仁木義長養子更称今峰氏頼遠從
子刑部大輔頼康代領美濃即六郎頼清子
頼清盖頼遠兄弟又頼遠弟有周濟房頼明四條縄手之役馳楠軍而死頼康
老而薙髪更名善忠乃美濃守頼益父也世々
相襲至成頼而亡 
其世系似不出於頼政更蹊後考

※1 太平記註曰頼貞一本作頼員或頼時

市原村

市原村 (瑞浪市土岐町市原) (また我が領土)。民家の後ろに古い石碑が並んでいる。伝えによれば土岐氏菩提寺の興禅寺跡であるという。中央の碑の銘には「前伯州太守定林寺殿雲石存公」、傍書に「暦応二年己卯 (1339年/室町) 二月廿三日逝矣」と書かれている。

土岐氏系を考えてみると隠岐守光貞の子に隠岐孫四郎頼員という者がおり薙髪して名を存考と改めている (存考は救考ともいう) (存考は存孝ともいう)。また和歌に名あり明智次郎頼兼の父である。もしこの人物であるなら伯州と隠州、存公と存考が異なっている。また前伯州と書かれている事から十郎頼貞という事であればその紀年は遙かに離れている。未だに土岐譜の完全版を見ていないためこれらの是非を論じることが出来ない。

記伝を調べてみると元徳元年 (1329年/鎌倉)、斎藤利行の娘は夫である左近蔵人頼員 (土岐頼員) の謀を漏らし六波羅に告げた。頼員という名は存考と同じである (太平記註で頼員は頼直と書かれている)。これが同一人物なのかは分かっていない。あるいは頼員の謀を告げた者は右近将監頼重の子の左近蔵人頼春とも言う。未だにどちらが本当なのかは分かっていない。

○市原邑又我領 民家背有古石碑相竝者傳
言土岐氏檀刹興禪寺之址也銘中央碑曰
前伯州太守定林寺殿雲石存公傍書曰暦
應二年巳夘二月廿三日逝矣合考土岐氏
系曰隠岐守光貞子曰隠岐孫四郎頼員薙
髪更名存考存考一本作救考 最名倭歌乃明智次 ※1
郎頼兼父也若定為此人則伯州与隠州存
公与存考異也又因書前伯州而為十郎頼
貞則其紀年逈隔矣又未見土岐譜之詳悉
則不敢論其是非也按記傳曰元徳元年齋
藤利行女婿左近藏人頼員者以頼員等之 ※2
謀告六波羅頼員名与存考同又未審其異
同也或曰告頼員之謀者右近将監頼重子
左近藏人頼春也未知孰是也

※1 存考他本作存孝 / ※2 太平記註曰頼員一本作頼直

定林寺村

定林寺村 (土岐市泉町定林寺) (また我が領) は伝えによれば土岐氏の寺院跡[MAP]だという。かつて聞いた話によれば、康暦年間 (1379-1380年/戦国) に5山の他に禅寺10院があったという。また一説によれば10院の中で定林寺はその8に居たという。別号は瑞雲山。仏光禅師の開基であると。

○定林寺邑又我領 傳言土岐氏佛刹之址也
甞聞康暦中五山之外別定禪院十刹一説
曰十刹中定林寺居其八別號瑞雲山佛光
禅師其開基也


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link