巖邑府誌/遠山子城

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== 大波羅城 ==
 
== 大波羅城 ==
'''大波羅城''' {{note|(大羅城)}} の所在は分かっていない。疑わしいのは尾原城跡と呼ばれている所である (言い伝えの遠山丹羽はこれによる)。甲斐史では大羅となっていて波の字がなくなっている。{{巖邑府誌 欄外注記|明知の南に小原という所がある。それとも大場戸だろうか。読みが近いので参考に挙げておく。}}
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'''大波羅城''' {{note|(大羅城)}} の所在は分かっていない。疑わしいのは尾原城跡と呼ばれている所である (遠山丹羽 {{note|(「丹羽氏聞書」か)}} の伝え言うところはこれである)。甲斐史では大羅となっていて波の字がなくなっている。{{蝿書|明知の南に小原という所がある。それとも[[大馬渡|大場戸]]だろうか。読みが近いので参考に挙げておく。}}
  
 
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甲斐の人間は知識が浅はかな者を指して{{ruby|阿天羅|あてら}}と言う。つまり方言である。
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甲斐の人間は知識が浅はかな者を指して方言で{{ruby|阿天羅|あてら}}と言う {{note|(阿寺城のアテラは日の当たらない場所という意味)}}。
  
 
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== 苗木城 ==
 
== 苗木城 ==
'''苗木故城'''は上苗木の福岡村にある。高森城と名付けられている。霧城 {{巖邑府誌 欄外注記|(霞城の間違いの恐れ)}} と言う。苗木譜によれば遠山左近 {{note|(遠山景友か?)}} が高森に始城し、後に出家して雲入と改める。城はその子の[[w:遠山直廉|勘太郎]]が継いだ。
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'''[[苗木城|苗木故城]]'''は上苗木の福岡村にある。高森城と名付けられている。霧城 {{巖邑府誌 欄外注記|(霞城の間違いの恐れ)}} とも言う。苗木譜によれば遠山左近 {{note|(遠山景友)}} が高森に始城し、後に出家して雲入と改める。城はその子の[[w:遠山直廉|勘太郎]]が継いだ。
  
 
勘太郎は豊後守と改めて[[w:織田信秀|織田信秀]]の娘 {{note|([[w:織田信長|織田信長]]の妹)}} を嫁に迎えて一女をもうける (信秀の妻は雲入の娘である)。豊後守が飛騨の三木[[w:監物|監物]] に討たれて跡を継ぐ子がいなかったため、[[w:遠山友勝|飯場守将右衛門左友勝]]がここに入って受け継いだ。信長は豊後守の娘を育てて武田勝頼に嫁がせた {{note|([[w:遠山夫人|遠山夫人]])}}。
 
勘太郎は豊後守と改めて[[w:織田信秀|織田信秀]]の娘 {{note|([[w:織田信長|織田信長]]の妹)}} を嫁に迎えて一女をもうける (信秀の妻は雲入の娘である)。豊後守が飛騨の三木[[w:監物|監物]] に討たれて跡を継ぐ子がいなかったため、[[w:遠山友勝|飯場守将右衛門左友勝]]がここに入って受け継いだ。信長は豊後守の娘を育てて武田勝頼に嫁がせた {{note|([[w:遠山夫人|遠山夫人]])}}。
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== 馬籠城 ==
 
== 馬籠城 ==
'''馬籠'''の湯舟沢山に古い城墟がある。明照城 {{note|(馬籠城の間違いか)}} の地は馬籠宿と近いと言われていることからここではないかと思われる。若干の古銭と銭に通す麻縄が掘り出されている。
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'''馬籠'''の湯舟沢山に[[馬籠城|古い城墟]]がある。明照城 {{note|(手賀野の[[阿寺城]]か)}} の地は[[馬籠宿]]と近いと言われていることからここではないかと思われる。若干の古銭と銭に通す麻縄が掘り出されている。
  
 
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== 中津川城 ==
 
== 中津川城 ==
'''中津川'''の寺峯山に古い城墟がある。また明照城 {{note|(中津川城の間違いか)}} の一名を幾登城という。言い伝えによると鳴瀬某という者がその城を守り中津川に近いという。これを指すのではないだろうか。地元の人間がそこを耕し仏像や矛先、矢尻などの類が掘り出されている。
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'''中津川'''の寺峯山に[[督ノ城|古い城墟]]がある。また明照城 {{note|(手賀野の[[阿寺城]]か)}} の一名を幾登城という。言い伝えによると鳴瀬某という者がその城を守り中津川に近いという。これを指すのではないだろうか。地元の人間がそこを耕し仏像や矛先、矢尻などの類が掘り出されている。
  
