巖邑府誌/論城府版築之始

提供:安岐郷誌
(版間での差分)
移動: 案内, 検索
()
242行: 242行:
 
-->
 
-->
  
== ==
+
== 考察 ==
 
城府の版築は話が入り乱れてでたらめも多い。しかし応仁・文明 {{note|(1467-1486年/室町)}} の頃を版築の始めとするのはきっと伝えられるところがあるのだろう。
 
城府の版築は話が入り乱れてでたらめも多い。しかし応仁・文明 {{note|(1467-1486年/室町)}} の頃を版築の始めとするのはきっと伝えられるところがあるのだろう。
  
[[応仁の乱]]によって公家は都を逃れ、土地は焦土と化し官吏の多くは身を置く場所がなく、遠い田舎を歩き回り地方諸侯に世話になるような者も往々にして居ただろう。桐卿が岩村に移り住んだ事もあり得る事である。しかし桐卿は版築には特に関わっていないだろう<ref>中世で公卿を呼ぶのには殿を用いる。桐中将のような者はまず華族であるから桐殿と呼ぶものである。</ref>。
+
[[w:応仁の乱|応仁の乱]]によって公家は都を逃れ、土地は焦土と化し官吏の多くは身を置く場所がなく、遠い田舎を歩き回り地方諸侯に世話になるような者も往々にして居ただろう。桐卿が岩村に移り住んだ事もあり得る事である。しかし桐卿は版築には特に関わっていない<ref>中世で公卿を呼ぶのには殿を用いる。桐中将のような者はまず華族であるから桐殿と呼ぶものである。</ref>。
  
建武以降 {{note|(1334年〜/室町)}} は土岐氏が美濃で勢力を伸ばしており、遠山氏はその配下に着いていただろう。応仁・文明の間に土岐氏が衰退したためそれに乗じて遠山の諸族が争い立ち、岩村、苗木、明知、串原などで築城し固めたのである (俗に言う{{ruby|古|いにしえ}}七遠山あり後世に相統一す、とはこの時を指すのだろう)。
+
建武以降 {{note|(1334年〜/室町)}} は[[w:土岐氏|土岐氏]]が美濃で勢力を伸ばしており、遠山氏はその配下に着いていただろう。応仁・文明の間に土岐氏が衰退したためそれに乗じて遠山の諸族が競い立ち、岩村、苗木、明知、串原などで築城し固めたのである (俗に言う{{ruby|古|いにしえ}}七遠山あり後世に相統一す、とはこの時を指すのだろう)。
  
かつて読んだある小記は遠山氏世系についてとても詳しく述べていたが、景朝の下は全く記していなかった。直近の代が分かっていないということである。また一方では大和守景広 {{note|(?)}} を挙げ、その系統を受けて景廉16代目の子孫であるとしている。さらに景広を受けた左衛門尉頼景を挙げている。
+
かつて読んだある小記は遠山氏世系についてとても詳しく述べていたが、景朝の下は全く記していなかった。直近の代が分かっていないという。また一方では大和守景広 {{note|(遠山景広?)}} を挙げ、その系統を受けて景廉16代目の子孫であるとしている。さらに景広を受けた左衛門尉頼景 {{note|(遠山頼景)}} を挙げている。
  
頼景が岩村の主であったかははっきりしていないが、八幡神社には永正年中 {{note|(1504-1520年/戦国)}} の棟札がある。永正は文明の20年ほど後であるし、頼景はまさに景広の子である。となればつまり城府を築いた者とは {{note|(文明年中に城主であったと思われる頼景の父の)}} 景広である。山上村が盗賊に苦しめられて加藤次が除いたというのは、つまり応仁・文明の乱であって、決して保元・平治の事ではない。
+
頼景が岩村の領主であったかどうかははっきりしていないが、八幡神社には永正年中 {{note|(1504-1520年/戦国)}} の棟札がある。永正は文明の20年ほど後であるし、頼景はまさに景広の子であるから、つまり城府を築いた者とは {{note|(文明年中に城主であったと思われる頼景の父の)}} 景広である。山上村が盗賊に苦しめられて加藤次が除いたというのは、つまり応仁・文明の乱であって、決して保元・平治の事ではない。
  
