巖邑府誌/論城府版築之始

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城府版築の始めを論ずる

伝えによれば遠山氏が代々恵那郡を領していた事から概ね遠山荘と称する (荘とは田舎の意味で俗に言うように庄ではない)。

遠山氏の祖は加藤二景廉(かげかど) (加藤の二男という意) という。記伝を調べてみると景廉は伊勢の人で藤原氏の庶派であるという。あるいは古曽部永愷(こそべながやす) (橘永愷) の子孫であると[1]も云う。かつて祖父の蔵人(くろうど)某が加藤氏の女を娶った事から父景員(かげかず)は母方の加藤五を称した。

景員は豫州(よしゅう) (伊予国) 源氏 (名は頼義) に従い陸奥国(むつのくに)を征して武功を上げた。また景員は源左馬(さま) (名は義朝) に従って保元の乱で功を上げたが、左馬は平治の乱で破れて死んだ。敗走した景員は伊勢に隠れた。

景員は二子を設け、長男光員 (あるいは景光) は加藤太と称し、次男景廉は加藤二 (加藤次) と称した。

時に古市 (伊勢国度会郡古市荘?) の人間である伊藤某という者が源氏の徒党捜索に大変厳しく、景員と二子は共に伊藤を殺して伊豆に逃亡し工藤氏に身を寄せた。そこで源武衛(ぶえい) (名を頼朝、左馬の第三子) が義を唱えこれに従った。

治承4年 (1180年/平安) 秋8月、頼朝公は最初の挙兵で北条時政、佐々木等を遣わして八牧館 (山木館;山木兼隆の目代屋敷) を襲撃した (石橋山の戦い)。戦いに勝ったら狼煙を上げろと伝えていたが、何時まで経っても狼煙が上がらない。頼朝公は心配して手に偃月刀 (なぎなた) を取って庭中に立った。たまたま遅れて景廉が到着し、顔をこわばらせ血気盛んに参戦を請う。頼朝公はこれを勇ましく思い偃月刀を渡し、源氏の興廃は今回の挙兵にかかっている、おぬしがこれを勤めよと言った。

ここにおいて景廉の馳せること疾風の如し。八牧館兵も善く応戦し北条らも進退着かず勝負が中々決まらない。これを見た景廉は大きく吠えて敵陣に突入し館兵をなぎ倒した。遂に単身で館に乗り込み立ちふさがる何人かをことごとく倒して館主の兼隆の首を獲って狼煙を上げた。頼朝公はこれを見て喜び、景廉はその言に背かなかったとして何日経っても手厚く褒め称えた。

  1. ^ 永愷とは能因である。白川関を詠った秀逸な和歌があり世の称するところとなった。

  論城府版築之始

○傅言遠山氏世領惠那郡故槩称遠山荘
莊田舎也俗作庄非遠山氏祖曰加藤二景廉按記傳
曰景廉伊勢人藤氏庶族或曰古曽部永愷
之後永愷即能因也善倭歌有白川関之詠為世所称 祖父藏人某嘗
為加藤氏女婚故父景員冒母氏自称加藤五
加藤氏之先景通從源豫州名頼義 征東奥有
功景員又從源左馬名義朝 有保元之績平治
之役左馬敗死景員走隠于伊勢景員生二
子長日光員或作景光自称加藤太次曰景廉自称
加藤二時古市人伊藤某捜索源氏黨與甚
急景員曁二子誘殺伊藤奔伊豆客于工藤
氏逮源武衛名頼朝左馬第三子唱義而從之治承四
年秋八月公始挙義遣北條佐々木等襲八
牧館約曰戰克則挙燧久之不見燧公怖手
執偃月刀立於庭中會景廉後至慷慨請効
力意氣勃如公壮之手賜偃月刀曰源氏興
廢繁此挙卿其努哉於是景廉馳如疾風八
牧館兵又善戰北條等数進數却勝負未決
景廉見之即大呼突其陣館兵披靡遂單身
入館中格闘者數人皆死獲館主兼隆斬其
首挙燧公見燧喜曰景廉果而不負其言寵
侍曰渥矣

程なくして頼朝公は石橋山で敗戦。景廉は頼朝公とばらばらになり兄光員と共に甲斐源氏の元に敗走。父景員は筥根(はこね) (箱根) に逃れ生きながらえた。頼朝公が再び黄瀬川に兵を集めていると聞き、駆けつけてこれに従った。駿河監橘宗茂 (橘遠茂の間違い) を撃ち破り (鉢田の戦い) 敗走させる。既に頼朝公は関東を制覇しており加藤父子の勲績も多かった。