 
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== 千旦林城 ==
 
== 千旦林城 ==
'''千駄返'''<map name="千旦林城" lat="35.454212" lon="137.488778"/> {{note|(千駄林城、千旦林城)}} は大井の東の千駄林村にある。言い伝えによれば苗木の将である吉村源蔵の所有する領地である。源蔵の父を源斎と言い親子共々に勇ましいことで有名である。村の山に俗に源斎砦と呼ばれている砦跡があり、岩窟によって防衛拠点としている。林と返は読みが似ているため訛ったものである。
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'''千駄返''' {{note|([[千旦林城]])}} は大井の東の千駄林村にある。言い伝えによれば苗木の将である吉村源蔵の所有する領地である。源蔵の父を源斎と言い親子共々に勇ましいことで有名である。村の山に俗に[[源斎砦]]と呼ばれている砦跡があり、岩窟によって防衛拠点としている。林と返は読みが似ているため訛ったものである。
  
 
{{巖邑府誌 欄外注記|[[w:源斎岩|源斎岩]]と呼ばれる場所へ実際に行って見てみると、岐蘇川の上の断崖絶壁にそびえている。そこに登れば岩の上は岩窟である。地面に焼き麦のようなものを見つけた。言い伝えによれば源斎の粟や麦を貯えていたところだったが兵火で焼失したという。本当かどうかは分からない。}}
 
{{巖邑府誌 欄外注記|[[w:源斎岩|源斎岩]]と呼ばれる場所へ実際に行って見てみると、岐蘇川の上の断崖絶壁にそびえている。そこに登れば岩の上は岩窟である。地面に焼き麦のようなものを見つけた。言い伝えによれば源斎の粟や麦を貯えていたところだったが兵火で焼失したという。本当かどうかは分からない。}}
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{{古文書翻訳|巖邑府誌}}
 
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== 関連項目 ==
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* [[遠山十八支城]]
  
 
==外部リンク==
 
==外部リンク==
 
* [http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/ 美濃国のお城一覧 城郭放浪記]
 
* [http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/ 美濃国のお城一覧 城郭放浪記]
 
* [http://www.isekiwalker.com/ 遺跡ウォーカー]
 
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2010年9月7日 (火) 09:32時点における最新版

天正 2 年 (1574年/安土桃山)、三河より武田勝頼率いる 5 国の軍勢が侵入し、遠山子城およそ 18 砦を全て落とした。

遠山子城

天正二年武田勝頼率五國兵入自参河
悉取遠山子城凢十八砦

目次

[編集] 大波羅城

大波羅城 (大羅城) の所在は分かっていない。疑わしいのは尾原城跡と呼ばれている所である (遠山丹羽 (「丹羽氏聞書」か) の伝え言うところはこれである)。甲斐史では大羅となっていて波の字がなくなっている。明知の南に小原という所がある。それとも大場戸だろうか。読みが近いので参考に挙げておく。

○大波羅所在未審疑今称尾原城墟者是 ※1
傳言遠山丹羽拠之甲斐史作大羅脱波字也

※1 明知南有小原或大場戸乎國訓相近備参考」

[編集] 河野城

河野城または香野の所在も分かっていない。疑わしいのは河手城跡と呼ばれている所である。大坂の役で彦根侯の先鋒である河手主水という者が弱江で戦死したとかつて聞いたことがある。これは河手守将の子孫である。河野に疑わしいのは神箆(こうの)である。読みが近いので誤った。

これらの二城跡は三河伏瀬郷である。

○河野或作香野所在又未審疑今称河手 ※2
城墟者是也嘗聞之大坂之役彦根侯先鋒
河手主水者戦死于弱江即河手守将之裔

二城墟皆在参河伏瀬郷

※2 河野疑即神箆以國訓近誤也乎

[編集] 串原城

串原城串原記を参照。

○串原詳見于串原記

[編集] 今峯城

今峯城 (今見城) の所在は分かっていない。疑わしいのは山室城跡である (詳しくは下村記参照)。土岐世系によれば、土岐頼遠が討たれた後にその子の左馬介氏光が仁木義長の元で育てられ、氏も今峯に変えている。多分にその子孫が守っていたため今峯城という名前となったのだろう。