[[File:Ashikaga mon.svg|thumb|120px|足利二つ引]]
+
[[File:Ashikaga mon.svg|thumb|100px|足利二つ引]]
 
数々の素晴らしい勲績を持つ者の子孫は代々その呼称を用いようとするのが古くからの世間の例である。つまり岩村を領した遠山氏の者もまた自らを加藤次と称していたのである。衣器を飾る文様を小民にお与えになる様な話は、遠山氏自らが版築を指揮している時に空腹となったので民家を訪ねて食べ物を請うたが、その家は慌てふためいて食べ物を用意する暇もなく、箸二本を食器に加えた事によるのだろう。
 
数々の素晴らしい勲績を持つ者の子孫は代々その呼称を用いようとするのが古くからの世間の例である。つまり岩村を領した遠山氏の者もまた自らを加藤次と称していたのである。衣器を飾る文様を小民にお与えになる様な話は、遠山氏自らが版築を指揮している時に空腹となったので民家を訪ねて食べ物を請うたが、その家は慌てふためいて食べ物を用意する暇もなく、箸二本を食器に加えた事によるのだろう。
  

2009年7月10日 (金) 17:43時点における版

城府版築の始めを論ずる

伝えによれば遠山氏が代々恵那郡を領していた事から概ね遠山荘と称する (荘とは田舎の意味で俗に言うように庄ではない)。

目次

加藤景廉

遠山氏の祖は加藤二景廉(かげかど) (二または次は二男の意) という。記伝を調べてみると景廉は伊勢の人で藤原氏の庶派であるという。あるいは古曽部永愷(こそべながやす) (橘永愷) の子孫[1]であるとも云う。かつて祖父の蔵人(くろうど)某が加藤氏の娘を娶った事から父の景員(かげかず)は母方の加藤五を称した。

景員は伊予源氏 (頼義) に従い陸奥国を征して武功を上げた。また景員は源左馬(さま) (義朝) に従って保元の乱で功を上げたが、左馬は平治の乱で破れて死んだ。敗走した景員は伊勢に隠れた。

景員は二子を設け、長男光員 (あるいは景光) は加藤太と称し、次男景廉は加藤二と称した。

  1. ^ 永愷とは能因である。白川関を詠った秀逸な和歌があり世の称するところとなった。

  論城府版築之始

○傅言遠山氏世領惠那郡故槩称遠山荘
莊田舎也俗作庄非遠山氏祖曰加藤二景廉按記傳
曰景廉伊勢人藤氏庶族或曰古曽部永愷
之後永愷即能因也善倭歌有白川関之詠為世所称 祖父藏人某嘗
為加藤氏女婚故父景員冒母氏自称加藤五
加藤氏之先景通從源豫州名頼義 征東奥有
功景員又從源左馬名義朝 有保元之績平治
之役左馬敗死景員走隠于伊勢景員生二
子長日光員或作景光自称加藤太次曰景廉自称
加藤二

時に古市 (伊勢国度会郡の古市荘?) の伊藤某という者が源氏の徒党捜索に大変厳しく、景員と二子は共に伊藤を殺して伊豆に逃亡し工藤氏に身を寄せた。そこで源武衛(ぶえい) (頼朝、左馬の第三子) が義を唱えこれに従った。

治承4年 (1180年/平安) 秋8月、頼朝公は最初の挙兵で北条時政、佐々木等を遣わして山木兼隆の目代屋敷を襲撃した (石橋山の戦い)。戦いに勝ったら狼煙を上げろと伝えていたが、何時まで経っても狼煙が上がらない。頼朝公は心配して手に偃月刀 (なぎなた) を取って庭中に立った。たまたま遅れて景廉が到着し、顔をこわばらせ血気盛んに参戦を請う。頼朝公はこれを勇ましく思い偃月刀を渡し、源氏の興廃は今回の挙兵にかかっている、おぬしがこれを勤めよと言った。