元暦2年 (1185年/鎌倉)、景廉は頼朝公の弟(かば)将軍 (名は範頼(のりより)) に従い平氏追討に西海へ赴くが (壇ノ浦の戦い) 病に伏して功績は無かった。これで平氏は滅びて凱還する。

建久10年 (1199年/鎌倉) 春正月日、頼朝公が鎌倉で死去。嫡子の羽林公 (名は頼家(よりいえ)) が家督を継いだが頼家公は酒色に溺れ(まつりごと)に親しまず、よこしまなことばかりを行っていた。

比企能員(ひきよしかず)の娘 (若狭局) が頼家の子源一幡(いちまん)を産んだ。能員は次第に母方の血縁者としての権力をほしいままにしていったため、北条政子の父時政は能員に危機感を抱いていった。

未幾公敗績于石橋山景廉失公
之所在與兄光員奔于甲斐父景員逃入筥
根皆得不死聞公復軍于黄瀬川而徃從之
撃駿河監橘宗茂破走之既而公覇于關東
父子多勲績元暦二年景廉從公弟蒲將軍
名範頼 伐平氏於西海罹疾而無功平氏亡
凱還建久十年春正月曰武衛公薨於鎌倉
嫡子羽林公名頼家 立公耽酒色不親政事奸
邪用事比企能員女生子一幡能員漸恣外
威之権外舅北條時政悪之

建仁2年 (1202年/鎌倉)、能員が乱を企てた (比企能員の変)。景廉は時政側に付いてこれを討伐、併せて一幡を殺し、また頼家公の将軍職を剥奪。代わりに右府(うふ)公 (名を実朝(さねとも)、羽林公の弟) を将軍に立て、羽林公の庶子源善哉(よしなり)をその世継ぎとした。秘密裏に羽林公を殺害したあと、善哉を鶴阜廟に出家させ名を公暁(くぎょう)と改めさせた。公暁は右府公を父の仇と怨んだ。

建保7年 (1219年/鎌倉) 春正月、右府公が鶴阜廟に参拝。景廉を遣わして警護をさせていた。公暁は女の服を着て右府公を石段で狙い殺害。突然のことでこれを捕らえることが出来なかった。景廉は右府公の横死を悲しんで剃髪し名前を覚佛と改めた。公暁は後に討たれた。

承久3年 (1221年/鎌倉) 6月、北条泰時(ほうじょうやすとき)は兵を挙げ京都の沈静に向かったが (承久の乱)、覚佛は老病のため鎌倉に留まっていた。8月3日に覚佛が死去。享年66歳であった。

建仁二年能員
作乱景廉從時政討平之并殺一幡尋而廢
公立右府公名實朝羽林公弟 以羽林公庶子善哉
為儲君使盗弑羽林公又廢善哉為僧奉祀
鶴皐廟更名公曉公曉怨右府公以為父之
讐也建保七年春正月公賽于鶴皐廟遣景
廉警衛非常公曉身著女服祖公於石階而
弑之事出於倉卒而不得賊景廉悲公之非
命而薙髪更名覚佛公曉尋而伏誅承久三
年六月北條泰時起兵靖上京之難覚佛以
老病留于鎌倉八月三日覚佛卒享年六十

遠山氏と書かれた物は一つもない。遠山譜によれば景廉は建久6年 (1196年/鎌倉) に遠山荘の封を受けたとしているが、これが何に基づくものなのかは不明である。しかし「文治元年 (1185年/鎌倉) 頼朝公は大江広元の策を用い守護・地頭を国衙・荘園に置いて天下を制する」とあることから、景廉が遠山荘の封を受けたのはまさに文治建久の間であろう。遠山譜はきっと伝えられた所があるものであろう。

無一書遠山氏者又無書受封於遠山之
事而遠山譜曰建久六年景廉受封於遠山
荘不知有何據也然観文治元年武衛公用
大江廣元策置守護地頭於國衙荘園専制
天下則景廉受遠山之封當在文治建久之
間遠山譜必有所傳矣

書きかけのページ このページは書きかけの内容が含まれています。この内容だけでは事柄を理解するのにまだ十分ではないかもしれません。

古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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