○今峯所在未審疑山室城墟是也詳見于下村記
土岐世系曰頼遠被誅其子左馬介氏光為
仁木義長所育更氏今峯盖裔守之故称今
峯城也

[編集] 明照城

明照城 (漆原城)漆原記を参照。

○明照詳見于漆原記

[編集] 明知城

明知遠山家の家系譜によれば、左衛門尉明知景保という者が永正 8 年 (1511年/戦国) に受けこの領地を開いたという (明智村は尾張である)。土岐氏を考えるとまた明智氏がある。明智次郎頼兼を祖として明智光秀の出た系譜である。考えられるのは明智家から出た妾の子が遠山氏に入る時に智と知と変えて明知と称して分かれたということであろう。明知の系譜によれば見樹公 (遠山景行か?) は民部と自称し、相模守として大場戸で戦死した。

家督を継いだ与介 (遠山一行か?) が兵を挙げたが、それほど経たないうちに武田勝頼が明知を取り、駆けつけた与介は木曽で戦死。次の子の龍護公は僧となって飯高山に居たが家臣が迎えられて立つ事にした。自らを勘右衛門と称して旧地七千石を取り戻すに至った。

甲陽史によれば武田勝頼が明知を攻めた時に岐阜の援軍が鶴岡山に集まっている。この山は明知の西北にあって一つの峯に諏訪峯と名付けられている。山の中に岐阜軍の砦跡がある。明知故城は今市陌の東である。また勝頼軍は大草に軍を集めたという。明知の東馬岐にある大草という地名がこれである。神箆村の属村にも大草というところがある。

○明智遠山家譜曰左衛門尉明知景保永
正八年受封開此其氏祖也按土岐氏族亦
有明智氏明智邑在尾張乃明智光秀所出也以明智次
郎願兼為祖 
疑明智庶子冐遠山氏者更称明知
以智更知以分之也明知世譜曰見樹公自称民
部又更相模守戦死于大塲戸嫡子明知立
未幾勝頼取明知與介走死于木曽次子龍
護公為僧在飯高山家臣迎立之自称勘右
衛門復故地七千石甲陽史曰勝頼攻明知
岐阜援兵屯于鶴皐山其山在明知西北一
名諏訪峯山中有岐阜軍砦趾明知故城在
今市陌東又曰勝頼軍于大草今有明知東 ※3
馬岐地名大草是也

※3 神箆村属邑亦有大草

[編集] 飯羽間城

飯狭城 (飯羽間城) の詳細は飯狭記参照。甲斐の軍士が詠んだと言われる歌がある。

信長()
今峯(いまみ)明照(あてら)()飯狭(いいばさま)
()明知(あけち)()
(つげ)()串原(くしはら)

信長は 「今に、阿呆め」と 言いながら 城を開けよと つげの櫛はら

甲斐の人間は知識が浅はかな者を指して方言で阿天羅(あてら)と言う (阿寺城のアテラは日の当たらない場所という意味)

○飯狭詳見于飯狭記於是甲斐軍士謠曰
信長波今峯明照也飯狭城乎明知登告能
串原甲斐人指智愿淺近者曰阿天羅(アテラ)乃方
言也

[編集] 阿木城

振田という城の所在は分かっていない。調べると安岐城[MAP] (阿木城) を堀田という者が守っていたと云う。振田と堀田は読みが似ているため安岐城を指すのではないだろうか。

○振田所在不審按安岐城堀田氏守焉振
田与堀田國訓相近盖指此弞

[編集] 苗木城

苗木故城は上苗木の福岡村にある。高森城と名付けられている。霧城 (霞城の間違いの恐れ) とも言う。苗木譜によれば遠山左近 (遠山景友) が高森に始城し、後に出家して雲入と改める。城はその子の勘太郎が継いだ。

勘太郎は豊後守と改めて織田信秀の娘 (織田信長の妹) を嫁に迎えて一女をもうける (信秀の妻は雲入の娘である)。豊後守が飛騨の三木監物 に討たれて跡を継ぐ子がいなかったため、飯場守将右衛門左友勝がここに入って受け継いだ。信長は豊後守の娘を育てて武田勝頼に嫁がせた (遠山夫人)

友勝が没してその子である久兵衛友秀 (遠山友忠) が城主となった。また友秀が没して弟の三郎兵衛友政 (遠山友政) が立った (名を久兵衛と改める)。友政は天正 10 年 (1582年/安土桃山)木曽を助け、明けて 5 月、苗木城は森長一に攻め落とされた。友政は浜松に敗走して菅沼氏に身を寄せていたが、慶長 5 年 (1600年/江戸初期) 9 月に苗木城へ戻る。領地一万石をもって築城し今に至っている。