ここにおいて景廉の馳せること疾風の如し。山木館兵の応戦により北条らも進退着かず中々勝負が決まらない。これを見た景廉は大きく吠えて敵陣に突入し館兵をなぎ倒した。遂に単身で館に乗り込み立ちふさがる何人かをことごとく倒して館主の兼隆の首を獲って狼煙を上げた。頼朝公はこれを見て喜び、景廉はその言に背かなかったとして何日経っても手厚く褒め称えた。

時古市人伊藤某捜索源氏黨與甚
急景員曁二子誘殺伊藤奔伊豆客于工藤
氏逮源武衛名頼朝左馬第三子唱義而從之治承四
年秋八月公始挙義遣北條佐々木等襲八
牧館約曰戰克則挙燧久之不見燧公怖手
執偃月刀立於庭中會景廉後至慷慨請効
力意氣勃如公壮之手賜偃月刀曰源氏興
廢繁此挙卿其努哉於是景廉馳如疾風八
牧館兵又善戰北條等数進數却勝負未決
景廉見之即大呼突其陣館兵披靡遂單身
入館中格闘者數人皆死獲館主兼隆斬其
首挙燧公見燧喜曰景廉果而不負其言寵
侍日渥矣

程なくして頼朝公は石橋山で敗戦。景廉は頼朝公とばらばらになり兄光員と共に甲斐源氏の元に敗走。父景員は箱根に逃れ生きながらえた。頼朝公が再び黄瀬川に兵を集めていると聞き、駆けつけてこれに従った。駿河監橘宗茂 (橘遠茂の間違い) を撃ち破り敗走させる (鉢田の戦い)。既に頼朝公は関東を制覇しており加藤父子の勲績も多かった。

元暦2年 (1185年/鎌倉)、景廉は頼朝公の弟(かば)将軍 (名は範頼(のりより)) に従い平氏追討に西海へ赴くが (壇ノ浦の戦い) 病に伏して功績は無かった。これで平氏は滅びて凱還する。

建久10年 (1199年/鎌倉) 春正月日、頼朝公が鎌倉で死去。嫡子の羽林(うりん)公 (頼家(よりいえ)) が家督を継いだが頼家公は酒色に溺れ(まつりごと)に親しまず、よこしまなことばかりを行っていた。

比企能員(ひきよしかず)の娘 (若狭局) が頼家の子源一幡(いちまん)を産んだ。能員は次第に母方の血縁者として権力を拡大していったため、北条政子の父時政は能員に危機感を抱いていった。

未幾公敗績于石橋山景廉失公
之所在與兄光員奔于甲斐父景員逃入筥
根皆得不死聞公復軍于黄瀬川而徃從之
撃駿河監橘宗茂破走之既而公覇于關東
父子多勲績元暦二年景廉從公弟蒲將軍
名範頼 伐平氏於西海罹疾而無功平氏亡
凱還建久十年春正月曰武衛公薨於鎌倉
嫡子羽林公名頼家 立公耽酒色不親政事奸
邪用事比企能員女生子一幡能員漸恣外
威之権外舅北條時政悪之

建仁2年 (1202年/鎌倉)、能員が乱を企てた (比企能員の変)。景廉は時政側に付いてこれを討伐。併せて一幡を殺し、また頼家公の将軍職を剥奪。代わりに右府(うふ)公 (実朝(さねとも)、羽林公の弟) を将軍に立て、羽林公の庶子源善哉(よしなり)をその世継ぎとした。秘密裏に羽林公を殺害したあと、善哉を鶴岡八幡宮に出家させ名を公暁(くぎょう)と改めさせた。公暁は右府公を父の仇と怨んだ。

建保7年 (1219年/鎌倉) 春正月、右府公が鶴岡八幡宮に参拝。景廉を遣わして警護をさせていた。公暁は女の服を着て右府公を石段で狙い殺害。突然のことでこれを捕らえることが出来なかった。景廉は右府公の横死を悲しんで剃髪し名前を覚佛と改めた。公暁は後に討たれた。

承久3年 (1221年/鎌倉) 6月、北条泰時(ほうじょうやすとき)は兵を挙げ京都の沈静に向かったが (承久の乱)、覚佛は老病のため鎌倉に留まっていた。8月3日、覚佛死去。享年66歳であった。

