巖邑府誌/遠山世統

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:また景友は岩村城に城を築いたともいう。景友はかつて岩村の城垣を整備したのであろう。これが伝え訛って版築の始めとなったものである。また調べてみると飯羽間の守将右衛門佐友勝が苗木に入って領地を治めたともある。これは景友の子であろう。詳細は[[巖邑府誌/飯狭]]に記す。
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2009年7月11日 (土) 10:33時点における版

景廉(かげかど)
伊勢の人で加藤二と自称する。加藤五景員の子である。建久6年 (1195年/平安) 美濃遠山荘に封じられる。五階大夫で検非違使判官。承久3年 (1221年/鎌倉) 8月3日没。行事の詳細は前述
景朝(かげとも)
景村とも言う。景廉の子で行第は太 (長男)。最初に遠山左衛門尉と称する。また大蔵大輔い拝せられ、大和守と兼任する。没年はまさに建長年間 (1249-1255年/鎌倉)
景重(かげしげ)
三郎兵衛尉と自称。東鑑(あづまかがみ) (吾妻鏡) を調べてみると加藤次郎左衛門尉景俊と称する者が景朝と同時期に居る。これは景朝の弟であろう。また加藤三郎左衛門尉景経と称する者が建長以降に居る。家系に述べられている景重の事であろうと思われる。景朝に子がなく従姉 (甥) でその系統を継いだのだろうか。
景長(かげなが)
遠山孫太郎左衛門尉と自称する。文永以降 (1264年〜/鎌倉) の人物である。景朝の孫で行第も太郎 (長男) である事から孫の字を加えて分けた。

以上、4代の家譜が東鑑と一致する (ただ景経と景重の違いはあるが)。景長以下の家譜は載せない。東鑑が文永3年 (1266年/鎌倉) で終わっているためこれ以上を調べるすべがない。

景廉

自称加藤二伊勢人加藤五景員二子
建久六年封美濃遠山荘爵于五楷大
夫為檢非違使判官以承久三年八月
三日卒行事之詳見于前

景朝

一作景村景廉子行第太郎始称遠山
左衛門尉又拝大藏大輔兼任大和守
其卒當在建長年間

景重

自称三郎兵衛尉案東鑑称加藤三郎
左衛門尉景俊者与景朝同時蓋景朝
弟也又有称加藤三郎左衛門尉景経
者建長以降之人也疑家系所叙之景
重是也蓋景朝無子以從子承其統也

以上四世家譜與東鑑符唯有景經景重之異
景長以下家譜下載而東鑑亦盡文
永三年則無可推尋之策也

建武遠山某
文永から建武 (1264-1334年) までの約60年間の世系は分かっていない。太平記によれば建武の初めに後醍醐天皇が復位。諸侯に領地を与えたが差あり、美濃の遠山九郎と土岐頼遠が境界を争ってそれぞれを訴えた。景遠の訴えが直であったが遠山は帝の妾を賄賂で抱き込んだため朝廷の議決は景遠に反した。景遠の父景貞は元徳 (1329-1330年/鎌倉) の初めに後醍醐天皇の詔勅を承り北条氏を討ち取る。また正応 (1288-1292年/鎌倉) の末には頼遠が北条仲時を番馬駅 (滋賀県米原市の中山道番場宿) で要撃し討ち取っている。このように功績は多かったが褒賞は少なく、また争いの裁きに勝てなかった事で朝廷を深く怨んだ。このため足利氏の倒幕に真っ先に応じた。
太平記によれば建武2年 (1335/室町) 新田義貞が関東討伐の時の配下に遠山加藤五郎という者が居る。
太平記註によれば延元2年つまり建武4年 (1337/室町)、美濃霧城守将遠山三郎が城を捨て逃れ行方知れずと書かれている。上記の3項は同一人物であって、行第や行動は伝え写した者の訛りであろう。思うに遠山氏は一度ここで中絶したのだろう。
朝廉(ともかど)
景忠の父で加藤二と自称する。遠山の庶家で景忠の代に功を上げたため再び美濃遠山氏族として土岐頼康の勢力下に付いたのだろう。
景忠(かげただ)
安藝守と自称する。貞和から観応 (1345-1351年/室町) の人物である。
太平記によれば延文5年 (1360年/室町) 秋7月仁木義長に背き、伊勢に居た所を土岐頼康、佐々木崇永 (六角氏頼) らを遣わしてこれを討った。註によれば土岐先鋒の明知九郎、遠山新藤太らが戦死したと書かれている。新藤太は景忠の子か弟であろう。
頼景(よりかげ)
安藝守と自称する。明徳 (1390-1393年/室町) の人物である。
景基(かげもと)
伊豆守と自称する。応永 (1394-1427年/室町) の人物である。後太平記によれば応永6年 (1399年/室町) 冬、土岐詮直(ときあきなお)長森城で反乱を起こした時に遠山氏もこれに応じた (応永の乱)。幕府軍は土岐美濃守頼益を遣わして詮直を討った。詮直は負け遠山氏も皆逃げ去った。城は陥落し詮直は自害。ここでいう遠山氏族というのは景基らである。
景次(かげつぐ)
右京亮と自称する。永享 (1429-1440年/室町) の人物である。
景勝(かげかつ)
左京亮と自称する。康正 (1455-1457年/室町) の人物である。