○苗木故城在上苗木福岡邑名高森城一
曰名雲入其子勘太郎嗣更豊後守娶織田 ※4
信秀女生一女信秀妻乃雲入女也飛彈人三木監物
殺豊後無嗣飯場守将右衛門佐友勝入承
其統信長育豊後女嫁于勝頼友勝卒子久
兵衛友秀立友秀卒第三郎兵衛友政立又更
称久兵衛
天正十年友政援木曽明年五月森長
一抜苗木友政奔于濱松寄食於菅沼氏慶
長五年九月復皈于苗木釆地一萬石始築
今城居焉

※4 霧城恐霞城之誤

[編集] 馬籠城

馬籠の湯舟沢山に古い城墟がある。明照城 (手賀野の阿寺城か) の地は馬籠宿と近いと言われていることからここではないかと思われる。若干の古銭と銭に通す麻縄が掘り出されている。

○馬籠湯舩澤山有故城墟又謂明照城地
近馬籠驛疑指此也頃有人掘出古銭若于緡

[編集] 中津川城

中津川の寺峯山に古い城墟がある。また明照城 (手賀野の阿寺城か) の一名を幾登城という。言い伝えによると鳴瀬某という者がその城を守り中津川に近いという。これを指すのではないだろうか。地元の人間がそこを耕し仏像や矛先、矢尻などの類が掘り出されている。

○中津川寺岑山有故城墟亦謂明照城一
名與幾登城傳言鳴瀬某者守焉地近中津
川疑指此也土人耕其地掘出仏像及鋒鏑之類

[編集] 千旦林城

千駄返 (千旦林城) は大井の東の千駄林村にある。言い伝えによれば苗木の将である吉村源蔵の所有する領地である。源蔵の父を源斎と言い親子共々に勇ましいことで有名である。村の山に俗に源斎砦と呼ばれている砦跡があり、岩窟によって防衛拠点としている。林と返は読みが似ているため訛ったものである。

源斎岩と呼ばれる場所へ実際に行って見てみると、岐蘇川の上の断崖絶壁にそびえている。そこに登れば岩の上は岩窟である。地面に焼き麦のようなものを見つけた。言い伝えによれば源斎の粟や麦を貯えていたところだったが兵火で焼失したという。本当かどうかは分からない。

○千駄返大井東有千駄林邑傳言苗木将 ※5
吉村源藏所領也源藏父曰源齋父子以驍
勇著名邑山有其砦趾據岩窟為要害俗呼
曰源斎寨林与返國訓近故訛焉 

※5 今称源斎岩余徃見之絶壁断崖聳於木蘇川上登此岩上穿地得如焼麥者傳云源斎貯粟麦未定義文字 耳ケ.png也罹于兵火焼亡不知然否

[編集] 大井城

大井城の詳細は東之井記参照。

○大井詳見于東之井記

[編集] 瀬戸崎城

瀬戸崎城の所在は未だに分からない。苗木の東に瀬戸村があるがここではないだろうか。

馬籠が信濃であるのを除いて串原以下は恵那郡に属している。

○瀬戸﨑所在未藩苗木東有瀬戸邑疑指此也
串原以下皆属于惠那郡唯馬籠今属于信濃

[編集] 鶴峯城

鶴峯城[MAP]または鶴居は神箆村の山の鶴城古城墟である。土岐氏が代々これを守っている (関ヶ原の役では田丸の将、関甚兵衛という者が守っていた)。

○鶴峯或作鶴居乃神箆邑山鶴城故墟是
也土岐氏族世守焉関原之役田丸将関甚五兵ヱ者守焉

[編集] 高山城

高山城[MAP]は神箆の西南十数里にある。甲斐史によれば守将平井頼母の父子を殺すとある。

○高山在神箆西南十餘里甲斐史曰攻殺
守将平井頼母父子

[編集] 妻木城

妻木城[MAP]は高山の東南十数里にある。ここの将を妻木喜十郎という。この子の妻木雅楽は慶長5年の合戦 (1600年/江戸初期/関ヶ原の戦い) で我が軍に付き田丸氏の砦を攻め数々の戦闘を行った。

○妻木在高山東南十餘里其将曰妻木喜
十郎其子雅樂長慶五年之役應 䑓軍攻
田丸氏砦數与其兵戦

[編集] 幸田城

幸田城または米田城墟は妻木の北、肥田村の山にある (肥田は我が領地である)。森氏譜によれば天正 11 年 (1583年/安土桃山) に森永一が米田を攻めて守将肥田玄蕃が城を降りるとはここである。

鶴峯以下は全て土岐郡である。

○幸田或作米田城墟在妻木北肥田邑山
肥田為我領 森氏譜曰天正十一年森長一攻米
田守将肥田玄蕃降是也
鶴峯以下在土岐郡


古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

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