建仁二年能員
作乱景廉從時政討平之并殺一幡尋而廢
公立右府公名實朝羽林公弟 以羽林公庶子善哉
為儲君使盗弑羽林公又廢善哉為僧奉祀
鶴皐廟更名公曉公曉怨右府公以為父之
讐也建保七年春正月公賽于鶴皐廟遣景
廉警衛非常公曉身著女服祖公於石階而
弑之事出於倉卒而不得賊景廉悲公之非
命而薙髪更名覚佛公曉尋而伏誅承久三
年六月北條泰時起兵靖上京之難覚佛以
老病留于鎌倉八月三日覚佛卒享年六十

遠山氏と書かれた物は一つものなく、また遠山の封を受けた事を書いたものもない。遠山譜によれば景廉は建久6年 (1196年/鎌倉) に遠山荘の封を受けたとしているが、これが何に基づくものなのかは不明である。しかし「文治元年 (1185年/鎌倉) 頼朝公は大江広元の策を用い守護・地頭を国衙・荘園に置いて天下を制する」とあることから、景廉が遠山の封を受けたのはまさに文治建久の間であろう。遠山譜はきっと伝えられた所があるものであろう。

無一書遠山氏者又無書受封於遠山之
事而遠山譜曰建久六年景廉受封於遠山
荘不知有何據也然観文治元年武衛公用
大江廣元策置守護地頭於國衙荘園専制
天下則景廉受遠山之封當在文治建久之
間遠山譜必有所傳矣

加藤景朝

景廉の嫡子を景朝(かげとも)という。大蔵大輔を受けて大和守に任じられていた。遠山左衛門と称するのはこの人物である。

記伝を調べてみると承久3年 (1221年/鎌倉) 6月、北条泰時が京都に入った折りに遠山景朝 (一説に景村とも) もその軍に従っていた。宇治、瀬田で官兵を破り廃立 (家臣が君主を下ろし別の君主を立てる事) を行った。

7月、評議の結果、乱を唱えた徒党連中はことごとく処刑。遠山景朝に命令して一条宰中将信能を遠山荘で殺したという。これによれば遠山氏と称したのが景朝から始まった事が分かる。恵那郡は山深くて国府にも遠い加藤氏の領地である。故に遠山殿と呼んで伊勢加藤氏 (光員の子孫) と区別したのだろう。後世に氏の名前をとって遠山荘という。総じて郡村の某荘と呼ばれるものはだいたいその地頭の氏を称しているものである。まさに文治以降から呼び始めたものである[1][2]

  1. ^ 信濃伊那郡に遠山という地名がある。永禄から天正の間に遠山庶家が居たため名付けられたのだろう。
  2. ^ 遠山譜で遠山荘を封せられたという 1196年 (建久7年/鎌倉) より前の 1185年 (文治元年/鎌倉) 吾妻鏡に遠山荘の名が出る。この一文は後でそれに気付いて言い誤魔化したものであろう。

○景廉嫡子曰景朝拜大藏大輔任大和守称
遠山左衛門者是也案記傳曰承久三年六
月北條泰時入京遠山景朝一作景村從其軍破
官兵於菟路曁勢多而行廢立之事七月僉
議唱乱之黨盡殺之令遠山景朝殺一條宰
相中將信能於遠山荘據此則知称遠山氏
者始自景朝也蓋以惠那郡山深而遠國府
為加藤氏采邑故呼曰遠山殿而分於伊勢
加藤氏光員裔 後世因氏焉又名其地曰遠山
莊凢郡邑称某莊者槩皆称其地頭氏當為
文治以後之称也信濃伊那郡有地名遠山蓋永禄天正之間遠山庶
族処之故名為

岩村城

伝えによれば加藤二景廉が岩村府に霧ヶ城を築いたというが、特にそれを証明するような記伝は存在しない。ただし太平記の註記では、越前金ヶ崎城が陥落 (1337年 (南朝:延元2年/鎌倉、北朝:建武4年))新田義貞の生死が不明、諸州の官軍はこれを聞いて右往左往、美濃霧ヶ城守将遠山三郎は城を捨てて逃れた、と書かれている。これは遠山氏の古城と思われるが今の岩村府にあったかどうかは分からない。苗木古城もまた霧ヶ城と呼ばれている。つまり、知る限りでは霧ヶ城というものは遠山氏の古城の名であって、(現在の) 岩村も苗木も霧ヶ城と称しているのはそれらの古城になぞらえているだけである[1]