朝兼以下6代は家譜に述べられている所からここに記す。当時遠山氏は勢力が小さく公表するような者も居なかったのだろう。

建武遠山某

自文永至建武殆六十年世系
未審太平記註曰建武始後醍
醐天皇復位大封功臣於是美濃人遠
山九郎曁土岐頼遠争疆場而相訟頼
遠訟辞直遠山賄帝幸姫故朝議負頼
遠元徳初頼遠父頼貞奉帝密詔討北
條氏而死之正慶末頼遠要撃北條仲
時於番馬驛殺之以為功多而賞少又
以争獄不克深怨朝廷迨足利氏叛而
首應之○太平記曰建武二年新田義
貞伐関東其麾下有遠山加藤五郎者
○太平記註曰延元二年即建武四年
美濃霧城守将遠山三郎棄城而不
知所之以上三條疑是一人而行弟錯
挙者傳寫之訛也想遠山氏至此而中

朝兼

自称加藤二景忠父疑是遠山庶族至
景忠有功而再承遠山氏統隷于土岐
頼康麾下

景忠

自称安藝守貞和観應人○太平記曰
延文五年秋七月仁木義長叛據于伊
勢遣土岐頼康佐々木崇永等討之註
曰土岐先鋒明知九郎遠山新藤太等
戰死所謂新藤太蓋景忠子弟也

頼景

自称安藝守明徳人

景基

自称伊豆守應永人○後太平記曰應
永六年土岐詮直以長森城叛遠山氏
族應之遣土岐美濃守頼益討之詮直
戦敗遠山氏族皆逃去城陷詮直自殺
所謂遠山氏族者景基等也

景次

自称右京亮永享人

景勝

自称左京亮康正人

朝兼以下六世據家譜所叙而録焉
蓋當時遠山氏勢微而無顕者也

景広(かげひろ)
大和守と自称する。景廉から16代目の子孫である。
伝えに言う応仁・文明 (1467-1486年/室町) の間に城府を築いた者とは景広である。康正・応仁 (1455-1468年/室町) の間は僅か10数年しか離れておらず景広は景勝の子か弟なのであろう。

これに小記に載せられている所を挙げ城府版築の始めとする。

景廣

自称大和守景廉十六世裔○傳言應
仁文明之間始築城府者是也康正應
仁之間相距僅十餘年景廣蓋景勝子
弟也

此挙小記所載可以證城府版築之
始也

頼景(よりかげ)
城上の八幡廟の棟札によれば「永正5年 () 冬12月藤原頼景奉造立」とある。
家譜では景勝の跡継ぎを景保としており、明知左衛門尉と自称する。永正 () の人物である。これは明知民部の祖であろう。
景友(かげとも)
牌子に大永4年 () 春2月4日遠山景友没すとある。
また景友は岩村城に城を築いたともいう。景友はかつて岩村の城垣を整備したのであろう。これが伝え訛って版築の始めとなったものである。また調べてみると飯羽間の守将右衛門佐友勝が苗木に入って領地を治めたともある。これは景友の子であろう。詳細は巖邑府誌/飯狭に記す。
景前(かげさき)
八幡廟の棟札に「天文16年 () 冬11月左衛門尉景前奉造営」とある。牌子よれば弘治2年 () 秋7月13日前金吾遠山景前没すとある。三河史を調べてみると文亀元年 () 今川氏親兵、三河を征した。棹舟公(諱は長親)、岩津で戦ってこれを破る。遠山景前は三河の配下であった。この年は天文16年から40年ほど後である。これはきっと記した者の間違いであろう。また享禄3年 ()、善徳公(諱は清康)が宇判城を落とした。守将熊谷直盛が敗走した。これで三河軍の鬨が遠近に震う。東美濃の城砦の守将らの多くは織田氏に背いてこれに応じたと。これによればつまり景前が三河配下に従った時代はまさに享禄・天文 () の間である事が明らかである。
景任(かげとき)
大井武並廟の棟札に「永禄7年 () 冬12月大和守景任奉造営」とある。後太平記によれば永禄7年 () 正月、北条氏康が里見義弘と下総鵠台 (国府台城) に戦い、北条の先駆遠山丹羽守、富永、河村らが皆戦死したと書かれている。天正の始めに尾原の砦将に遠山丹羽守なるものが居たがその系統だろうか。併せてここに記しておく。

以上、4代は金山記に従って記す。全て事実の痕跡を示すものがある。

頼景

城上八幡廟棟梁牌曰永正五年冬十
一月藤原頼景奉造立○家譜承景勝
以景保曰自称明知左衛門尉永正人
疑是明知民部祖也

景友

牌子曰大永四年春二月四日遠山景
友卒○或曰景友始城岩邑蓋景友嘗
修岩邑之城垣故傳訛以為版築之始
也又按飯場守将右衛門佐友勝入承
苗城之統疑是景友子也詳見于飯狭

景前

八幡廟統領牌曰天文十六年冬十一
月左衛門尉景前奉造営牌子曰弘治
二年秋七月十三日前左金吾遠山景
前卒○按参河史曰文亀元年今川氏
親兵略参河棹舟公諱氏親戦于岩津
破之遠山景前在参河麾下此歳跡天
文十六年殆四十年蓋記者之謬也又
曰享禄三年 善徳公諱清康拔宇利
城守將熊谷直盛敗走於是参河軍聲
震遠近東美濃城砦守將等多背織田
氏而應之據此則景前從参河麾下之
時當享禄天文之間時勢的矣

景任

大井武並廟棟梁牌曰永禄七年冬十
二月大和守景任奉造営○後太平記
曰永禄七年正月北條氏康与里見義
弘戰于下總鵠䑓北條先駈遠山丹波
守富永河村等皆戦死天正初尾原砦
將有遠山丹波守者蓋其先欤併附於

以上四世從金山記録之皆有事蹟
之可證也

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古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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