  1. ^ 苗木古城は福岡にある。これを上苗木と言い別名を高森城と言う

○傳言加藤二景廉始築霧城即巖邑府也
殊無記傳可證也唯有太平記註曰越前金
﨑城陥新田義貞不知死生諸州官軍聞之
氣沮又美濃霧城守將遠山三郎棄城而遁
疑是遠山氏古城未可的為今之巖邑府也
苗木古城亦称霧城則知所謂霧城者遠山
氏古城名而巖邑苗木亦称霧城者擬其古
城耳苗木古城在福岡此謂上苗木一名高森城

加藤二座石

一説。保元平治の乱の頃に野に盗賊がはびこっていた。東濃山上 (岩村の山上も山城ゆえまた山上という) の村人が一神廟に向かい「この頃里人は盗賊に苦しめられて安心して生活が出来ません。願わくは神様、これを不憫に思って手を貸し盗賊らを一掃して下さい。里人に安息が訪れるなら我々が死んだ後もこの廟をお守りします。」と真心を込めて祈った。この夜、村人は神が偉人に命じて盗賊どもを尽く討ち除くという夢を見た。目が覚めてこれは不思議な事だと思った。

次の日、橋の上で一人の壮士を見掛けた。布衣(ほい) (麻の平服) を着て葛巾(かっきん) (葛布の頭巾) をかぶり、長剣を杖にして飄々と東へ向かっている。がっしりした体格に赤ら顔はまるで夢の中に出てきた人のようである。村人はこれを不思議に思い、男を止めてあなたは何処の人だと聞いた。「私は伊勢の人間で加藤二と申します。歳は18才、家は代々将官で馬弓を得意としており、仕える人を求めて関東に行く所です。」と壮士は言った。村人は神夢は本当だったと喜んだ。男にこの経緯を伝えて仕舞いには止宿までさせた。

加藤二は里人と約束して盗賊を捕らえ頭を殺した。これで村中が安堵して加藤二を主と認め、皆この男の言うことを聞くようになった。程なくして頼朝公が伊豆に挙兵したと聞き付け、加藤二は馳せ参じてこれに従った。武功を立て領地の封を受ける時に山上を望み、とうとうこの地を領地としたと云われている。

加藤二はかつて岩上に座り里人はこれを崇めて祭った。加藤二座石と呼ばれているのがこの石である (加藤二座石は郊外にある; 詳細は後述)。加藤二は岩上に座り、東の方の岩村山を臨み城をそこに定めたと云う。いわゆる座石とはこれである。

○一説曰保元平治之乱冦盗充野東濃山
上邑人巖邑者山城也故一名山上 賽一神廟祝曰方今
郷人苦盗賊而不聊生願神垂哀愍假手於
人掃除盗賊而得郷人蘇息則死且不朽至
誠懇禱此夜夢神命偉人盡誅盗賊覚而異
之明日見一壯士於橋上布衣葛巾杖長劔
飄々投東而行形體魁梧顔如渥赭宛如夢
中之人也邑人竒之取其袂問曰客為何人
壯士曰僕是伊勢人自称加藤二生年十八
家世将種故業騎射将之關東求所託也邑
人喜曰神夢不虛悉告其故遂止宿之於是
加藤二約束里民逐捕盗賊獲巨魁戮之里
中安堵即推之為主皆聞其令未幾聞武衛
公起于伊豆馳從之迨建功受封而請山上
為采邑遂城焉加藤二嘗坐於巖上里人崇
祭之即今称加藤二座石者是也加藤二坐石在城郊
詳于下 
又曰加藤二嘗坐於巖上東望巖邑山
而定城焉所謂坐石是也

桐中将

一説。応仁・文明の頃に桐加藤次なる者が居て岩村に城を建てた事から桐城と名付けられたと云う。翻読すれば霧城である (桐、霧の読みはどちらもキリ)。

応仁の頃に罪を犯して遠方へ追放された公卿桐中将なる者が居た。たまたまある小民の家に立ち寄ると環堵蕭然 (家が小さく貧しいく寂しげ) で中に入ることも出来ない。主人は恭しく格子戸で席を設けてそこに座らせた。しかしもてなすにも食べ物がないため空の食器に二本の箸を置いて差し出した。桐卿はこれを見て主人の誠意を察しこれを食べた。桐卿はこの器と箸の絵を描いて主人に渡し、おまえはこれを衣器に飾り栄えを子孫に繋げよと言った。

その後、桐卿はその土地を領地とし、名を桐加藤次景友と改めた。小民家というのは村長の西尾家の祖先である (伝えによれば元の姓を山上と言い、河尻鎮吉の家臣の姓を頂いて西尾と改めたという)。現在でも遠山氏族がその絵を描いて衣器や鹵簿(ろぼ) (殿様の行列) を飾るのはそのためである (丸に二を書くのは箸を表し、#は格子席を表したものである)。

○一説曰應仁文明之頃有桐加藤次者始
城巖邑故名桐城飜訓霧城桐霧皆訓幾利曰應仁
之頃有公卿桐中將者有罪謫於此會入一
小民家環堵䔥然無由容膝主人恭設席於
格子戸於坐之又無食盤可饗故加二箸於
食噐以進桐卿視之察其誠欵而食之即手
畵其象賜於主人曰能飾汝之衣器垂栄於
子孫其後桐卿城於此更称桐加藤次景友
所謂小民者邑長西尾氏祖也其家傳言本姓山上為河
尻鎮吉家臣更姓西尾 
至今而遠山氏族亦畵其象以
飾其衣器及鹵簿者此也圏中畵二器加箸之形畵#者設格
子席之形也

一説。桐中将は罪あってここに流された。桐卿には美しくあでやかで深窓に長じた一人娘が居たが、父が罪をうけて落ちぶれてしまったため、人の誘うところもあり鳴海駅 (愛知県名古屋市緑区) へ歌女として売られていった。

娘の住処の傍らに草堂があり観音仏が安置してあった。しかしお堂は傾き崩れかけ屋根葺きも繕われていなかった。娘は父の濡れ衣を悲しみ朝夕お参りし祈願を怠らなかった。また風霜で仏像が痛むのを悲しんで笠で覆った。

あるとき天子 (天皇) が東道へ下ってそこに止宿した。その娘の容姿振る舞いがしとやかで美しいのを見て心からこれを愛し、京都へ連れて帰り側室とした。娘の家系を全て聞き桐卿の娘であることを知った。すぐさま陳情書を出して桐卿の濡れ衣を訴え、朝廷は桐卿の罪を赦免して朝廷に戻そうとした。しかし桐卿は既に岩村を領し治めていたため朝廷には戻らなかった。この子孫が名を遠山氏と改めた。

桐氏の娘が拝していた観音仏は現在鳴海の覆笠寺の本尊である。

○一説曰桐中將謫於此有一女美而艶長
於深窻迨父得罪而落魄為人所誘鬻於鳴
海驛倡女舎旁有草堂安置観音佛其堂傾
頽無人之補葺女悲父之寃日夕賽而禱請
不怠又傷風霜侵佛像以笠覆之會 天使
下於東道館于此見其女姿色閑婉心愛之
伴皈京而為側室悉問其家系而識桐卿之
女也即上疏訢桐卿之寃 天朝優宥桐卿
之罪而召之時桐卿既城巖邑自守之故不
肯皈朝其子孫更遠山氏桐氏女所禱之佛
即鳴海覆笠寺本尊是也

考察

城府の版築は話が入り乱れてでたらめも多い。しかし応仁・文明 (1467-1486年/室町) の頃を版築の始めとするのはきっと伝えられるところがあるのだろう。

応仁の乱によって公家は都を逃れ、土地は焦土と化し官吏の多くは身を置く場所がなく、遠い田舎を歩き回り地方諸侯に世話になるような者も往々にして居ただろう。桐卿が岩村に移り住んだ事もあり得る事である。しかし桐卿は版築には特に関わっていない[1]

建武以降 (1334年〜/室町)土岐氏が美濃で勢力を伸ばしており、遠山氏はその配下に着いていただろう。応仁・文明の間に土岐氏が衰退したためそれに乗じて遠山の諸族が競い立ち、岩村、苗木、明知、串原などで築城し固めたのである (俗に言う(いにしえ)七遠山あり後世に相統一す、とはこの時を指すのだろう)。

かつて読んだある小記は遠山氏世系についてとても詳しく述べていたが、景朝の下は全く記していなかった。直近の代が分かっていないという。また一方では大和守景広 (遠山景広?) を挙げ、その系統を受けて景廉16代目の子孫であるとしている。さらに景広を受けた左衛門尉頼景 (遠山頼景) を挙げている。

頼景が岩村の領主であったかどうかははっきりしていないが、八幡神社には永正年中 (1504-1520年/戦国) の棟札がある。永正は文明の20年ほど後であるし、頼景はまさに景広の子であるから、つまり城府を築いた者とは (文明年中に城主であったと思われる頼景の父の) 景広である。山上村が盗賊に苦しめられて加藤次が除いたというのは、つまり応仁・文明の乱であって、決して保元・平治の事ではない。

数々の素晴らしい勲績を持つ者の子孫は代々その呼称を用いようとするのが古くからの世間の例である。つまり岩村を領した遠山氏の者もまた自らを加藤次と称していたのである。衣器を飾る文様を小民にお与えになる様な話は、遠山氏自らが版築を指揮している時に空腹となったので民家を訪ねて食べ物を請うたが、その家は慌てふためいて食べ物を用意する暇もなく、箸二本を食器に加えた事によるのだろう。

この図は二つ引両の旗印 (足利氏が天下を征した時の旗) そっくりそのままである。領主がこれを見て家興しの兆しとし、遂に自家の旗に描いたのである (丸を加え二つ引両とは分けた)。その後にようやく兵力も大きくなったため、この文様を小民にお与えになり其の衣器を飾らせた。後世の人間が伝え訛って桐卿の話に混ぜたのである。

  1. ^ 中世で公卿を呼ぶのには殿を用いる。桐中将のような者はまず華族であるから桐殿と呼ぶものである。

○城府版築之説紛々多妄誕然以應仁文
明之頃為版築之始者則必有所傳矣蓋以
應仁之亂 天子蒙塵京幾焦土百官無措
身之地䟦踄於邉鄙而託身於藩鎮者徃々
有之如桐卿来居於巖邑之事或有焉與版
築之事殊不干渉中世公卿相呼以殿号如桐中将者必當為華族呼
桐殿者也
如遠山氏則固景廉子孫而世領遠山
者也蓋建武以降土岐氏始大於美濃而遠
山氏却隷其麾下至應仁文明之間而土岐
氏亦衰故遠山諸族乗其弊竸起以城巖邑
苗木明知串原等而自固者也俗言古有七遠山下相統
一蓋指此時也
嘗見一小記頗叙遠山世系景朝以
下斷而不記曰世次未審而挙大和守景廣
曰景廉十六世裔承以左衛門尉頼景永正
年中頼景主巖邑也分明有八幡造営之牌
永正距文明殆二十年當為景廣子也然則
始築城府者蓋景廣也若夫山上邑苦盗賊
而加藤次除之則當為應仁文明之乱必非
保元平治之事也國俗勲績昭著者之子孫
世々因用其称呼自古為例也然則遠山氏
城巖邑者又自称加藤次也至若賜飾衣器
之文於小民則疑夫遠山氏自督版築之事
而饑故突入民家請而食其家倉皇不遑供
食盤以進因加二箸於食器其像宛然于二
引両旗足利氏覇于天下之幟也 渠視以為興家之瑞也
遂畵自家旗加圏分二引两旗 其後兵勢浸大故又
賜其文於小民以飾其衣器也後人傳訛混
於桐卿也

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
Sponsored Link
ツールボックス
Sponsored Link